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【第百十三節/ヴィルニク 下】

 サウルの行動を察知出来たのは、居合わせた者の中でヴィルニクただ一人だけだった。咄嗟に盾で顔を庇い、閃光を防いだのだ。


 どうしてそんなことが出来たのかは、よく分からない。強いて言うなら、彼の持つ特別な直観力がそうさせたのだろう。事実ヴィルニクは、サウルが奇妙なそぶりを見せた瞬間、全身が氷になったような悪寒を感じていた。


 だが、閃光が瞬いた時、ヴィルニクにはさらにその先の未来が見えていた。先ほど感じた悪寒も、ただの危機感などではない、死の予兆なのだということも分かった。


(あぁ……厄介だなあ)


 そう思いながらも、ヴィルニクは駆け出していた。それでもサウルの速度に敵うわけがない。マスィルの前に立ったところで、満足に盾を構えることも出来ないだろう。


 その動きはサウルからも見えるはずだ。自分は、鎧は着ていても兜はつけていない。恐らく首を狙われるだろう。痛そうだな、と他人事のようにヴィルニクは思った。


 それでも恐れは無かった。ウドゥグの剣が首筋に突き立てられた時も、鮮血が迸り痛覚が灼熱した時も、ヴィルニクの心に一切の恐れは無かった。



「……ヴィル……ニク…………?」



 マスィルの震えた声が聞こえてくる。だが、それはずっと遠くから響いているように思えた。視界が急速に暗くなり、戦場の音が遥か彼方へと飛び去って行く。……いや、遠ざかっているのは自分の方なのだろう。


 昔、水練の最中に溺れた時のことを思い出した。あの時、輝く水面がずっと遠くに見えて、いくら手を伸ばそうとしてもどんどん自分は深みに落ちていく。その感覚とよく似ていた。




 ――僕は、死ぬか……。




 ヴィルニクの泰然とした精神は、こんな時でも呑気なくらいに自分の死を受容していた。


 だが、彼岸の向こうから聞こえてきた嘲りの声が、彼に残った最後の意識を呼び覚ました。




「馬鹿な野郎だ。他人のために死ぬ奴があるかよ」




 それは違う、とヴィルニクは言いたかった。


 だが、喉を通り口腔の中に溢れた血潮が言葉を遮る。舌に力が入らず、冷え切った神経は言葉を紡ぐことが出来ない。


 それでも声を大にして言いたかった。自分は犬死にするためにこうしたのではないのだと。


 己が守火手であるからこそ、己の継火手を信じるからこそ、全てを彼女に託して逝くことが出来る。ここで繋いだ命が、より大きな事を成し遂げてくれると信じている。


 マスィルには、それが出来るのだと。


(だから……)


 ヴィルニクは、自分の中で燃えている炎をかき集め、右手に集中させた。秘蹟サクラメントは回復にも使える……だが、今さらそんなことをしても無意味だ。


 サウルはとどめを刺したと思い込んでいる。実際、自分は死の淵にぎりぎり踏みとどまっているような状態だ。剣を引き抜かれれば、一気に血が噴き出て失血死するだろう。


(その、前に!)


 喉を貫くウドゥグの剣に力が込められる。瞬間、ヴィルニクは残った力と天火の全てを右腕に注ぎ、その刀身を握り締めた。


 腕が、鮮やかに弾ける炎に包まれる。


「手前!」


 サウルも察したことだろう。これは末期の痙攣などではない。残された力を振り絞って、剣をへし折るつもりなのだと。


 ヴィルニクには最早、身体を支えるだけの力も残っていない。崩れるようにその場に膝をついた。だが、剣を握った手だけは万力のように刀身を締めあげている。肩を踏みつけ力任せに引き抜こうとするが無意味だった。


 何故だ、と口に出しこそしなかったものの、サウルは確かに動揺した。


 ウドゥグの剣には血が大量に絡みついている。刀身も鋭い。血のぬめりで手から離れるか、あるいは指が切れ落ちるかもしれない。いや、そもそもそれ以前に、この男は死にかけている。いくら秘蹟サクラメントをかけられているとはいえ、どう見ても致命傷だ。頭にはとっくに血が回らなくなっているはず。


 にも関わらず、この執念は一体どこから来るのか。何がこの男に、これほどの力を出さしめているのか。


 仮にヴィルニクが喋ることが出来て「誇りと信頼があるからだ」と答えたとしても、サウルにはやはり理解出来なかっただろう。


 かつて何者も恐れず、深い闇を乗り越えてきたサウルの中に、かすかではあるが恐れや畏敬といったものが芽生えた。


 そしてウドゥグの剣が軋み、小指の爪ほどの亀裂が走る。


「このイカレ野郎!!」


 サウルは片手に持った伐剣を掲げ、ヴィルニクの脳天めがけて振り下ろした。だが、それが落ちる直前、オーディスの投擲した短剣が腕に当たり軌道を逸らせる。伐剣は鎧で覆われた肩にあたり、甲高い音と共に弾かれた。


 その音を頼りに、まだ目の開き切っていないカナンは飛び込んだ。細剣を捨て、明星ルシフェルを両手持ちに構えて斬りかかる。


 サウルはウドゥグの剣を手放せない。それをした瞬間、この戦いの趨勢は完全に決するのだから。


 だからカナンは、今度こそ確実に殺すつもりだった。温和な彼女ですら、完全に覚悟を決めていたのだ。今ならサウルは身動きが取れない。千載一遇の好機だった。


 だが、窮地における腹の括り具合では、やはりサウルの方が一枚上手だった。戦場で殺す覚悟を決めるのは当然のこと。そして、殺意を受け流すのであれば、それ以上の覚悟を見せつけるまでだ。


 だから、サウルは振り下ろされた明星ルシフェルを傷ついた右腕で受け止めた。刀身は肉に食い込むが、骨ごと断つには至らない。カナンが人斬りに慣れていないこと、視界が不明瞭であること、服の袖に仕込まれた梟の爪ヤンシュフの鋼線の束に当たったこと……いくつか理由はあるが、ともかくサウルはカナンの攻撃を受け止めた。


「っ、剣だけでも……!」


 カナンは即座に思考を切り替えた。本当は、人を斬った感触で脳内は飽和しそうになっているが、理性で動揺を押し殺して標的を変える。


 しかし、食らうと覚悟していたサウルの方が先に行動出来た。身体を捻り、カナンの腹に蹴りを叩き込む。不安定な状態から繰り出したとは思えないほど威力があり、思わず明星ルシフェルを手放してしまったほどだ。


 だが幸か不幸か、こうして胴を蹴られるのは大坑窟で経験済みだ。受け身の取り方や痛みの感覚を覚えている分、衝撃で我を失うことは無かった。


 それでも、再び危機的状況に戻ったことに代わりは無い。ヴィルニクの力も弱まっている。蹴られでもしたら、それで終わりだろう。マスィルは虚脱しているし、脚を斬られたオーディスではサウルの元まで踏み込めない。


 サウルが拳を振り上げる。


「くたばりやがれッ!!」


 その時、横合いから投げられた一本の伐剣が、ヴィルニクが掴んだままの魔剣を激しく打ち叩いた。回転しながら飛んできたそれは、衝撃とともに刀身の亀裂をさらに大きく広げる。


 その音が、衝撃が、ヴィルニクに最後の力を振り絞らせた。


 咆哮はあげられず、ただ口の中に溜まった血が泡立った。しかし、その最後の意志を表現するかのように天火が燃え盛る。


 一瞬だけ、光玉よりも燈台よりも眩い閃光が放たれ、それが消えた時、ウドゥグの剣は刀身の中ほどからへし折られていた。


 ヴィルニクの手から力が抜け、魔剣の切っ先がぽとりと地面に落ちた。


 同じように、彼自身もまた、前のめりに倒れ伏した。


 薄れゆく視界の中に、駆け寄ってくる一人の闇渡りの姿が見えた。


(ありがとう)


 イスラが伐剣を投げてくれなければ、自分はウドゥグの剣を折ることが出来なかっただろう。御蔭で、最後の最後に意地を通すことが出来た。礼を言葉に出来ないのが歯がゆい。


 そして、自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。泣きそうな声で、何度も、何度も。


「嫌だヴィルニク! お前が……死……!」


(やめなよ、マスィル)


 ヴィルニクは目を閉じた。泣き顔のマスィルなんて見たくなかった。


 記憶の澱みから昇ってくる泡にはどれも、勝ち気な彼女の表情ばかり映されている。模擬戦で相手を軒並み倒した時の得意げな顔、死地を潜り抜けた後の強がった顔、守火手に投げかけられた侮辱に激怒した顔。


 そして彼女が継火手になった日。


 照れて耳まで真っ赤になりながら、それでも真っ直ぐに緑色の瞳で自分を見据え、頭に手を置いてくれた時の顔を、ヴィルニクは思い出した。



河馬カバなんて妙な名前の僕を……皆からウスノロだって言われてた僕を、君は選んでくれた)



 マスィルなら、もっと良い家柄の男を守火手にすることも出来ただろう。他の煌都からでも、いくらでも立候補はあっただろう。自分より腕の立つ戦士を何人も呼んで、腕比べをさせることだって出来たはずだ。


 だが、マスィルは迷いなくヴィルニクを選んだ。「お前が一番頼りになる」と言って。



(君が選んでくれたことが、僕の誇りだ。そのためなら、命を捨てることだって惜しくない)



 言葉にして伝えたい。自分は何の後悔も抱かず死んでいくと。他の誰よりもマスィルのことを信じているのだと。


 だが、言葉の代わりに登ってくるのは血潮ばかりだ。言いたくても何も言えない。彼女を諫めることも、励ますことも、もう出来ないのだ。




(誰か。僕の、言葉を……)




 しかし、それを頼むことも出来ない。


 ヴィルニクは死んだ。




◇◇◇




「なんてこった……」


 サウルの手元には、刀身の半分を失った剣だけが残った。それはすなわち、彼が王たる資格を喪失したことを意味する。


 しかし何故だろう、悔しいという気持ちが全く湧いてこない。むしろ、ある種の感動や畏敬の念が沸き起こってくる。そんなものは踏みつけて生きてきたはずなのに、あの男が最後に見せた光が、サウルの網膜に焼き付いていた。


(こいつは一体、どういうことだ?)


 自分は、王になりたかったのではないのか。闇渡り達を糾合し、世界に戦火を広め、血まみれの玉座を勝ち取りたかったのではないのか。燈台が、天火が欲しかったのではないのか?


 それが本当の望みだったなら、魔剣を折られたのにこんな感情を抱くわけがない。溶岩のようにドロドロとした憎しみや怒りで全身が満たされるはずだ。だが、今の自分が抱いている妙に清々しい気持ちはどうしたことだろう。


(訳が分からねえ)


 頭の中は疑問符で一杯だった。それでも、突っ立ったまま斬られるほど間抜けではない。飛び込んできたイスラの斬撃を躱し、柄だけになったウドゥグの剣を投げつける。イスラは易々とそれを叩き落とした。


「あんたの負けだ」


 ウドゥグの剣が折れたことは周囲にも知れ渡っている。ここまでサウルについてきた闇渡り達も動揺を露わにしている。その上、左右両翼に展開していた都軍の別動隊も到着していた。包囲網が完成し、闇渡り達は各所で追い詰められている。


「そう思うか?」


 サウル自身も、満身創痍だった。左脚に瓦礫が刺さり、右腕及び右肩にはやいばを立てられた。右手に握っていた伐剣も負傷した時に取り落としたし、ウドゥグの剣も折れてしまった。それ以外にも、戦列を抜ける時に負った小さな傷がいくつもある。


 何より、もうカナンの法術を防ぐ術は無い。ふらつきながらも杖を拾い上げたカナンは、サウルに狙いを定めて詠唱を始めている。オーディスは背後にまわり退路を断っていた。


 それでもなお、サウルは生きる意思を捨ててはいなかった。昔、自分と同じ名前の博徒が放った言葉がある。


「賭博師は、手前てめえのツキを疑わねえ……」


 サウルは帯に取り付けられた二つ目の光玉を叩き落した。その動作を見た瞬間、オーディスは「目を守れ、イスラ!」と怒鳴り、彼自身も外套で顔を覆っていた。イスラも腕を交差させて顔を隠す。直後、先ほどと同じ暴力的な閃光が瞬いた。


 カナンは詠唱をやめない。片手で顔をかばいながら術を完成させる。


「我が蒼炎よ、御怒りの本流となり悪を滅せよ、出でよ断罪の光! 能天使の閃光エクシアス・ブレイズ!」


 杖の先端から蒼炎が迸り、魔法陣によって収束され一直線に進む。単純であるが故に強力な法術であり、カナンが最も得意とするものの一つだ。現に蛇百足の夜魔も、タロスも、最後はこの術で仕留めた。



 だが、サウルを殺すことは出来なかった。



 光線と化した炎は即座に闇渡りを襲い、跡形もなく消し去るはずだった。しかしそれは、二人の中間で何かにせき止められ、霧散する。


「そんな……っ!」


 カナンは即座に思い至った。一刻も早く勝負を決めようとしたばかりに、手放したままになっていたそれ・・のことを。


「見た目からしてただの剣ではないと思っていたが、まさか本当に法術を防いじまうとはなあ」


 光玉を落とした直後、左腕に残っていた梟の爪ヤンシュフで捉えたのは、蹴り飛ばされた際にカナンが手放していた明星ルシフェルだった。それを空中で法術にぶつけ、相殺させたのだ。


 そんなことが出来るという確信はどこにも無かった。以前に聖銀製の武器を見たことは何度かあるが、明星の特徴はそのどれにも当てはまらない。もしかすると派手なだけの伐剣である可能性もあったのだが、それならそれで、博打に負けただけだと割り切っていた。


 いまや、その金色こんじきの刃はサウルの手中にある。外れクジどころではない、柄を握っただけで、彼にはこの剣の凄まじさが理解出来た。


「とんだ拾い物だ。負け戦にしちゃあ、上々の戦利品だぜ」


 試し切りとばかりに、サウルは右腕に装備していた梟の爪ヤンシュフのベルトを切り落とした。貴重な旧時代の遺産だが、それだけに修理は出来ない。持っていても重りになるだけだ。


 イスラはそれまで携えていた剣を捨て、サウルの取りこぼした伐剣を手に取る。坑道内で奪った剣よりいくらかは上等な代物だろう。だが、それを長々と見守るサウルではない。イスラが身をかがめた瞬間に駆け出し、明星ルシフェルを振り下ろす。


「っ!」


 雑に扱ってはいたものの、その切れ味はイスラが一番良く知っている。剣を拾いこそしたものの、それで受けようとは思わなかった。受けたところで、刀身ごと斬られるのは目に見えている。


 転がるように刃の下をかいくぐり、身構える。だがサウルは追撃してこない。それどころか、その背中はどんどん遠ざかっていく。行き先は戦場と真逆……広大な森の中だ。


「イスラ!」


「分かってる!」


 ある者は追撃のために動き出し、またある者は現実を受け入れられず亡骸の前に座り込むだけだった。闇渡りの軍勢は方向性を失い、都軍と混じり合って混沌とした掃討戦に追い込まれていく。


 そんな狂乱の中、もう誰も、柄とわずかな刃のみになった魔剣に目を向ける者はいなかった。


 その残骸に影が這いより、呑み込んだ瞬間も、誰も見ている余裕は無かった。

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