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【第七十四節/背中と傷と】

「んっ……はぁっ、ぅん……」


 すぐ耳元で、カナンの妙に艶めかしい声が聞こえてくる。彼女に背中を向けたイスラは、吐息が肌に触れるたびに身体を硬直させた。


 カナンの「背中洗います!」という宣言の後、有無を言わさず岩に座らされ、こうして彼女に背中を洗われている。色々な意味で有難いのは確かなのだが、心臓に悪い。今は腰に布を巻いて隠しているものの、若干前かがみにならざるを得なかった。


 流石にカナンは衣服を着直しているが、だからどうした、と言いたい心地だ。


 カナンの洗い方は、お世辞にも上手とは言えなかった。これまで従者や付き人がすぐそばにいたのだから当然と言えば当然だ。彼女自身、手際が悪いと自覚しているのか、つたない手つきながら一生懸命に垢を落としてくれている。結果的に声が漏れてしまい、イスラを一層緊張・・させているのだが、カナンもカナンで声を抑えている余裕などなかった。


(ほ、本当にやっちゃった……)


 手は動かしたまま、真っ赤になった顔を俯かせる。


 実のところ、恥ずかしくて死にたいくらいだ。こんなに大胆なことをよく実行出来たものだと、呆れるのを通り越して感心してしまう。


 イスラに裸を見られた時、そのままくるりと回れ右して逃げ去ることも出来たのだ。だがそうしようとした矢先、頭の中でペトラの言った言葉が蘇ってきた。



『その男しか持ってないようなものを好いてやりな』



 イスラしか持っていないもの……それを頭の中で何度も呟きながら、カナンは顔を上げた。


 目の前にイスラの白い背中がある。そこにはいくつもの生々しい傷跡が刻まれていた。


 彼の背丈は平均よりもやや高い程度だが、背中の広さ、大きさはとても少年のものとは思えない。彼の立ち居振る舞いや言動、雰囲気が大人びているせいで、時々自分よりも一つ年下なのだということを忘れてしまうほどだ。


 大坑窟から逃げてくる時、この背中で自分を背負ってくれたのだと思うと、むしょうに嬉しくなった。自然とカナンの手つきも柔らかくなり、そっと肌の表面を拭っていく。彼女の心情など知る由もないイスラは、緊張する一方だったが。


(背中が好き……?)


 そう思うと、なんだかしっくりとくる感じがした。男は背中で語ると言うし、そういう男らしさに惹かれたというのは理由の一つになるかもしれない。


 だが、それでは彼の身体を好きになったようで、何だか安っぽい気がする。いや、身体を好きになるのは決して悪いことではないと思うが、カナンは今ひとつ納得し切れなかった。


「……おい、いつまでペタペタやってる気だ?」


「え? ……あ、ごめん……」


 気が付くと、カナンはイスラの背中に手の平を押し付けていた。慌てて手を引っ込めるが、ごつごつとした感触や体温はしっかりと手の中に染み込んでいた。


「お前、今日は何だか変だぞ。具合でも悪いのか?」


「いえ……そんなに私が心配ですか?」


「心配だよ。挙動不審なところとか、無防備なところとか……もし、今俺が襲い掛かったらどうするつもりなんだ?」


「ほぇ?」


 イスラに言われるまで、カナンはその可能性を完全に失念していた。「マジか……」とイスラが頭に手を当てる。


「考えてないのか?」


「ええ。全然」


「お前なぁ……いいか、お前は嫁入り前の女で、俺は闇渡りなんだぞ。危険だって思わないのか?」


「それ、今更言うことじゃないですよ。それともイスラは、私に、ケダモノみたいな男だって思われたいんですか?」


 イスラはバッと振り返って指を突き立てた。


「俺やお前がどう思おうが、何かの弾みで、だな……!!」


 だが、汗の滲んだ額に髪を張り付かせたカナンを見ると、否応なしに顔が赤らんだ。イスラはそれを隠すかのように首を別方向へと逸らす。そのまま見ていたら、もっと無遠慮に視線を巡らせてしまったかもしれない。


 イスラの視線には、カナンも気付いていた。別に不快とは思わなかったし、彼にその気があるのなら、もっと見ていてくれても良いと思った。


(……って、私っ、何考えて……!)


 頭から湯気を立てながらカナンもそっぽを向いた。


 何ともむず痒い空気が二人を包んだ。


 すぐ近くにある相手の心臓の鼓動が聞こえてきそうだ。


 泉の上を駆けていく風が二人の身体を撫ぜたが、寒いとは思わなかった。居留地から聞こえてくる喧騒がひどく遠くのものに感じる。


(……ほら、何もしてこないじゃないですか)


 その気になれば今でも、あるいは以前も、何度でもそうする・・・・機会はあったはずなのに、イスラは手を出さなかった。


 何が彼を引き止めているのだろう?


(私には魅力が無い……いや、それは無い、かな)


 これでも自分が絶世の美女であるという自覚はある。


 道徳なのか義理なのか。気になるが、今はとても訊ける雰囲気ではなかった。


「……なあ、ちょっと真面目な話をしないか?」


 イスラも耐え切れなくなったのだろう、それまでの空気を払拭するようにそんなことを言い出した。


「何ですか?」


「ああ……これからの旅のことだ。カナン、お前の目的は変わってないんだよな?」


「ええ、私は今でも、エデンにたどり着きたいと思っていますよ。ただ……」


 思えば、カナンが最初に抱いていた計画とは大きく変わってしまった。ウルクの大坑窟に首を突っ込んだ時点で後戻りが出来なくなっていたのだ。


 本来はもっと身軽な状況で旅をするはずだったのが、今や難民団の指導者の一人になってしまった。まさか彼らを放り出すわけにもいかず、元の計画は破棄せざるを得なくなっている。


「ペトラや爺さんには、お前の目的は話したのか?」


「はい。でも、他の人にはまだ……」


「あいつらを全員エデンまで引っ張って行くのか?」


「それは無理ですね。犠牲が増えるだけです。せめて非戦闘員だけでも、どこかで匿ってもらわないと……」


 だが、元よりそれが出来れば苦労はしない。難民が受け容れられないからこそエデンが必要なのだ。


 幸い、ここから最も近い位置にあるパルミラは、風習や慣例より実利を重んじる風土の都市だ。交渉のしようによっては滞在権を引き出せるかもしれないし、相手が飛びつきそうな商品もある。


「ひとまず、パルミラに立ち寄って物資を補充します。本格的にエデン行きを考えるのは、その後ですね」


「そうか。いや、お前がそう言うなら、俺は何も異論は無い。好きにすれば良いよ」


「……やっぱり、まだエデンが欲しいとは思いませんか?」


「思わねえな。他の連中には要るだろうけど、俺は要らない。生まれてこの方、ずっと闇渡りとしてやってきたんだ。今更都市で暮らしていく気にはなれない」


「イスラはまだ若いじゃないですか」


「若さなんて関係無いさ。物書きのゲオルグ曰く、黒パンや薄い麦酒ビラーが刻んだものは、死ぬまで心に残り続ける……どこに行っても、どんな姿をしてても、身体や心を作り上げたものからは逃れられないんだ」


「……」


「俺は俺だ。死ぬまで俺のままなんだよ」


 カナンをその場に残して、イスラは立ち上がった。「ありがとよ」と素っ気なく礼を言い、服をまとめて泉から立ち去った。


 その背中に向かって、カナンはぽつりと呟いた


「……それでも、私はあなたと……」

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