難民団の居留地は、パルミラからやや離れた、ティベリス川の岸辺に沿う形で広がっている。元々は造船所のあった場所で、今は船の建造は行われていないものの、放棄された船体や施設はそのまま残っていた。廃墟のようなものだが、それでも雨風をしのげる場所があるのは有難いことだった。
その居留地の周辺に、パルミラの商人たちの馬車がたむろしていた。ほとんどが食料品や衣類を売る商人たちで、商人としての格もそれほど高いようには見えない連中ばかりだ。
だが、馬車は続々と橋を渡ってこちらに向かってくる。吊るされた灯火の列が小川のように連なり蠢いている。
商人たちは到着するやいなや即座に店を開き、すでに出来上がっていた市場をたちまちのうちに大きく膨れ上がらせていく。
パルミラから渡し船を使って戻ってきたカナンとペトラは、地面に立つのと同時に顔を見合わせた。
馬車の上に陣取った商人たちが大声を張り上げ、それにつられるように難民たちも周囲を取り囲んでいる。下から伸びる手を「シッシッ」と足で払いながら、その直後には満面の笑みを振りまく彼らの節操の無さに、二人は圧倒された。
「やだねぇ、今来られたってこっちに買い物するだけの余裕は無いってのに」
ペトラは呆れたようにため息をついた。懐が寂しい時に商品を見るほど辛い事は無い。飢えた馬の鼻先に人参を垂らすようなものだ。
なまじ全体の状況を把握しているだけに、ペトラにとってはいささか腹立たしい光景だった。
「ああいう商魂の逞しさこそ、パルミラ商人の特徴ですよ。それに、高値の取引なんて出来ないって、先方も分かっているはずです」
彼女の憤りは理解出来るものの、カナンには商人たちを追い払うことなど出来ない。
「彼らも仕事で来ているんですから、そこは大目に見てあげないと」
「そりゃそうだろうがさぁ……」
ペトラは一応納得したようだったが、怪訝そうな表情は崩さなかった。
◇◇◇
だが、誰も彼もがペトラのように物分かりが良いわけではない。暴発する者は当然現れた。
切っ掛けは、小麦粉売りの商人が法外な値段をつけて商品を売ろうとしたせいだった。生活に無くてはならない物ならば、多少足元を見ても買わせることが出来ると考えたのだろう。
無論、そんな態度に怒りを刺激されないはずがない。特に、敏感な若い層には我慢がならなかったらしく、何度かの暴言の応酬の末に力づくでの喧嘩となりかけた。
もちろんカナンは慌てた。今からパルミラと交渉しようという時に、傷害事件など起こされてはたまったものではない。いくら向こうに非があると言えど、パルミラからの信用を失えば再び砂漠に放り出されることになるのだ。
一刻も早く止めなければならない……そう思って現場に駆け付けた時には、すでに事件は解決を迎えていた。
商人と難民たちとの間にズカズカと割り込んだイスラが、詰め寄っていた若い男を突き飛ばし、抜き身の
数々の修羅場をくぐってきただけあって、イスラの眼光は常人を寄せ付けないだけの鋭さを宿している。恐れおののいた難民たちは浮足立ち、パルミラの商人に抱いていた怒りも無理やり鎮火させられた。
対して商人側も、どっかりと店先に座り込まれたのでは商売にならない。しかも、文句をつけようとすれば闇渡りの金色の瞳で睨まれるときている。狂暴な闇渡りに喧嘩を売るほど、商人の肝も太くはなかった。
イスラは剣を肩にもたれさせ、片膝を立てたまま首を後ろに向けた。ニッと凄みの籠った笑みを見せられた商人がわずかに後ずさりした。
「悪かったな、皆長旅で気が立ってるんだ。悪戯する奴が出ちゃ悪いから、しばらく俺が見張っておいてやるよ」
「は、はは……そりゃあ、どうも……」
笑顔を引き攣らせて商人は頷いた。彼がほどなくして店仕舞いをしたのは言うまでもない。
その一部始終を見ていたペトラは、ぽつりと「面白い奴だねぇ」と感心したように呟いた。
「闇渡りなんて、たいてい粗暴な奴ばっかりだって思ってたんだけど、あいつには色々と驚かされるよ」
「ああ見えて、結構気遣いの出来る人ですから。やり方は不器用なんですけどね」
「そういうところに惚れたんだ?」
「っ……いちいちからかうのはやめてくださいっ」
真っ赤になって言い返しながらも、カナンは確かにそうかもしれないと思っていた。自分や、あるいはトビアに対して見せる優しさは、いつもどこか不器用でぶっきらぼうだ。でもそんなところが可愛くて愛らしくて、温かさを感じる。
(そうか、彼は不器用だから……下心が無いから、煌都の男《ひと》たちと違って感じるのかも……)
エルシャでは、いつも誰かから打算の込もった目で見られる日々を送っていた。それこそここに並んでいる商品と同じように、別の何か……金品、名声、武力と交換可能な物として扱われてきた。
値段をつけられ、交渉され、競りにかけられる……祝福された乙女、天使の末裔と言えば聞こえは良いが、本質的には家畜の競り市となんら変わらない。少なくともカナンはそう思っている。自分の貞操にいくら値段をつけるか、それが自分の意思の介在しない場所で話し合われるのが最高に不愉快だった。
アラルト山脈の大発着場でレヴィンが言っていたことは、ある意味的を射ている。煌都に居る限り、自分の価値など「宝物で作られた雌鶏」以外の何物でもないのだ。カナンは、彼女の背後にある金や名声を示す記号に過ぎない。
そこに、自分自身の生きる意味など、生じるはずもない。
だからこそ、闇渡りの守火手を欲しがったのかもしれない。煌都の価値観に縛られず、したがって煌都流の見方で自分を見ない人を求めていた。
イスラは、まさにそんな人間だ。
「ペトラさん」
「何だい?」
「ちょっと前イスラを…………好き、になった理由を聞きましたよね」
「ああ」
「彼しか持っていないものって、何だろうってずっと考えてたんですけど……やっぱり、イスラが優しい闇渡りだから好きになったんだと思います」
優しいだけでは駄目だっただろうし、ただの闇渡りでもやっぱり駄目。相反する二つの属性を併せ持っているからこそ、イスラはイスラたりえるのだ。そのことにようやくカナンは気付くことが出来た。
ペトラは「そうかい」と答えて頷いた。カナンの答えを否定する要素は、どこにも無かった。
だが、この日イスラは、もう一度カナンやペトラを驚かせるようなことをやった。