パルミラ都軍の総司令官ラエドは、その軍歴を都外巡察隊隊士より始めている。部隊長、総隊長と昇格して後、街道警備隊に配属。そこでも功績を積み、ラヴェンナ方面を受け持つ千旗長を任される。十年間の勤務を経てパルミラ議会に召喚され、商人会議より将軍職を任じられた。
歳は六八。頭の半分は白髪、半分は禿げているが、顔立ちに弛んだ所は少しも無い。歳のせいか、さすがに腰も曲がり気味ではあるが、足取りは若者にもひけを取らず、剣を握れば並みの戦士など軽く捻ってしまうだけの技量がある。
年齢的には引退していてもおかしくはないが、それでも現場に留まり続けていることが、この老将の性格を表している。一戦士として、また前線指揮官としても、十分な経験を積んだ人物だ。
だが、パルミラ都軍の総力を挙げた作戦は前代未聞だし、三千人以上の闇渡りを一度に相手取るのも、同様に初めてのことだった。
「やれやれ、こんなに心細い気分での出陣は、初陣以来じゃ」
幕屋の中で駒を眺めていた将軍は、疲れ混じりの溜息を漏らした。
「閣下ともあろう方が、すいぶんと弱気な言葉ですな」
老将軍の弱音をたしなめるように、参謀長のナザラトが返した。
いかにも軍人といった風態のラエドと逆に、ナザラトは頼りないくらいにひょろりとした中年男だ。胸板が薄く、女と押し合いをしても負けそうなほど貧弱な見た目をしている。
だが、軍官僚としての実務能力においては右に出る者の無い程の逸材だ。現に、エリコからの連絡があってから、わずか半日で出撃準備を完了させている。命令系統の整備や動員時の手続き等は平時から徹底しているが、それにしても神業的な仕事ぶりだった。
何より、他の参謀や指揮官たちが歳の差や年功を意識して萎縮するのに対して、ナザラトは臆するところが少しも無い。その奇妙な豪胆さがラエドにはかえって有難かった。
今、こうして弱音を吐くことが出来るのも、幕屋の中にナザラトしか残っていないからだ。
「こんな状況で胸を張っていられる貴様は、儂以上の勇者じゃな」
「お褒めに預かり光栄です」
ナザラトは鷲鼻の上に乗った眼鏡をクイと持ち上げた。皮肉だと気付いているのかいないのか、鉄面皮からは読み取ることが出来ない。
「パルミラの命運はこの一戦に掛かっておる。敗北はもちろんのこと、敵を完全に叩けなければ、森や砂漠で連中と鬼ごっこをする羽目になる。戦略的敗北じゃよ」
「しかし、我が軍は敵陣を完全に包囲しています。敵後方には山岳地帯が広がり、とても脱出出来るような状況ではありません」
「それは、そうじゃ」
ラエドは指揮卓の上に乗った駒に手を伸ばした。
現在、パルミラ都軍は兵力を大きく三つに分け、闇渡り達の立てこもる廃坑を包囲するように展開している。
左右に振り分けた部隊は、それぞれ二千名で構成されており、中核にラヴェンナ、ニヌア両方面の街道警備隊を八百名ずつ抱えている。街道警備隊は本来千名が上限だが、いくら戦時とはいえ街道を全く無防備にすることは出来ない。これが連れて来られる限界人数だった。
同じ理由で、ラエドの本陣周辺に待機した都外巡察隊も、最大数よりわずかに少ない三百名程度だ。
本隊はパルミラ都軍五千名で構成されているが、実戦経験を持っている者はほとんどいない。訓練は十分に積んでいるが、個人の技量では敵とは比べ物にならないだろう。
他に、ナザラト肝入りの工兵隊や輜重隊、伝令、さらに三十名の継火手と守火手を加えて、およそ一万人が全兵力となる。
「戦いにおいて、経験に勝る味方は存在せん。その点に限れば、我が方は大半が戦の素人。対して敵は、戦うことを生業としているような連中じゃ。一人仕留めるのに、都軍の兵士では三、四人が必要じゃろうな」
「しかし、これがパルミラに出せる最大限の戦力です。あとは何とかやりくりする他ないでしょう」
まるで赤字を気にする商人のような言い草だった。この呑気さというか、豪胆さにはほとほと呆れるほかない。
ラエドはうめき声を漏らしながらパイプをくわえた。すかさずナザラトが火打鉄を差し出す。「ありがとう」短く礼を言ってからラエドは火をつけ、煙を心ゆくまで味わった。
「確かに、後はやってみるだけ、か」
ふと、先程幕屋に現れた少女のことを思い出した。
「ナザラト。もう一つ駒はあるかね?」
「こちらに」
「ふむ……」
参謀の差し出した駒を、ラエドは本隊の後ろに置いた。難民団の代表を名乗る少女が陣取っている場所が、まさにそこなのだ。
「あのカナンとかいう娘じゃが、五十名程度の手勢でどうするつもりかの」
「お尋ねにならなかったのですか?」
「状況に応じて適宜対応するとのことじゃ。何も言っていないのと同じじゃな」
臨機応変という言葉は、無能者が使う便利な単語だ。だが彼女は、到底その場しのぎの繕いをするような人間には見えなかった。明らかに、何か確固たる意志を持って動こうとしている。
敵であるとは思わないが、いささか不気味でもあった。制御出来るならそうしたいが、生憎商人会議からは独自行動の権限を与えられている。命令系統は完全に独立している。
「さて、この駒が吉と出るか凶と出るか……」
「奇貨居くべし、と故事にあります。期待することにしましょう」
◇◇◇
幕屋の中でのやり取りとは別に、カナンもまた考えを巡らせていた。主戦場となるであろう丘陵を見下ろす位置で、岩の上に腰かけ物思いにふけっている。
都軍が到着するまでの二日間に、出来る限りの準備は整えた。軍上層部とも一応の連携を取っている。あとは戦いが始まるのを待つばかりだが、未だ何の音沙汰も無いイスラの存在が気がかりだった。
敵が動かなかったことが、イスラの工作によるものなのか。それとも最初から動く気は無かったのか。だとしたら、次にイスラはどんな行動をとるだろう?
直接敵の首領を討ち取ろうとするかもしれない。だが以前ほど無理な攻め方をするようには思えない。彼は成長している。だとすれば、何か搦め手や策を用いるだろう。それは何か……。
「彼のことを考えておいでですか」
ふと我に帰ると、すぐ後ろにオーディスが立っていた。カナンは取り繕うように微笑を浮かべる。
「分かりますか?」
「それが見抜けないほど、鈍感ではないつもりです。……彼の行動は、私にも予測がつかない。しかし、むさむざ討たれるとも思えない」
「当然です。イスラは……こんな所で死んだりしません。私は信じています」
「良い信頼関係を築いておられるようだ」
オーディスは目を細めた。どこか懐かしむような、あるいは悔いるような。その眼差しの意味を、カナンには朧げに想像出来た。
「貴方達も、そうだったのではありませんか?」
「言うまでもありません。私は彼女に全てを捧げるつもりでした。同様に彼女も、私に対し無上の信頼を寄せてくれた。……ただ、武運が足りなかったのです」
「……」
彼の歩んできた道のりについて、聴きたいことは沢山あった。それこそが、カナンがエデンを目指す切っ掛けになった物語だからだ。
だが、今はそんなことに現を抜かしている場合ではない。自分にはやらなければならないことがある。まずは目の前のことを成し遂げてから考えるべきだ。
カナンは話題を変えた。
「この位置に布陣したことに、意味はあるのですか?」
「もちろんあります。敵がどう動くにせよ、ここが一番美味しい位置取りになるはずです」
「分かりました。信じます」
自分は、用兵についてはほぼ素人同然だ。一応基礎的な部分こそ習ったものの、実戦で活かせるような代物ではない。その点、オーディスは過去に一軍を率いた経験がある人物だ。戦術に関しては、すべてこの部外者にゆだねることにしていた。
「やあ、こんな所にいた」
場にそぐわない呑気な声と共に、守火手ヴィルニクがのっそりと姿を現した。
「こちらの準備は整いましたよ。マスィルも、今か今かとうずうずしてます」
「あはは……火花の継火手の噂は、たびたび耳にしていましたよ。でも、噂以上に情熱的な人ですね」
マスィルの人となりに情熱的という言葉を用いたのは、カナンなりの気遣いだった。だがヴィルニクは申し訳なさそうに「あんな子ですみません、ほんと」と謝る。実際、口を開けば常に喧嘩腰のマスィルに、難民団の面々も辟易しているのだった。
「不思議だな。君のような性格の人間が、彼女の守火手だなんて」
オーディスに苦笑交じりに言われると、同じくヴィルニクも苦笑で返した。
「まあ腐れ縁ってやつです。マスィルの傍にいたら、自然と人格が
「やりづらいと思ったことは?」
「何度も。でも、それでも良いんです。僕はマスィルの守火手ですから」
そう言い切ったヴィルニクの表情は、とても晴れやかだった。継火手マスィルの守火手であることを心の底から誇っている。二人の間にどんな
「とっつきにくい性格ですけど、あれで他人に対する情は人一倍強いんです。‥…今回の一件で、最初に犠牲になったのが彼女の知人でなかったら……ここまでピリピリすることも無かったと思います」
ベルニケの死、そしてエリコの攻防戦で、マスィルの自尊心がどれだけ傷つけられたか、長年付き添っているヴィルニクには容易に理解出来た。と同時に、それが彼女一人の怒りに過ぎないことも分かっていた。個人的な怒りを他者にまで押し付けてしまうのは、マスィルの悪い癖だった。
「……カナンさん、オーディスさん。僕らの狙いは、敵の首領の首ただ一つです。でも、そこは間違いなく激戦区になる。万一マスィルが危機に陥ったら……助けてやってくれませんか?」
ヴィルニクは深々と頭を下げた。
戦場では何が起きるか分からない。そのことは、ここ数日で散々思い知らされた。戦争という大きな渦のなかでは、個人の力で出来ることなどたかが知れている。
だから、万が一を考えて、マスィルのことを託しておかなければならない。もちろんそれとて、ただの保険に過ぎないのだが。
「一緒に戦う以上、私たちは仲間ですよ。窮地に陥れば助けるのが当然です。……左肩を貸してください。まだ完全に治っていないのではありませんか?」
「……気づかれてましたか」
エリコの戦いの時に負った傷は、まだ鈍い痛みとして残っている。これでもずいぶん楽になった方だが、マスィルの天火だけでは完治には至らなかった。
カナンはヴィルニクの左肩に手をかざし、蒼い天火を宿らせる。それを押し込むように、そっとヴィルニクの肩に注ぎ込んだ。
「ありがとうございます。おかげで、ずいぶん楽になりました」
「いえ……癒しの法術でも、慣れた天火ほど効果は見込めません。くれぐれも無理はしないでください」
「当然です。僕だって、まだ死ぬ気はありませんよ」
「そうですね。……誰だって、そうに違いありません」
だが、どれだけ固く誓ったところで、流血の定めからは逃れられない。
皆そのことは理解していたが、あえて口には出さなかった。