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【第八十三節/営業聖女とトビア君 上】

「……さ、仕事しましょうか」


 イスラ達の出発を見届けてから、カナンは両手をパンと鳴らした。


 すかさずペトラが手帳を取り出して今日の予定を読み上げる。


「午前九時から倉庫貸しのニカノルと会談。十時半ごろに切り上げて十一時から装飾商デメテリオと会談、一緒に工房の視察も予定してるよ。午後からは特に予定は無いけど……」


「仕事を探しましょう。午前中に出来るだけ情報を引き出して、午後からは即座に動けるようにしたいですね。


 それから、昼頃に銀行に寄りたいので、よろしくお願いします」


「あいよ。で、戻ったら書類の処理と整理かい?」


「そうですね。それもやりますけど、私の出ている間に、出来る範囲のことはやっておいて欲しいと、ルデアさんとアクラさんに伝えておいてください」


「分かったよ。それじゃあ、準備が出来たら呼んでおくれ」


 手帳を懐にしまい、ペトラはパタパタと走って行ってしまった。準備らしい準備も特に必要でないカナンは、イスラたちの去っていった方を一度だけ見やって溜息をついた。


「……本当に良かったんですか?」


 一緒に見送りに来ていたトビアは、そんな彼女の様子を見て声を掛けずにはいられなかった。


「良いも悪いもありません。彼は彼の、私は私のするべきことをするだけです」


 勇ましい答えではあったが、トビアにはどうしても、それが無理から来る台詞であるように思えてならなかった。ウルクの水門にイスラが落ちていった時、カナンはひどく取り乱した。今はそんなことは無いが、イスラへの思慕を押し殺しているのは確かだ。


 トビアも、カナンがイスラに対して抱いている気持ちは見抜いている。いくら人生経験が少ないといってもその程度のことは見分けがつく。だから、カナンの寂しそうな横顔を見るのは辛かった。


「さあ、トビアさんも用意は良いですか?」


「僕は大丈夫です。邪魔にならないか心配ですけど……」


 彼がそういうと、カナンはくすりと笑みを漏らした。


「そんなこと、気にしなくて良いですよ。これまでは色々ありすぎて、ちゃんと煌都を見てこれなかったけど、良い勉強になると思います。イスラからもそう頼まれてますし……貴方のお父様も、きっとトビアさんが見分を広げることを望んでいると思いますよ」


「……はい!」


「あ、でもちょっと髪がボサボサですね」


 カナンは胸元から小さな瓶を取り出すと、中身を数滴手に垂らして馴染ませトビアの髪のはねている部分を丁寧に梳いてやった。数日前にやってきたパルミラ商人から買ったもので、花の油に香料を混ぜて作った整髪剤だ。若干高くついたものの、身なりに気を使いたいというカナンの乙女心の表れだった。


 トビアは直立したまま、なされるままになっている。顔が赤く染まっていた。意中の相手が他にいるとはいえ、こんな風に女性に触れられるのは初心な彼にとって心臓に悪い。半面、彼女がこんな風に気兼ねなく触れてくるのも、自分が「そういう相手」としては微塵も見られていないからなのだろうな、と思った。



◇◇◇



 煌都の門をくぐった先には、トビアにとって別世界が広がっていた。


 間近で見ると、煌都の象徴たる大燈台ジグラットは光の塊のように眩く輝いていた。なるほどカナンの肌も焼けるはずだ、と思った。風読みの里のちんけな天火とは比べ物にならないほどの光の奔流がパルミラ中を照らし出している。


 少年を圧倒するのは光だけではない。煌都にある全ての物が彼の未熟な感覚を刺激して止まない。視覚、聴覚、嗅覚それぞれが絶えず様々な物で刺激される。


 光り輝く大燈台の下に広がったバザールには、この世の全ての物が揃っているのではないかと思えてならない。


 美しい食器や陶器が所狭しと並べられた瀟洒な店、その隣には色とりどりの絨毯で埋め尽くされた店、はたまた星をさらってきたかのような宝飾店。見ている分には楽しいが、値札はどこもかしこも腰が抜けそうになるくらいの額が示されていて、それら宝物に対する幻想を一瞬で叩き潰してしまう。


 匂いもまた強烈だった。様々な大きさや色の小瓶に入れられた香水からは、何とも表現の出来ない玄妙な香りが漂ってくる。今朝カナンが使ってくれた整髪剤など、本当に簡素なものだったのだな、と思った。また、豪快に串焼肉を焼いている店や、川魚を捌いて吊るしている店、スープ売りの屋台等、少年の食欲を刺激するものがあちこちに散らばっている。


 そして、それらの店が一斉に奏でる音の奔流は、とても聞き分けられないほど交響的なものだった。人の声、動物の鳴き声、売り物の鳴らす音、吟遊詩人や大道芸人たちの演目……羊の鳴き声に囲まれてきたトビアにとって、何もかもが新鮮だった。イスラがパルミラに行けと言った理由が分かった。


「……凄いですね、ここは」


「驚きますよね。私も、はじめてパルミラに来た時は圧倒されました」


「前にも来たことがあるんですか?」


「はい。数年前に見聞を高める名目であちこちに行かされました。私はすごく楽しかったんですけど、姉様はお尻が痛くなったってボヤいてて……」


 そう言えばあの頃だな、とカナンは思い返していた。エデンが必要だと思ったのは。


「トビアさん、橋の下をよく見ていてください」


「橋の下?」


「ええ。貴方はなるべく多くのものを見ておいた方が良いから」


 促されるままに、トビアは群島を繋ぐ石橋の下に目を向けた。


 そこには、島の上で輝く市場と全く異なった印象の世界が広がっていた。


 石橋の橋桁に、まるでキノコのように小さな建物が群がっている。木を粘土で繋ぎ止め、隙間に石を入れて造られたそれは、小屋と称するにしてもあまりにお粗末だった。


 だが、一応陸地にあるだけ、小舟を家がわりにしている人々よりかはマシかもしれない。中には筏の上で寝起きをしている者もいる始末だ。


「……あの人達、筏や船が壊れたらどうなるんですか?」


「どうにもなりません。ティグリス川は年に何度か水量が増しますが、そのたびに何人もの犠牲が出るそうです。運良く助かったとしても、煌都に居場所は無くなってしまって、必然的に闇渡りになります」


「誰も、何とかしようって思わないんですか?」


「……安全な場所に居る人にとっては、考える必要も無いことなんです。半分闇渡りのような人々がどうなろうと知ったことではないし、都市の過酷な仕事……下水道の浚渫しゅんせつや遺体の埋葬、土木作業をやってでも天火アトルを浴びたいという人は絶えませんから」


 彼らは道具と同じだ。必要でない時は暗所に押し込まれ、寿命がきたら棄てられ取り替えられる。これは何もパルミラに限った話ではない。カナンが訪れたことのあるどの煌都でも、同じような仕組みは成立していた。


 だが、そんな風に人を道具としか見ないような政治は、必ず破綻をきたす。それが人々の怒り……かつて革命と呼ばれた現象を引き起こすか、あるいは別の形で都市に災厄をもたらすのかは、カナンにも分からない。


「あたしらもあいつらと同じさ。ウルクじゃ上の連中に足蹴にされてた。ウルクの官僚どもは、あたしらがベイベルにいじめ抜かれていたのも看過して、一人死んだら一人、十人死んだら十人って具合にどんどん人を継ぎ足した。だから、誰かに助けてもらうなんて思いもよらなかった……」


 爪先立ちになって欄干にしがみついたペトラは、過ぎた日々のことを思い返しているようだった。確かに、過酷な仕事を課せられる人々が不可視化されるというのは、統治者の汚い技術の一つだ。


「それでも、貴女たちは幸運だと思います。煌都では身につかない特殊な技術や知識を持っている。だからパルミラの商人議会も交渉に応じてくれたんです。こちらに何の手札も無ければ、間違いなく門前払いですよ」


「……それもそうだね。あたしらは恵まれてる。御先祖様のおかげだよ」


 そう言ってペトラは、欄干の上を指でなぞった。


「トビアさんも良く覚えておいてください。この世の中を生きていく上で、特別な技術や知識を身につけることはとても大切なことです。いわゆる、手に職をつける、ということですね。そうすれば、世の中にいる誰かが、必ず貴方のことを必要としてくれます」


「はいっ」


「さあ、約束の時間より早く着くのが礼儀です。時に正確なるは王者の法、といいますから。ね?」

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