通された部屋に入ると、意外な人物が待っていた。
先日、事件発生の報とともにサイモンたちが連れ帰ってきた娘だ。名前はアムナ。作りの良い椅子に座らされ、居心地悪そうに身体を縮こめている。
「こんにちは、アムナさん」
「は、はいっ……」
緊張をほぐすつもりで声をかけたら、余計に固まってしまった。だが、彼女の表情には怯えや恐怖が色濃く浮かんでいる。
サイモンやイスラから、彼女がどんな目に遭ったかは聞いている。未遂で済んだとはいえ、忌まわしい記憶は簡単に消えたりしない。
それは、カナン自身もよく知っていることだ。
「その娘の処遇について、お嬢さんと話がありんす」
後ろ手に扉を閉めたエステルは、流れるようにアムナの側まで歩み寄って肩に手を置いた。アムナの身体がびくりと震える。
「この娘は、今はパルミラ預かりでありんすが、それでは宙ぶらりんのまま。嫁にもいかず、仕事も無い者を置いておくのは、煌都の掟に
カナンにも、エステルが何を言いたいのか察しがついた。
「つまり、アムナさんを妓館に加えると」
「その通り」
別段珍しい話ではない。夫に先立たれ、自立するだけの資金も持たない女性が妓館に入る例は山ほどある。たとえ不本意であろうと、そんな道に進むものは大抵他の選択肢を失っているのだ。
だが、アムナは違う。
「それなら……!」
「お嬢さんの言いたいことは承知してござりんす」
エステルに先手を打たれ、カナンは喉まで出かかっていた言葉を堰き止められた。
「あちきとて、無理矢理この娘を加えるつもりはありんせん。だから、お嬢さんとあちき、どちらの元に行きたいか、この娘に問うてみることにいたしんしょう」
つまり、娼婦になるか難民になるか、好きな方を選べというわけだ。アムナにしてみれば、当たりの無い
「……アムナさんは、それで良いんですか?」
カナンがそうたずねても、アムナはなかなか沈黙を崩そうとしなかった。だが、耳や頬の色は真っ白になっていて、彼女が究極の決断を迫られていることを雄弁に語っている。しばらく黙りこくったままだったが、やがて押し殺すような口調で「構いません」と答えた。
もし自分が同じ立場に立たされたら、どちらを選ぶだろう? カナンはふと自問してみた。そして、すぐに意味の無い質問だったと気付く。
自分の感性や考え方は、普通の人々と大きく異なっている。たとえ難民団の前情報が無く、胡散臭い集団だとしても、自分は燈台を捨てて闇渡りになるだろう。
だが、誰もがそんな選択を採れるわけではない。そんなことが出来る人間はこの世界では少数派だ。
天火の無い夜のなかで生きることがいかに過酷か、イスラと旅をしてきた今なら容易に想像出来る。夜魔や他の闇渡りの襲撃を恐れながら、日ごとの食べ物や飲み水を探して彷徨い歩く……イスラの卓越した経験と技術が無ければ、とても耐えられるものではない。
もちろん、今の難民団はパルミラの影響下にある。最低限ではあるが天火も浴びることが出来る。
だが、都市から福祉を受けることは出来ないし、同じ場所に留まっていられる保証も無い。いずれはパルミラを離れ、夜の中に踏み入る時が必ず来る。アムナには、それが恐ろしく感じられるのだろう。
だからカナンは、なるべく彼女が不安を抱かないよう優しく語りかけた。
「アムナさん。今の私たちなら、貴女に居場所を作ってあげることが出来ます。なにしろ女の人の人手が足りなくて、料理や洗濯の出来る人が必要なんです。安くはありますけど、賃金も支払いますし、休息も十分とってもらえるよう工夫しています。若い人も多いですから、友達だって出来ますよ。だから、一つの選択肢として……」
「でも、燈台は無いんですよね……?」
俯いたままアムナは呟いた。それはカナンに向けたというより、自分に現実を認識させるための言葉だった。彼女のなかでは、すでに道は決まっているのだ。
「……ええ。確かに、私たちの立場はとても不安定なものです。それは否定しようがありません。
けれど、娼婦になるのは……あえて言いますけど、決して幸せな選択ではないと思います」
「そんなことは分かっています。でも……闇渡りなんかになるより、何百倍もマシです」
それ以上、カナンには何も言うことは出来なかった。
◇◇◇
アムナが立ち去った後も、カナンは悄然として肩を落としていた。ふと窓の外を見ると、アムナがエステルの店の者に連れられ立ち去っていくところだった。
「やっぱり堪えたかしら?」
そんな彼女に向かってエステルは少し揶揄するような口調で言った。言葉遣いはいつもの廓言葉と違い蓮っ葉になっている。扇情的な仕草もなりを潜めて、芯の強さを感じさせる。樫の木で出来た机に座って片膝を立て、窓辺に立つカナンを見やった。
「あの娘は最初から答えを決めていたわ。あなたがいくら気をもんだところで仕方ないのよ」
「そうかもしれません。でも……」
ふう、とエステルは溜息をついた。
「お嬢さん? あなた、娼婦は卑しい仕事だと思う?」
これもまた意地悪な質問だった。
「……一人の祭司として、誤った行為だと言わざるを得ません。己の貞操を売り物にするのは罪だと、経典にも書かれていますから。
でも、そうする他に仕方が無いということも、分かっているつもりです」
「そう。いくら世間から咎められても、女にとっては他にやりようが無い。貴女みたいな生まれでもなく、特別な才能や技術を持っていなければ、最後に売れるのは自分の身体しかないのよ。たとえ……」
エステルは顔に刻まれた傷跡に手を添えた。
「たとえ嫉妬を受ける身になっても、慣れ親しんだ言葉を捨てることになっても、身体を売る忌まわしさを受け入れなきゃいけない。
……だから、あちきの店では女たちに不自由を強いたりはしんすまい。その点については、どうか信じておくれなんし」
「……信じます」
カナンは礼を述べて部屋を出た。
イスラが待っていた。
「浮かない顔だな」
「そうですね……ちょっと凹んでます」
「あの娘のことだろ?」
「はい。難民にはなりたくない、と言われました」
カナンは少しだけ言葉を歪めた。アムナが拒んだのは、闇渡りになることだ。「そうか」ただ、イスラを誤魔化すことは出来なかった。彼にもアムナが何と言ったか想像はつく。それについては、今更何も思いはしない。
「結果はどうあれ、お前は一つの選択肢を与えてやれたんだ。あの娘はそれを拒んだ。だから、もう引きずるなよ」
「……はい」
銀行を出て、居留地に戻る舟に乗り込んだ後も、カナンは心あらずといった様子で星空を見上げていた。それは以前、アラルト山脈の大発着場で見た石の地図を思わせた。そして、強く思ったのだ。