最初に村の影が見えた時、調査隊の誰もが同様の違和感を覚えた。
地図によると、この先にある村には天火を戴く燈台があるはずだ。辺境の小集落とはいえ、真っ暗闇の中なら燈台は明々と輝く。
それが見えないとなると、遮光壁が降りてしまっているのか。だが、空に月の姿は見当たらない。すなわち、今はまだ昼だ。
「サイモン、どう思う?」
イスラは声を落としてサイモンにたずねた。敵の気配はどこにもないが、イスラは本能的に危機感を感じていた。それが声を潜めさせたのだろう。
「どう思う、って聞かれてもな……胡散臭いとしか言いようがねえよ」
隊長として調査隊を率いているサイモンも、事態の異常さには気付いていた。本来は軽い性格の男だが、大坑窟での長年の生活によって後天的に慎重さも身に着けている。少人数を率いての探索には最も向いた人材だ。
「俺が斥候に行こうか?」
「……そうだな。任せた。俺たちも村のすぐ近くまで進んで潜んでおく。困ったら
「分かった。ちょっと行ってくる」
そう答えるなり、イスラは外套をサイモンに押し付けると、音もなく木々の間へと飛び込んでいった。
◇◇◇
鬱蒼とした森の中を、イスラは疾風の如く駆け抜ける。木の枝が肌を引っ掻くが、その程度の痛みなど物ともしない。耳朶を打つ風の音が心地よかった。
身も心も軽かった。こんな風に木々の枝を走るのはいつぶりだろう? ウルクを逃れて以来、ずっと砂漠を歩いてきたから、枝葉の感触が懐かしかった。
こうしていると、本当の自分に戻ったような気がする……。
(本当の自分? なんだよ、それ)
イスラはふと浮かんだ考えを即座に搔き消した。恥ずかしくなるような問いだ。以前にオアシスで、カナンに向かって「俺は俺だ」と偉そうにのたまっていたではないか。
「……カナン」
一瞬、目の前に、居留地を去る時のカナンの寂しげな表情が蘇った。
分からない。何故自分のような人間に、そんな表情を向けられるのだろう? 長い間旅を続け、共に幾度も死線を乗り越えてきたから……それはそうかもしれない。
だが、俺は闇渡りではないか。
野蛮で暴力的な、犯罪者たちの末裔……イスラ自身、一体誰が父親なのか分からない有様だ。
そんな出自も身分も低い自分に、どうして目を向けようとするのだろう。
「まさか……いや、何考えてんだか……」
考え事を中断し、イスラは地面に降りた。
音を立てないよう慎重に茂みを掻き分け、村へと向かう。
村の周囲には高さ三ミトラ(約3メートル)程度の石垣が造られていたが、それは見るも無残に破壊されていた。壁の一部が叩き壊され、辺りに石の欠けらが飛び散っている。
だが、そこに在るべき天火の不在という事実に比べれば、大したことではなかった。
村の中は闇と静寂に包まれ、横倒しにされた松明や放火の残り火だけが、破壊と略奪の跡を照らしている。全ての家の扉が破られ、目につくものは根こそぎ奪われていた。
一軒の家の中に踏み込んだイスラは、水桶に溜まった水の臭いを嗅いでみた。まだ腐っていない。藻も浮かんでいなかった。竃の炭に埃は積もっておらず、日常を唐突にひっくり返された痕跡が散見された。
一体何が……そう思った時、窓の外から女の叫び声が聞こえてきた。
家から飛び出す直前に、薪割りのための小さな手斧を拝借。声の聞こえた方向に向かって全力で走る。
音が聞こえたのは、村の離れにある一軒家だった。そこも扉が破られていて、そこから人の揉み合う音が聞こえてくる。イスラは息をひそめ、
戸口から中を覗く。三人の男が、一人の娘の上に圧し掛かっていた。
「……嫌なこと思い出させやがって」
イスラの脳裏に、アラルト山脈での一件が否応なしに思い出された。
その時に見たカナンのあられもない姿も。
そして、搔き乱された自分の感情も。
脳裏に浮かんだ様々な記憶が、イスラの苛立ちを掻き立てた。それを吐き出すかのように、イスラは左手に握った手斧に力を込め、今まさに覆いかぶさろうとした男の背中に向けて投擲した。
斧が男の背中に突き立つ。蛙の潰れるような短い断末魔が上がった。他の二人の男が反応するよりも早く、イスラは
最後の一人は伐剣を手に応戦しようとする。が、その動きはあくびが出るほど単純で、鈍くて、遅い。数々の死線を潜り抜けたイスラにとって、この程度の相手など敵ではなかった。
机の上に乗っていた鍋を投げつけひるませる。男は伐剣を滅茶苦茶に振り回すが、最短距離で突進したイスラは胸に
緊張も恐怖も感じていなかった。それでも、イスラの肩は大きく上下していた。「……おい」床に倒された娘に向かって声を掛ける。相手は後ずさり、近くにあった伐剣を拾ってイスラに向け突き付けた。
切っ先がぶるぶると震えている。これまで武器など持ったこともなかったのだろう。それでも、血まみれの闇渡りよりは恐ろしくないのかもしれない。
「心配するな。敵じゃない」
我ながら虚しいな、とイスラは思った。
「あんたに狼藉を働くつもりもない。いい加減にそれを下ろせ」
「嘘だッ!!」
娘が叫ぶ。イスラは嘆息しつつ明星の血糊を拭い、鞘の中に納めた。
「まあ、それが普通だよな……あいつがおかしいんだよ、あいつが……」
イスラは上着を脱いだ。娘が肩を震わせるが、そんな彼女に向けてイスラは上着を放り投げた。
「着ろ。ちょっと汚れてるけど、今のザマよりはずっとましだ」
相手が服を着たかどうかは確認せず、イスラは家の外に出て明星を掲げた。その切っ先から蒼い光が飛び、花火のように空中で輝く。
ほどなくしてサイモンたちがやってくると、イスラはそれまでにあったことを全て伝えた。娘の身柄は女の隊員に任せた。その段に至って、ようやく娘は緊張を解いたようだった。イスラの上着は、着ていなかった。
「……一体何なんだ、この村は。人はいない、天火はない、闇渡りだけがいるなんて……」
「さぁな。あの娘が喋る気になったら良いけど……だいぶ怖い目にあったからな」
「お前の見た目も含めてか?」
「言っとけ」
サイモンの革袋から水を飲んでいると、調査隊の一人が血相を変えて駆け込んできた。
「た、大変ですサイモンさん! 村の広場に死体が……!」
「……そりゃあ、あるだろうな。案内しろ」
だが、それはただの死体ではなかった。
イスラとサイモンは村の広場に向かった。そこは本来村役場のある場所で、屋敷の上には小規模な燈台が設けられているはずだった。
ところが天火の姿は影も形も無く、燈台の台座ごと消失している。
そして、役場の入り口の前に、一体の遺体が
全身がくまなく焼け焦げ、はた目には性別さえ定かでない。しばらく野晒しになっていたせいか、鳥に
だが、足元に落ちた杖の残骸だけが、持ち主の身分を語っていた。
「この亡骸は……継火手か」
サイモンの声は震えていた。当然だ。今の世界において、継火手を殺すことほど罪深いことは無い。まさに神をも恐れぬ蛮行だ。
役場の前の広場は大きく円状に焼け焦げている。地面がえぐれ、そこで起きた破壊の大きさを物語っていた。
「こいつは……まいったなあ。どうするよ、イスラ?」
「カナンに相談しよう。俺たちの手には余る……でも、その前に、ともかくこいつを葬ってやろう」
「……だな」