戦場の
追い詰められた状況で捨て鉢になったか、あるいは虚勢を張っているのではないかと誰もが勘繰った。しかし、サウルの不敵な表情に嘘は見られない。
血を吸った外套は柳のように
「面白いこと言うなぁ、お嬢ちゃん。俺たちに降伏しろって?」
サウルは嘲笑交じりに言った。挑発に乗るカナンではないが、混沌とした殺意を向けられると知らず知らずのうちに手に汗が浮かんだ。
(
カナンの脳裏に、にわかにベイベルと戦った時の記憶がよみがえった。
ベイベルは圧倒的な
だが、恐怖はさほど感じなかった。イスラが隣に居てくれたことも大きいが、何よりベイベルの殺意はどこか遊び半分の無邪気さを含んでいて、真っ直ぐに向けられているという感じがしなかったのだ。
実際、ベイベルが戦う理由は、己の自我を補強するためという矮小なものだった。その精神面の脆さを突くことで、カナンはベイベルに勝利した。
だが、この男は違う。
どれほど相手を嘲っていようと、余裕を見せていようと、この男が人殺しで手を抜くことは絶対にあり得ない。それは、生きるか死ぬかという過酷な環境で鍛え上げられた経験があるからだ。
だから、この男には一切の容赦が無いだろう。どんな冷酷な手段であろうと、生き延びるためなら躊躇いはしない。
(……いえ、それでも私たちの優位は揺るがない。気圧されては駄目だ)
「貴方たちの突撃は失敗しました。もう逆転する術は残されていないはずです」
カナンは杖に意識を集中させた。権杖の先端で蒼い天火が輝く。トビアが詠唱を始め、また風向きが変わり始めた。
だが、その程度の脅しなどサウルにとっては何でもなかった。むしろ、この期に及んで降伏を勧めてくるカナンのお人好しぶりに愛おしささえ感じたほどだ。
「どうも、よっぽどお綺麗な場所でお育ちになったようだな。羨ましくって泣けてくるぜ」
「……もうこれ以上、警告する気はありませんよ?」
事実、カナンは次の降伏勧告を最後に、法術を放つつもりでいた。
法術を使えば一方的に勝負を決めることが出来るだろう。少なくとも、敵の士気は崩壊する。サウル本人がどう思っていようと、軍勢が瓦解すれば彼には何も出来ない。
だがカナンは、天火を人に向けて使いたくなかった。
それは慈悲などではなく、「天火は人のためにある物だ」という信仰に由来する。みだりに人に向けてしまえば、神から預けられたこの力は、ただの薄汚れた暴力へとなり下がる。それではベイベルと変わらない。
それに戦後処理のことも考えれば、力による鎮圧は決して最適解ではない。最早助からないと考えた闇渡り達は死兵と化し、都軍にも要らぬ被害が出るだろう。戦死者の遺族にも恨みが残り、それが巡り巡ってパルミラに返ってくるかもしれない。
だがやはり、カナンは甘い。それは別の場面では長所であるが、今、この場にあっては、何よりも邪魔なものだ。
「これ以上? まだ手を抜くつもりか?」
サウルの嘲弄に、カナンは咄嗟に身構えた。さすがにこれ以上待つつもりは無い。相手が相手だけに、早く法術を撃たなければこっちがやられる。
だが、カナンは法術の間合いを過信していた。
サウルに三十ミトラ以上の距離を詰める手段は無いと判断していたが、闇渡りの王にとってはその程度の不利を覆すなど造作も無いことだった。
サウルが腕を振ったと思った瞬間、カナンの杖に鍵爪のような物が絡みついていた。
「
「ッ!」
服の袖から、極細の鋼線が伸びている。その先端は鳥の足を模した鉤爪に繋がっている。ご丁寧に黒く塗装されたそれを暗闇の中で見分けるのは、本職の闇渡りでも難しいだろう。ましてやカナンには、その動作の素早さも相まって反応することさえ出来なかった。
殺傷力は無い。が、杖に意識を取られた時点で、既に法術の詠唱は途切れていた。その間隙を見逃すサウルではないし、彼が突っ込んで来ることはカナンにも分かった。
咄嗟に杖を投げ捨て、腰に差した細剣とイスラの
だが、激突はしなかった。カナンが剣を構えた瞬間、まるで突風のように彼女の脇をすり抜け、その後ろ……風術の詠唱に入ったトビアへ向かう。
「しまった!」
思わず口に出していたが、カナンの足では追いつけない。「逃げて!」と叫ぶのが精一杯だった。
「とりあえず小僧を殺せば法術は使えないわけだ……なあ!?」
「っ……!」
二本の血刀がトビアの瞳に映った。
誰も助けてはくれない。襲い掛かってきた他の闇渡りを捌いたり、飛んでくる矢を防ぐのでやっとだ。
イスラも、いない。
それでも今は……戦うことは出来なくても、逃げることならできる。
サウルの剣が届く直前で、トビアは詠唱を終えた。
「空に踊る者達、風の眷属よ。契約に従い、我が身を運べ!」
魔力を帯びた風が、刺青を施されたトビアの両腕に絡みつく。それは草を揺らし砂埃を巻き上げ、トビアを夜空へと持ち上げた。緑色の魔力によって練り上げられた風は、まるで鳥の翼のように広がり、少年の身体を宙で支えている。風鳴とも羽ばたきともとれるような音が剣撃の音を掻き消した。
「で、出来たっ!」
フィロラオスに理論を学び、実際に何度も練習を繰り返してきた術が、この土壇場で役に立った。その事実に、トビアは思わず喝采を上げた。
容易な術ではなかった。身体を浮かすことは出来ても制御が出来ず、何度もティベリス川に頭から墜落したものだ。扱う魔力の量は桁違いに多く、その分意識を集中させなければならない。そうした集中力や持続性は、確かにイスラの元では身につかなかっただろう。
人が空を飛ぶ、という前代未聞の光景に、誰もが目を奪われた。闇渡り達でさえ茫然とした表情で空を見上げている。
冷静に次の一手を打てたのは、サウルだけだった。
「こけおどしだろうがっ」
両方の袖を振るい、中に隠してあった
だが、途中までは勢いよく伸びた爪も、トビアを包む風の翼に巻き込まれると、たちまち力を失った。矢も同じで、軌道を逸らされてあらぬ方向へ飛んでいく。
そして、人を浮かせるだけの風が吹いているのなら、ウドゥグの剣が生み出す霧も文字通り霧散させられてしまう。
「私に躊躇いは無い、吹っ飛ばしてやる!」
マスィルは、誰よりもこの瞬間が来るのを待ちわびていた。最初にカナンが威嚇を行ったが、あんな歯がゆいことをする理由が分からない。魔剣の攻略法が分かった時から、マスィルの頭にあるのは、サウルに法術を叩き込むことだけだった。
「我が彩炎よ、雷光の如く仇を散らせ、
サウルの足元に魔法陣が開く。明確な殺意を感じ取ったサウルは、それが展開し切る前にその場から離れていた。
直後、魔法陣から飛び出した火の玉が花火のように弾け、無数の爆音と共に周囲を鮮やかに照らし出した。吹き上がった土煙が風術に巻き込まれ、居合わせたすべての人間の視界を奪った。
「やっては……いないか……!」
術が発動する直前で、確かにサウルは回避していた。逃げられる可能性も考慮して範囲型の術を使ったが、返って威力が分散してしまったかもしれない。
果たして、土煙の向こうに起き上がる人影が見えたとき、マスィルは落胆を隠せなかった。
だがこちらが有利なことに変わりはない。トビアの術が展開している以上、こちらは法術を使い放題だ。カナンがどう言おうが知ったことではない、反撃など許さず一気に叩き潰すまで。
「甘いよ?」
突如、足元の影が揺らめいた。
さざ波のようにのたうちながら一点へと集められたそれは一本の腕を模り、風など物ともせずに空へと伸びる。トビアがその存在に気付いたのは、足首をしっかと掴まれた時だった。
「これは……!」
忘れようにも忘れられない。腕に引き寄せられる物理的な衝撃と、精神的な衝撃とが、同時にトビアを襲った。
我に返るのが少しでも遅ければ、術による受け身もとれず、全身の骨を砕かれていたかもしれない。叩きつけられる直前に何とか術を使うことが出来たが、それでも肺は悲鳴を上げた。頭の中が真っ暗になり、意識が暗闇の中へ溺れていく……。
(駄目だ!)
気絶しかけたその時、トビアの内側から、彼自身を叱咤する声が聞こえた。それが気つけ薬となりトビアは目を覚ました。同時に痛みも登ってくるが、そんなものなど関係ない。ただ、
彼女は、すぐ近くにいた。どうしてこんな場所にいるのか、何故闇渡りの味方をするのか、聴きたいことは山ほどあった。だが、いざ言葉にしようとすると、何も浮かんでこない。トビアはただ、茫然と彼女の名を呼ぶことしか出来なかった。
そしてサラもまた、この場でトビアと居合わせたことに、困惑を隠せなかった。
「わたしたちって、こんな会い方しかできないんだね」
そういう口調は、トビアの気のせいかもしれないが、どこか悲し気だった。
◇◇◇
爆炎に吹き飛ばされ、跳ね起きた時、サウルは左脚に鋭い痛みを感じた。
見ると、飛んできた岩の欠片が太腿に刺さっている。
「チッ」
舌打ちしつつ破片を抜き取り、外套の一部を割いて手早く応急手当を済ませる。だが、しばらくは全速力で走ることも出来ないだろう。
「脚は潰したぞ、闇渡り」
煙をかき分けて、戦斧を携えたマスィルとヴィルニクが姿を現す。サウルは嘆息しつつ左右に視線を向けた。
右手にはオーディス、左手にはカナンが、それぞれ武器を構えて立っている。
サウルは剣を握ったまま、その柄で頭をゴシゴシと擦った。
「やれやれ、さっきよりも拙くなっちまった……けど、まあ、な……」
サウルは両手をだらりと下げた。無論、降伏の姿勢ではない。
「まだ、勝負が決まったわけじゃねえよ」
そう呟き、サウルは一直線に駆け出した。