造船所から少し離れたティベリス川のほとりで、イスラはトビアの稽古に付き合っていた。居留地より少し離れているため薄暗く、足元は細かい砂で覆われているため足を取られやすい。現にトビアは、何度か尻もちをつきかけてはそのたびにイスラに突き飛ばされていた。
山育ちのため、トビアも硬い足場には慣れているが、その反対となるとまるで勝手が違った。上手く踏ん張ることが出来ず、したがって突進や回避もいつも以上にし難く感じる。
だが、イスラは足場の弱さなど物ともせずに苛烈な攻めを展開する。低速から高速への切り替えや、振り下ろす時の動作には一切の澱みが無かった。一体どんな体幹をしているのだろうと思えてならない。
それでも、少しずつイスラの剣筋は見えるようになってきた。この一月の間、ずっと彼の動きを目で追い続けていたためだろう。視力全般に関しては、トビアのそれはイスラより上かもしれない。
イスラもそれに気づいていたからこそ、どの程度トビアが見切っているのか試す意味合いで、攻勢を強めていた。いずれも単純な攻撃ばかりだが、勢いと力の強さについては全く手を抜いていない。トビアも手が痺れているのか、何度か棒を取り落としそうになっていた。
そして、訓練を始めてからちょうど一時間が経った頃、トビアの手から木刀が弾き飛ばされた。
急いで落ちた木刀を拾い上げようとするが、右手にうまく力が入らない。指がぶるぶると震えていた。
「今日はここまでだな」
「はい……」
トビアは肩を落とした。その様子を見て、イスラは「もっと肉を食え」と言った。
「お前はまだ身体が出来上がってないんだから、今すぐ強くなろうたって無理だ」
トビアは華奢な少年だ。同年代の少年と比べて線が細く、繊細な印象を与える。決して運動神経が鈍いわけではないのだが、いかんせん身体が未成熟なのだ。この一月ほどの特訓で技量は確実に向上しているが、筋力や体力の不足が足を引っ張っている。
急激に強くなったという点においてはイスラも同じだ。だが彼の場合、闇渡りの生活を通じて筋力や体力が十全に鍛え上げられている。もちろん、常人離れした肉体的資質があることは確かなのだが、ギデオンやカナンの動きを目で追い、さらにはベイベルやホロフェルネスといった強敵と相対することで、欠けていた技量や経験の穴が一気に充填された。
完成されていた器に、ふさわしい中身が注がれたのだ。
自分とイスラとの間には、容易には埋まらない差が存在する。
そんなことはトビアも分かっていた。
「それだと、どれだけ時間が掛かるか分からないじゃないですか」
それでも、トビアは焦っていた。今すぐ強くなりたかった。
「何でそんなに焦ってるんだ?」
イスラは砂に木刀の切っ先を突き立て、その柄に手を重ねた。
「焦ってなんて……!」
「ボケ。どう見ても切羽詰まってるだろうが。柄じゃないんだよ」
トビアは悔しそうに顔を歪めた。そういう風に感情がすぐ顔に出てしまうあたり、本当に素直な奴だなとイスラは思った。
「ウルクで会ったっていう、夜魔憑きの娘が引っかかってるんだろ?」
トビアは押し黙ったが、それは事実上の肯定に他ならない。
「お前が俺のやり方を真似て、それでお前の抱えてる問題は解決するのか?」
「それは……」
「お前は俺とは違う。お前は俺にはなれないし、俺だってお前にはなれない。お前の問題はお前のもので、俺の問題は俺のものだ。だから、その解き方だって、自分なりに見つけなきゃしょうがないだろ」
「僕のやり方が間違っているっていうんですか!?」
トビアは食ってかかった。
温厚な少年が珍しく見せた激情に対して、イスラは軽く肩を竦めた。
「さあな。ひょっとしたら正しいのかもしれない。でも、それはまだ分からないだろ?
お前、色々試したり、考えたりしたのか? 難しいことを考えたくなくて、とりあえず分かりやすい力が欲しくなっただけじゃないのか?
それで力が手に入ったとして、どうするつもりなんだ? その娘の影ごと、力尽くで夜魔を引っぺがすのか?」
「そんなこと……」
「大事なのはそこだろうが。闇雲にやったってどうにもならないんだ。
だから、まずはお前自身の意思をはっきりさせろ。
お前はどうしたいんだ? それをどうやるんだ?
何かを始めるのは、それを決めてからでも全然遅くはないさ」
偉そうなことを言っているが、果たして自分が同じような冷静さを持てるだろうか。イスラは自問してみたが、すぐにあまり意味の無いことだなと思い直した。
結局は、トビアが上手くやれればそれで良いのだ。イスラ本人が言ったことを守れているかなど関係ない。
(俺にはそういう才能が無ぇからなー……)
彼自身が実行出来るかは別として、言ったことに間違いは無いと思う。木々を走る時は枝を確かめろ、という言葉も残っているくらいだ。自分の立脚点を明らかにするのは大切なことだと思う。
そして、そういう論理的な問題に挑戦するのなら、自分よりもカナンを頼った方が良いのではないか……。
イスラがそう考えた時、ちょうどカナンが二人の居る場所に向かって歩いてくるのが見えた。