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【第百七節/イスラの黒い情念】

 サウルに用意された部屋で、イスラは寝台に横になり考えにふけっていた。


 部屋と言っても大したものではない。もともと工夫を泊めるための場所だったのか、ほとんど独房に近いような窮屈さだ。寝台にはちゃんとした布団が敷かれていたり、酒の入った瓶やグラスが置かれていたりと、一応部屋としての体裁を整えようとした跡はあるが、かえってみすぼらしさを引き立てているだけだった。


 それでも一人になれる場所があるのは有難い。


 サウルと接してみて、色々と分かったことがある。


 敵の戦略や天火の行方、サウルの器量。大方知りたいと思っていたことを、勝手にベラベラと喋ってくれた。


「あいつは、大したことないな……」


 あの慢心ぶりや迂闊さといい、到底王を名乗れる器ではない。なまじカナンの苦労を知っているだけに、サウルの杜撰さはいっそ哀れなほどだった。


 側近連中も、揃いも揃って頭の悪そうなのが揃っている。唯一、アブネルだけが目を光らせているが、立場の問題もあって諫言を控えているようだった。


 あるいは、質の悪い部下ばかりだと自覚があるからこそ、自分を引き込んだのかもしれない……イスラはそう考えた。


「付け込むことは出来たけど、さてこれからどうするかな」


 元々、彼らの動きを妨害する目的で潜入したのだが、完全に目論見が外れてしまった。それどころか、この情報を外に持ち帰らなければ最悪の事態になりかねない。恐らく出ていくことは可能だろうが、そうなれば今度はサウル達に警戒心を呼び起こしてしまう。結果、砦から打って出られたら元も子もない。



 採るべき道は一つ。彼らが作戦を決行する段階で、イスラがそれを台無しにすることだ。



 我ながら、いくら何でも無茶苦茶だという自覚はある。妙案も無い。無策のまま行動すれば、いくら力を付けたとはいえ簡単に切り刻まれてしまうだろう。


「どうしたものかな……」


 両手を頭の後ろで組んで、ごろり寝転がる。「行き詰った時は眠って過ごせ、ってか」闇渡りの格言を引用しつつ目を閉じた時、吐いた言葉を裏切るかのように部屋の扉が開いた。


 一人の女が入ってきた。


 肩や脚、腹の出た扇情的な衣装以前に、彼女の纏う雰囲気そのものが、彼女の仕事・・を如実に語っていた。手には香の混ぜられた蝋燭を持っている。媚薬の混ぜられたそれは、仕事道具の一種だ。


「……王様の気遣い、か?」


 嘆息しつつ寝台から身を起こし、イスラは女に問いかけた。まだ若い。歳の頃は、イスラやカナンと同じ十七、八といったところだろうか。闇渡りの女が最も高値で買われるのはこのくらいの年齢なのだ。サウルにしてみれば、一番美味しいところを譲ってやった、といったところだろうか。


「そうだよ。せっかくあの人に目を掛けてもらったのに、一人で過ごすなんて勿体ないよ?」


 女は滑るような足取りでイスラの横に腰を下ろした。枕元に蝋燭を置き、イスラの肩にしな垂れかかる。下から覗き込んでくる顔を、イスラもまた見つめ返した。


 王が囲うだけあって、確かに綺麗な娘だった。闇渡りであるのに、白い肌にはほとんど傷跡が無い。部族の中で大切に守られてきた証拠だ。将来、良い「商品」になりそうな娘に傷がつかないよう囲い込むのは、闇渡りの間では常識である。


 黒く長い髪には香が擦り込まれている。小さな顔には、髪と同じ黒い瞳がはめ込まれている。世慣れした、相手を測ることに長けた目だ。


 身体が疼かなかった、と言えば嘘になる。確かに魅力的な娘であるのは間違いない。


(でもな……)



 目を閉じると、浮かんでくるのはただ一人の顔だけだ。


 たとえ、触れることさえおこがましいと思っていても……。



 イスラは娘を優しく突き放した。それが合図だと勘違いしたのか、娘は寝台の上にぱたりと倒れ込む。だが、イスラは「悪いな」と言った。


「わざわざ来てくれて嬉しいんだけどさ、今はそんな気分じゃないんだ。引き上げてくれよ」


 いくらか後ろめたさは感じていたから、イスラはあえて優しく声をかけた。どの程度この「仕事」を好いているのかは分からないが、一人の女として、ほとんど触れられることも無く追い返されるのは業腹だろう。


 そういう考え方をすること自体、男の傲慢さや偽善に他ならない。ただ、他人の心を読めない以上、ある程度独断に頼って行動しなければならないのは、人間のさがだ。


「なによ、つまんない男」


 娘は身体を起こしてふくれっ面を浮かべた。険のある言葉だが、口調や態度は艶やかだ。まだあきらめてはくれないらしい。


「ひょっとして緊張してる? 初めて、ってわけじゃないんでしょ?」


「どうだろうな」


「そういう返し方するやつって、大体二択なんだよね。童貞か、よほど場慣れしてるか。あんたは絶対に慣れてるほうだよ。ちょっと顔が怖いけど、格好良いもん。よく言い寄られるんじゃないの?」


 思わず苦笑いを浮かべてしまった。


 そう言われるのは満更ではないが、今、こんな場所で聞きたくはなかった。


 カナンが自分のことをどう見ているかなんて、考えたくもない。


「何さ、その顔」


 イスラの微妙な表情を見て取った娘が、いよいよ不満げな声で言った。


「あたしが何か、変なことでも言った?」


「別に。さ、これ以上ここに居ても時間の無駄だぜ」


 自分にとっても、あまり触れたり考えたくない話題だった。早くこの娘を遠ざけてひと眠りした方が、よほど身のためだと思った。


 それでも娘は食い下がってくる。よほど高い報酬を提示されたのか、それとも彼女自身が言った通り「気に入られて」しまったのか。どちらにせよ、イスラ本人が乗り気でない以上、付きまとわれても鬱陶しいだけだった。


「分かった、好きながいるんだねっ」


 とうとう溜息が出てしまった。


 一番触れられたくない話題だった。


「ああそうだ。だから出て行ってくれ」


 半ば投げやりに返すが、娘は人間慣れしているせいか、イスラの態度など物ともせずに踏み込んでくる。いささか自信過剰なところもあるのかもしれない。自分のような魅力的な存在が、すげなくあしらわれることなど無いと思っていた。


 多少ずかずか突っ込んだところで、本気で追い払われることなど無いと。


「闇渡りのクセに、馬鹿だねえ。その娘だってどうせあたしらと同じ淫売なんだから、義理立てする必要なんか無いよ。それとも、その娘だけは違うって思ってたりする?」


「おい」


「闇渡りなんて、みんながみんな、どこか薄汚れてるんだからさ。小難しいことなんて考えないで……」


「黙れッ!!」


 イスラは娘の腕を掴み、有無を言わさずに引き立たせた。「ちょっ、痛いって!」娘が抗議の声を上げるが、今の彼の耳には届かなかった。これでも自制を利かせている方だと思う。


 部屋の戸を開き、ほとんど投げ捨てるように娘を突き飛ばした。今度はさっきとは違う、気遣いなど微塵も無い手つきだった。


「何すんのよ!」


「こっちのセリフだ。俺は……頭の悪い女は嫌いだ」


 荒々しく戸を閉め、がっちりと錠をおろす。向こう側で口汚く罵る声が聞こえたが、無視した。


 それよりも、さっき言われた言葉の方が、よほど耳に残っている。




 ――闇渡りのクセに、馬鹿だねえ。




「……うるせえ」


 イスラは、自分の中に何か黒々としたものが渦巻いていることに気付いていた。怒り、卑屈、卑下、嫉妬……他にも様々な負の感情が、絡み合いもつれあい、イスラの心をさいなむ。


 闇渡りのクセに……そんなことなど、言われずとも分かっている。分不相応な恋なのだと自覚している。


 勝手に悩んで、苦しんで、誰にも話せず悶々と抱え込んでいる自分は、確かに馬鹿に違いない。


 それを自覚出来てしまうのが、イスラの厄介な長所だった。


 自分の中にある汚いものが見えるからこそ、それが自分の全てであると……闇渡りのイスラの正体なのだと、思わずにはいられなかった。そうして自覚することによって、さらに自分を嫌いになっていく自己嫌悪の連鎖に陥っていた。


 そして皮肉なことに、己のうちに宿る黒い感情こそが、今の状況を打破する手掛かりになると気付いてしまった。

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