オアシスを出て数日後、ウルクの難民団は無事に街道へと到達出来た。
闇に閉ざされたこの世界で、天火によって照らされた街道は唯一の交易路として機能している。幅三〇ミトラの舗装された道路に、およそ十ミトラス(約一〇キロ)単位で小さな燈台や詰所が建っており、その一帯を明るく照らし出している。
都市と都市を結ぶ各街道には、それぞれその地方の特色が現れている。煌都ニヌアからパルミラに至る砂漠の街道には等間隔で無数の列柱が立ち並んでいる。
その数は少なくとも十万本を越えると言われ、風化したものや倒れたものを含めれば、さらに膨大な数にのぼるとされている。
何故このような建造物が必要だったのか、今となっては失伝してしまったため分からない。だが、新たに意味づけをすることは出来る。ダハナ列柱街道の場合、それらの遺物は
難民団の大人たちは、初めて足を踏み入れる街道に感嘆しているようで、光に照らされた道の有難さを噛み締めている。一方子供達は、柱に描かれた絵や文字を眺めてはしゃぎ回っていた。中には、愉快な絵の描かれた柱を見て、自分も描きたいと騒ぐ子供まで出るほどだ。
残念ながら、列柱に描き込むための白墨はニヌアとパルミラの行政府が売り出しており、それを購入した者以外は描いてはならないのだ。
そんな残酷な事実を突きつけられた子供達が、あちこちで駄々をこね始める。泣き声と一緒に、母親の怒鳴り声や「置いていくよ!」という脅し文句が一団の中を飛び交った。
叱られてベソをかいた男の子が、泣きじゃくりながらカナンの外套を掴んだ。母親が慌てて引き離そうとするが、カナンはやんわりとそれを押しとどめた。
「そんなに泣いちゃダメですよ。夜魔が寄って来ちゃう」
「グスッ……イヤだぁ……」
男の子はぐずりながら首を振った。カナンはしゃがんで鼻水や涙で汚れた顔を拭き、男の子の手を取った。
「そうですね。もっと楽しいことを考えないと。柱に絵を描くのは、また今度にして、私と歌を歌いましょう?」
「歌……?」
「ええ。私、良い歌をたくさん知ってるんですよ。でも一人で歌うより、友達と歌った方が楽しいのよ。さあ、よく聴いて、続いてください」
手を繋いだまま、カナンは男の子の小さな歩幅に合わせて歩き出した。息を吸って、軽やかな声で歌い始める。
『わたしの宝を あなたにあげよう
くらがりを歩むあなたには それは杖となり灯りとなろう
けっしてお腹はふくらまないし
風もしのぎはしないけれど
胸の鍵穴をぴたりと埋める
そんな宝を あなたにあげよう』
カナンの歌声が響くと、それまであちこちから聞こえていた啜り泣きの音が少しずつ止んでいった。大人たちも叱るのをやめて、カナンの声に聴き惚れている。
この歌は、砂漠の旅のなかで彼女が何度か歌った曲だった。恥ずかしそうに口ずさんでいる者もいる。
『わたしの宝は
錆びることなく 盗まれもしない
わたしがそれを響かせて
あなたがそれを受け取れば
歌の宝は二つに増える』
カナンが普段歌うのは、祭司の子弟が学ぶ高雅な歌ばかりだ。古い言葉や語り方をしなければならない。ところが、今彼女の歌っている歌には、古い文法は使われていない。そんな知識を持たない人々にも届くように作られた、素朴で純真な歌だった。
『歌のひびきと 言葉のこころ
それが一緒でないのなら
時の嵐にさらわれて
人の胸には残らない
歌のひびきと 言葉のこころ
それが届いて宿るなら
流れのほとりの木のように
わたしは祈る それがあなたに伝わることを
丘のわたしから 海のあなたへ
夜のわたしから 昼のあなたへ
眠るわたしから 生けるあなたへ
愛と願いがとこしえに いつかの誰かへ伝わることを』
いつの間にか、歌声は幾重にも重なって夜の砂漠に響き渡っていた。車輪が転がり、蹄鉄が道路を叩く。そして無数の靴が地面を踏みしめているが、その音は決して重々しくはなかった。カナンの歌と天火につられるようにして、人々の心も引き上げられるようだった。
歌いつつ歩いていけば、よりよい未来に辿り着ける……カナンに導かれた人々の心には、そんな思いが芽生え始めていた。
だが、カナンがふと振り返った時、イスラは外套を引き寄せて口を閉ざしたまま歩き続けていた。
「わたしは祈る、それがあなたに伝わることを……」
歌の中に自分の想いを混ぜ込みながら、カナンは前を向いた。面と向かって言うことのできない自分の弱さが憎かった。
そして、いつまでも自分をなじり続けているわけにはいかなかった。
街道の進行方向から、いくつもの蹄鉄の音が聞こえてきた。やがて物々しい旗を掲げた槍や鎧が現れ、難民たちの行く手を遮った。
歌が途切れる。人々の間に緊張が走る。だが、カナンは剣に手をかけようとしたサイモンたちを杖で制し、ペトラと一緒に騎兵たちの前に進み出た。
「出迎え、ご苦労様です」
出し抜けにそう言うと、槍を構えていた騎兵たちは互いに横を向いて首をかしげた。馬の手綱をとりながら、一応は槍を向けてはいるものの、継火手の少女に武器を向けることに躊躇っているようだった。
そんな騎兵たちの列を割って、立派な身なりの騎士が進み出て来た。四十代ほどの落ち着いた感じのする男で、片手で部下達を諌めると、馬上から降りて二人に向かって歩いて来た。
「無礼を働きましたこと、平にご容赦願いたい。私の名はコルネリオ、街道警備隊の百旗長を勤めております」
「エルシャの継火手、名をカナンといいます。どうぞよしなに」
「岩堀族のペトラだ。よろしく」
カナンとペトラはコルネリオと握手を交わした。彼の冷静な態度を見て、カナンは彼を信頼に足る男と判断した。
「我々はパルミラに敵対する意図を持つものではありません。むしろ、煌都に益をもたらすために来ました」
「そのようですな。ここに来るまで、遠くからでもはっきりと、街道の天火が強まっているのが見えました。どうやら貴女は律儀な継火手のようだ」
しかし、とコルネリオは言葉を区切った。その目線は二人の背後の難民達の姿を捉えている。
「貴女は継火手ですが、他の方々は違います。彼らは我々の煌都に、どのような益を与えてくれるのですか?」
「売り物がある。きっとあんたの親玉たちも気に入ってくれるような物がね。何なら確認するかい?」
「是非」
ペトラはコルネリオを引っ張って、隊列の中央にある幌馬車へと連れていった。
数分後、若干興奮したような面持ちで戻って来た騎馬隊長は、カナンとペトラにパルミラの商人会議との会談を約束した。