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【第八十五節/魔導司書】

 フィロラオスは帯に括り付けていた鉄の鍵を取り出し、書庫の扉の鍵穴に差し込んだ。


 鉄製の重々しい扉を押し開け、その奥にある螺旋階段を下っていく。壁には大坑窟で見たのと同じ照明装置が設けられていて、壁そのものがぼんやりと発光していた。だがその光の量も、下に行くにつれてどんどん少なくなっていく。


「足元に気を付けて。手すりをしっかりと持って降りるんじゃよ」


 階段を下りきったころには、まるで水底みなぞこに沈んだように光が遠くに見えていた。お互いに、隣に立っている人間の姿が何とか見えるといったところだ。


 暗闇の中には一切の照明装置が無く、何も無いように思える。だが、岩堀族として暗所での生活を続けてきたペトラには、視界を埋め尽くすほどの本棚の姿が見えていた。いずれも五ミトラはくだらない高さがある。それがずっと奥の方に向かって何台も並べられていた。


 空気は乾燥しており、同時に冷たくもあった。ティベリス川よりも下にこの書庫が造られたのは、場所の確保はもとより、資料の保存状態を可能な限り改善するためだ。書物は湿気や高温、さらには光に当てられても劣化するため、こんな墓場のような場所で保存しなければならない。


「でも、こんなに暗いと作業が出来ないんじゃ……」


 トビアがそう言いかけた時、暗闇の向こうでキリキリと歯車の噛み合う音が聞こえた。「驚いてはならんよ?」フィロラオスが注意するが、闇の中からそれが現れた時、トビアはビクリと肩を震わせた。


 四人の目の前に女の顏を模した仮面が現れた。それだけが浮き出て見えたのは、その機械の全身が黒い布で覆われているからだ。まるで牛のようにずんぐりとした体型で、顔のある箇所だけ真上に伸びている。半人半牛といったところだろうか。


 だが、仮面に描かれた顏は妙に精巧に出来ていて気味が悪く、布に隠された脚部もカタカタと音を立てている。トビアが抱いた率直な感想は「気色悪い」の一言に尽きた。


 ところが、以前に一度見たことのあるカナンは平然としていて、ペトラに至っては目を輝かせている。


「すっげぇ! 動いてる魔導司書を見たのは初めてだよ!」


「ほっほっ、喜んでもらえて何よりじゃ」


「そりゃ喜ぶっての!」


 狂喜するペトラに向かって、トビアはおずおずと「あの、何が凄いんですか?」と訊ねた。


「こいつらは、あたしら岩堀族のゴーレムと同じような物なのさ。もっとも基本的な考え方が同じってだけで、仕組みの複雑さは段違いなんだけどね」


「まあ、実際に何をしておるのか見てもらったほうが早いじゃろう」


 フィロラオスは無言で佇んでいる魔導司書に向かって「マイモーンの医術書から、煙草に関する記述を探してくるのじゃ」と命じた。魔導司書はカタカタと足を鳴らしながら回転すると、闇の中へと戻っていった。


 しばらくすると、戻ってきた魔導司書は黒布の中から腕を伸ばし、一枚の紙をフィロラオスに手渡した。彼がそれを振って見せると、確かにフィロラオスが欲していた情報が書き込まれていた。


「……と、まあこんな具合じゃな」


 そう言われても、トビアには何が凄いのか今ひとつピンと来ない。彼にとって、前時代の遺物というのはタロスのような存在なのだと刷り込まれてしまっている。


 目から熱線を出したり、胴体が回転することもない魔導司書は、はっきり言って地味だった。


「何か期待外れって顏してるね?」


 ペトラに言い当てられ、慌てて誤魔化そうとするが、フィロラオスは「ほっほっ」と笑った。


「まあ確かに、地味な技術と言えばそうかもしれんの。じゃが、この魔導司書は、紙の本という媒体を何者よりも丁寧に管理出来る機械なのじゃ。この参照機能にしても、こやつらは光を使わずに本の内容を記録し、胴体の中で印刷する能力を有しておる。


 逆に言えば、書物を守るということはそれだけ大掛かりなことであり、古代の人々はその重要性を良くわきまえておったのじゃ」


 フィロラオスは本を手に取った。その表紙に向けられた視線は、だが、どこか遠い場所を見ているようにトビアには思えた。実際、老博士の目はその古い本を通して、過去にそれをあらわした人へと向けられていたのかもしれない。


「書物は、人生の有限性を超越する数少ない方法の一つじゃ。それが残るかどうかは分からんが、しかし、残そうと志向すること自体が、ある種の祈りと似ておる。この部屋は、まさに祈りの宮というわけじゃよ」


 それは、トビアがこれまで触れたこともないような考え方だった。これまでただの紙の束、インクの染みと思っていたものが、見る人によってここまで大きく意味を変える……それが不思議だった。そして、そんな見方の出来るフィロラオスという老人の知性に尊敬の念を抱き始めていた。


「……ところで、その宮に使える祭司たちにも、どうやらガタが来ておるようでの。こいつはまだ動くのじゃが、修理の必要な司書が六体ほど別室に移してあるのじゃ。カナンや、君がここに来たのもそれを察してのことじゃろう?」


「その通りです、先生。私たちの手には負えなくても、岩堀族なら修理が出来ますから」


 カナンがそう答えると、ペトラはパッと顔を輝かせた。


「あたしらに直させてくれるのかい!?」


「ほっほっ、直せるのなら直してもらいたいの。もちろん対価は払うぞ。といっても、議会から下りた予算で支払うことになるがのう」


「お金貰って、こんな楽しそうな仕事が出来るなら何よりだよ。どうしてもっと早く言ってくれなかったんだい?」


「それは……」


 カナンは少しだけ顔をそむける。首を傾げるペトラに、代わってフィロラオスが答えた。


「この魔導司書の部品が、ウルクから輸入されておったからじゃろう?」


 そう言われた瞬間、全てに合点がいった。彼らが大坑窟でさせられていたことの結果が、巡り巡ってここに辿り着いていたのだ。命じられるまま、何も考えずに遺物や聖銀を掘り出してはいたものの、それが大坑窟以外の場所でどのように使われているかについては、考えたこともなかった。


 カナンはそれをおもんぱかったために言い出せなかったのだ。あそこで辛い目を見なかった者など一人もいない。その記憶を刺激するような仕事はなるべくさせたくなかったのだ。


「……あまり大っぴらにしてはならんことなのじゃが、今、ウルク方面の治安が急激に悪化しておるようでの。闇渡りの集団が街道に出没して、強盗を働いておるらしい。それもこれもウルクの行政能力が大きく低下したせいだが、何故そうなったのかは誰も分からなんだ。パルミラの商人会議が諸君の突飛な言葉を信じてくれたのも、そうした事情があったからじゃよ」


「そうかい……でも、正直ウルクの連中が困ってるって聞いたって、あたしは同情する気はこれっぽっちも無いよ。仕事に対して足踏みするつもりもない。そんなことは全部乗り越えて、先に進まなきゃいけないんだ。


 だから頼む。この仕事、あたしたちにさせてくれないかな?」


 ペトラは真剣なまなざしでフィロラオスを見上げた。老博士は「儂は願ったり叶ったりじゃが……」とカナンに視線を向ける。


 カナンは小さく息を吐いた。


「ペトラさんたちが納得してくれるのなら、私が何かを言う必要はありません。作業がしたい人を見繕って、取り掛かってください」


「ああ……ありがとう」


 ペトラは頭を下げた。


 だが、同時にトビアもまた、フィロラオスに向かって頭を下げていた。


「あの、僕もここで働かせてもらえませんか!?」


 思わぬところから声が上がったために、その場に居合わせた全員が驚かされた。


「ちょ、ちょっとトビア。あんた修理なんて出来ないだろ?」


「はい……だから、それ以外のことで。何でもいいんです、どんな雑用でもします!」


「どうしてそこまで……」


 困惑するペトラに対して、カナンは少しだけ、彼がどうしてそんなことを言いだしたのか分かった気がした。


 ウルクを出て一月、トビアはいつも自分の無力感に苛まれていた。だからイスラに剣の練習を頼み、必死に食らいついていたのだ。そういう風に彼を駆り立てたのは、やはりあの夜魔憑きの少女が原因だろう。


 きっと、剣ではどうにもならないことなど、とっくに気付いていたはずだ。それでも力を欲しがっていたのは、それ以外にやりようを思いつかなかったから。イスラは新しい方法を提示することが出来ず、カナンもまた彼と十分に接することが出来ていなかった。


 だから、トビアがフィロラオスに感化されたのは正しいことだと思う。自分にもあの夜魔憑きの少女を救う方法は挙げられない。


 フィロラオスは長い白鬚をしばらく撫でていたが、やがて穏やかな口調で「駄目じゃ」と言った。トビアの肩から力が抜ける。


「君はまだ少年じゃ。だから、働くことは許可出来ん。それよりも、一直線に儂のところへ学びに来なさい。君の知りたいと思うこと、学びたいと思うことに、可能な限り応えてあげよう」


「ッ! ありがとうございます!!」


 トビアは息継ぎするかのように顔を上げ、それからもう一度深く礼をした。


「なに、そう畏まらなくてもよろしい。儂も結構暇にしておるからの。君の風読みとしての知識を書き留める仕事も残っておる。遠慮なく来ると良い」


 そう言うと、フィロラオスは懐から時計を取り出した。


「……時間が経つのは早いのう。済まんが、この後別の客を待たせておっての。修復の件については明後日にでも詰めるとして、それまでに人選を終えておいてもらおうか。トビア君は、昼ごはんを食べてからいらっしゃい」



◇◇◇



 書庫を出てフィロラオスの元を辞した三人は、難民団の居留地へ戻るために橋の上を歩いていた。


「良かったじゃないか、トビア」


「はい。イスラさんが言ってたこと、やっと分かったような気がします……もっと別の力を見つけろって」


「へえ、あいつがそんなことをねえ……」


 話しながら歩く二人から少し下がりながら、カナンは少しだけ悔しいような気持ちになっていた。イスラにはトビアを任せると言われたが、実際にはこうして連れまわすのが精いっぱいで、含蓄のある言葉の一つも掛けてあげられない。フィロラオスはもちろん、剣の師であったギデオンにも遠く及ばない。


「……私もまだまだ、ですね」


 そう呟いて俯きかけた時、剣帯の金具の鳴る音が聞こえた。


 カナンは一人の男とすれ違った。


 脳裏に閃光のようなものが走り、ハッとして振り返ったが、その人物はカナンなど一顧だにせず歩いていく。


「今の人、どこかで……」


「どうしたんだい? 早く帰って、残りの仕事をしないと」


「え、ええ」


 首をひねりながらカナンは二人の背中を追いかける。頭の片隅に「誰だったんだろう?」という問を残したまま。

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