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【第九十一節/「世界で一番美味しいもの」 中】

 探索に出る前日、つまりカナンが休暇を取って一日目の朝に、イスラは彼女の船室を訪れた。


 任務の前ということもあって、イスラにも休暇が与えられている。だからといって何をするでもなく、サイモン達とつるんで適当に飲み歩くぐらいしか考えていなかった。


 だから、ペトラとオルファが天幕に殴り込みをかけてきた時はびっくりしたし、「カナンをほったらかしにするな!」と猛烈な剣幕でまくしたてられても、ひたすら首を縦に振るしかなかった。大急ぎで平服に着替え天幕を転がり出てきた。



 何も、カナンのことを忘れていたわけではない。



 ただ、彼女の側にいることに違和感やしこりを感じていた。その正体が何か口には出来ないが、ともかく、難民団の指導者になってからのカナンは、イスラにとってどこか遠い世界の存在に思えた。


「……いや、元々そうだったっけな」


 自分は闇渡りで、彼女は祭司だ。よほど奇妙な巡り合わせがない限り、出会うことなどありえない。


 彼女の目にとまり、守火手に任ぜられた。


 自分とカナンは、ただそれだけの関係だ。


 船室の前で乱暴に扉を叩く。起きている気配は無いので遠慮はいらない。もう昼前になりかけている。


「カナン、いい加減に起きろよ、おい」


 ドンドン、と拳を打ち付けるが、反応は無かった。代わりにドアがゆっくりと開く。鍵が掛かっていなかった。


「ったく、あいつ……」


 この無防備さはどうにかならないものなのか。一度痛い目に遭っているはずなのに、てんで不用心なままだ。


 だが、そんな憤りは、部屋に入った瞬間吹き飛んでしまった。


 元々船長のための部屋とはいえ、船室の造りはとても狭い。家具らしい家具はベッドと文机だけで、そのベッドにしても棺桶のように小さい。


 カナンはそんなベッドの上で身体を丸めて眠っていた。疲れが溜まっていたのか、寝間着に着替えることもせず倒れ込んでいた。子猫のように毛布を手繰り寄せ、桃色の唇から白い歯をのぞかせながら穏やかな寝息を立てている。さらさらとした金色の髪が、彼女の瞼を覆い隠していた。


 服装自体は見慣れたものだった。それなのに、イスラには彼女の寝姿がひどく煽情的に思えた。すらりとした脚線や細い肩の輪郭、何の疑いも持たずに眠りこける無垢な美貌、狭い部屋に満ちた甘い体臭……。


 まるで盗人のように息を潜めていたことに気付いた。愕然として、口に溜まっていた唾を飲み込む。その音が妙に大きく感じられた。


「……おい」


 イスラは意を決して彼女の肩を揺さぶった。手の平からカナンの体温が伝わってくる。これ以上一人でいると、正気でいられそうになかった。


 やがて、カナンが小さなうめき声とともに目を覚ました。長い睫毛の下で、蒼い瞳が潤んでいる。


「イスラ……?」


「やっと起きたな。もう昼前だぞ」


「ああ……そんなに寝てたんですね」


 カナンは覚醒しきらないままゆっくりと身体を起こした。小さなあくびを漏らしながら、穏やかな笑みをイスラに向ける。その気だるげな仕草にどきりとするとともに、さっきまで自分の抱いていた劣情を責められているようでいたたまれなかった。


「……馬鹿野郎」


「え、ええっ。私、何かしましたか?」


「何もしてないからだろ。無防備すぎるんだよ、鍵くらいかけろ」


 自分でも口調が荒れているな、と思ったが、止められなかった。情けないと自覚していても、そういう風に感情を発散させないとカナンを直視出来なかった。


 イスラの隠蔽に気付かず……というよりも、もとよりイスラの言葉を信じ切っているカナンは、けろりとしたまま「ごめんなさい」と言った。まるで、何が起きても大丈夫という風に。



 カナンは自分を信じてくれている。だが、イスラはそれを手放しで喜ぶ気にはなれなかった。



 自分には薄汚い闇渡りの血が流れている。数百年前に煌都を追放されて以来、淫行と暴力の狭間でしぶとく残ってきたもの。この血管の中には、野獣の血筋が脈打っている。


 父親が誰かは判然としない。だが、母親が身体を売り、その結果として自分が生まれてきた。それは確かだ。


 つまるところ、イスラは自分自身を信じていなかった。自分の中に流れる血に深い疑いを抱いていた。一人でいた時は何の問題も無かったが、今はすぐ傍にカナンがいる。いつ何時、自分の中の劣情が暴発して、目の前の無垢な乙女に向かわないとは限らないのだ。



 ――そうなった時、俺は……。



「イスラ?」


 我に返ると、ただならぬ雰囲気を察したカナンが心配そうに見上げていた。


「大丈夫ですか? どこか、具合でも?」


「あ、ああ。心配するな」


 動揺が見抜かれていないか怖かった。カナンはほっとしたような顔で立ち上がり、「ご飯を食べにいきましょう」と言った。


「朝ご飯を抜いちゃったから、お腹がぺこぺこで……イスラも一緒に行きませんか?」


「ああ。待ってるから、さっさと着替えろ」


「はいっ」




◇◇◇




 結局、昼食だけでは終わらなかった。


 難民団の炊事場で出される食事を平らげてから、カナンはイスラを引っ張ってバザールに連れ出した。最初の買い物は服だ。


 パルミラ市内には到底及ばないものの、難民団の一角に作られたバザールは連日盛況で賑わっている。ほとんどが食料品を取り扱う店なのだが、中には衣服商や楽器商もいたし、芸人たちが小銭を稼ぐ光景がそこかしこで見れた。経済が順調に回っている証拠だ。


 難民団の代表がぶらぶら歩いていることに驚き、挨拶をしてくる商人もいた。カナンは一人ずつ丁寧に返していくが、彼女の後ろに立っているイスラは誰からも畏怖の視線で見られた。


 女物の服を売っている店は、馬車と天幕を組み合わせて作った割合規模の大きいものだった。試着のためのスペースもちゃんと確保されている。


 店主は若い女性で、あしらい慣れているのかカナンが相手でも積極的に売り込みをかけてきた。カナンは言われるままに服を身体に重ねるが、なかなか気に入ったものが見つからない。


「イスラ、どれが良いと思いますか?」


「俺に聞かれてもな……」


 服の話など、専門外も良いところだ。


 正直、カナンなら何を着ても大体似合うと思う。ズボンなら美しい脚線が映えるし、ドレスやローブなら穏やかな雰囲気が引き立つ。


(肌が綺麗だからなあ……なるべく露出の多い方が……)


「……その、イスラの好み的には……?」


 不埒な考えが引き寄せてしまったのか、カナンが唐突にそんなことを言いだした。イスラは目を丸くする。言い出したカナンでさえ赤くなった顔をそむけていた。


(ど、どうすりゃ良いんだよ!?)


 正直に答えるなら、パルミラの踊り子が着るような服……ヘソと肩と脚が出ていて、それ以外の箇所に布を巻いたようなものが良い。日焼けした肌も、胸の谷間も綺麗に浮かび上がるはずだ。


 だがそれではあまりに下心が見えすぎるし、第一普段着にならない。カナンが探しているのは日常でも着られる服なのだ。


(……でも絶対似合うな)


 カナンがそんな服を着て踊っているところを想像してみた。彼女の性格からして、そんな服を着たらもじもじしてしまうのだろうが、そんな姿が返って扇情的に思えた。


 これはまずい、と思った。


「ふ……」


「ふ?」


「普通の服だッ!!」


「はいっ!?」


 思わず怒鳴っていた。権幕に圧された店員は店の奥にすっ飛んでいき、その間に硬直したカナンをぐいぐいと試着室に押し込む。差し出された服を中に投げ入れてから、イスラは店の外に出てしゃがみ込み大きく溜息をついた。




◇◇◇




 数分後、新しい服を着て気分良さげに歩くカナンの後ろで、イスラはげっそりとしていた。


 店員は、確かに普通の服を持ってきてくれた。煌都ラヴェンナで流行っているフリル付きの白いブラウスと濃紺のスカートの組み合わせだ。簡単だが清楚な印象を強く与える服装で、カナンもまんざらではない様子だった。


 ただ、細い胴がそのまま浮かんでいるため、必然的に胸の形まで強調される結果となっている。スカートの丈も膝が隠れる程度で、勢いよく歩くたびに布がひるがえり、美しい脚線が垣間見えた。


 結局、あからさまに色っぽい服を着るよりも、さらに艶やかな姿になっていた。


「似合ってますか?」


 スカートの両端をつまみ、くるりと振りかえってたずねてくる。これで三度目だった。


「……ああ。良く似合ってるよ」


 憮然とした表情で答えるも、カナンは嬉しそうに笑い声を漏らして先々歩いて行ってしまう。そんな無邪気な姿を見て、イスラは今日何度目になるかも分からない溜息をついた。


「……本当、死ぬほど良く似合ってるぜ……」

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