エリコを発ってから三日目の夜、追撃部隊は初めて闇渡りの集団と接敵した。常に戦闘の可能性があったとはいえ、先手を取られた形となったのは痛かった。まだ先の戦いの恐怖が残っている者もいる。
だが、その展開はあまりに一方的なものとなった。
最初に守火手ヴィルニクが、指揮官と思われる闇渡りを狙撃し仕留めた。浮足立ったところにマスィルの法術が叩き込まれ、一瞬で指揮系統を崩された闇渡り達は各個に応戦するしかなくなった。
それでも、煌都の兵士と比べれば闇渡り一人あたりの練度は比べ物にならないほど高い。あるいは個人の技量差によって押し込まれる可能性もあっただろう。
問題は、その場に闇渡りのイスラが居たことだ。
戦列を離れてバラバラに攻め寄せてくる相手など、今のイスラにとって敵ではなかった。
カナンやギデオン、ホロフェルネスにベイベルといった強敵と手合わせした経験が、イスラの実力を数倍にまで高めていた。最早並みの剣士の一振りなど止まって見える。複数人に囲まれようが、その一手先の未来を予測すれば、最小の労力で最大の戦果を挙げられる。
それほどまでに腕を上げても、やはりウルクの大坑窟で目の当たりにしたギデオンの技には、到底及ばないと自覚している。
そして、そんなギデオンに勝るとも劣らない腕前の剣士が存在することも、イスラにとっては驚きだった。
イスラに敵わないと見るや、闇渡り達は一斉に踵を返して追撃部隊に襲い掛かる。先の戦いで闇渡りに徹底的に痛めつけられたエリコの兵士たちは、敵の掲げる伐剣の閃きに思わず逃げ腰になった。
「恐れるな」
決して大きな声ではなかった。しかしその明瞭な響きは、闇渡りの怒号や足音にかき消されることなく兵士達の耳朶を打った。
足を止めた兵士たちの間から、オーディス・シャティオンただ一人が闇渡りの群れに向かって突進する。長剣は鞘ごと外し、代わりに二振りの短剣を携えている。いずれも華やかなスウェプト・ヒルトの施された美しい剣だが、決して観賞用の軟弱な剣でないことは一目瞭然だ。
振り下ろされる伐剣を受け流し、もう片方の手で素早く喉を掻き切る。切られた相手が喉を押さえ膝をついた時には、すでに別の闇渡りが三人、首や胸から血を噴き出していた。
オーディスの攻撃は全て必殺の鋭さを持っていた。故に、一人に対し二度も三度も剣を振るうことはないし、過剰に力を込めて緩慢になることも無い。
まるで、心臓や血管を切っているというより、人間を動かしている目に見えない糸を断っているかのようだ。人体の急所を確実に貫くその戦い方は、イスラの苛烈な姿勢とまた異なった恐怖を闇渡り達に与えた。
「……凄いな、あれ」
「うん。いっそ怖いくらいだ」
ひとしきり敵の中枢を叩いたマスィルとヴィルニクは、戦列の後ろからオーディスの戦いを眺めていた。
パルミラにも剣匠の称号を持った人物は居る。だが、もとより商都としての性格の強いパルミラではあまり重んじられる地位ではなく、それなりの腕前の人間が選ばれていた。オーディスとはまるで比べ物にならない。
「さすがは騎士の都、あんな腕前の人間がごろごろいるのかな」
「それはさすがに無いと思うよ、あの人が特別なんだ。思い出したんだけどさ、マスィル。オーディス・シャティオンっていったら数年前……」
呑気に話し込んでいるところに弓矢が飛んできた。慌ててヴィルニクは盾を構え、その背中の後ろでマスィルは法術を唱える。
「無駄話は後にしようか!」
「ああ、どうせすぐ終わる!
マスィルの言った通り、闇渡りたちの団結は十分もしないうちに崩壊し、二十分後には降伏した数名以外の全員が息絶えていた。
◇◇◇
「囮だぁ!?」
「の、ようだね」
激高したマスィルが縛られた闇渡りの胸倉を掴んで引き上げる。今までの戦闘が徒労だったと知らされた兵士達は、やれやれと溜息をついた。
「本隊はどこに逃げた! 吐け! さもなくば殺す!!」
「し、知らねえよ! 本当だ!」
「貴様らも一味だろうが! 知らんということがあるかッ!」
ヴィルニクの手によって引っぺがされるまでマスィルは怒鳴り続けた。遠目に様子を見ていたイスラはサイモン達と顔を見合わせる。
「どうも、俺らの知ってる継火手とは違うよな。どっちが闇渡りか分かったもんじゃない」
「色々あるんだろうぜ……それより、さっき偵察に行かせた奴が戻ってきた。この先にある村が焼かれていたそうだ。生存者は無し、エリコを襲った闇渡りも引き上げた後だったらしい」
「……妙だな」
イスラは頭を掻いた。何かが引っかかっているが、上手く説明出来ない。イスラの闇渡りとしての勘が違和感を告げているのだが、その正体が掴めなかった。
「それは、闇渡り達の行動についてかな?」
「あんたは……」
「見事な戦いぶりだったよ。ラヴェンナの騎士でも、君のように勇敢に戦える者は少ない」
オーディスは革の水筒をイスラに渡した。受け取ったイスラは一口だけ水を飲んだ。
イスラとはまた違った意味で、オーディスも場に馴染んでいなかった。質素な旅装に身を包んでいるが、彼の容姿や立振舞いは泥臭い戦場にそぐわない。ましてや彼の剣閃の鋭さと今の穏やかさを結び付けるのは困難だった。
「あんたに言われてもな。あんな戦い方は、エルシャの剣匠くらいにしか出来ないと思ってた」
「彼と会ったことがあるのか?」
「何度かな。会うたびにボコボコにされてるよ。そういうあんたこそ、会ったことがあるって口ぶりだな?」
「八年前に一度、試合という形で戦ったことがある。負けてしまったがね」
良い思い出だ、と言いたげにオーディスは肩を竦めた。
「あんたほどの腕でも勝てないのか」
「彼は紛れもなく当代最高の剣士だよ。今のような時代には、返って不幸なことかもしれないがね」
「……そうだな」
ウルクの大坑窟を旅した時、ギデオンは確かにはしゃいでいたと思う。生粋の戦士でありながら、煌都という狭い空間の中で生きていかなければならないのは、確かに苦痛なのかもしれない。
「変な話だな」
「何が?」
「いや、あの男くらい力や才能を持った人間でも、悩んだり苦しんだりしているってことがさ。一体何があったら、人は迷わないで済むんだろうな?」
「…………さあ、何だろうね」
そう答えた時のオーディスの表情は、どこか息苦しそうに見えた。だが、それを深く追求する義理はイスラには無いし、またそんな時間も無かった。