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【第七十三節/オアシス 下】

……二時間三十分前


 蛇には手をつけず、パンと干し肉だけの食事を摂ったカナンは、オアシスの外れに向かった。先に来ていたペトラが足元を見るように促すと、馬車の残骸や荷物、動物の骨が散らばっていた。


「あの蛇に襲われた連中の末路さ。オアシスに休みに来たのに、あんなのにぶつかったら堪らないさね」


「砂漠の商人たちは、オアシスの存在を何よりも重視してます。おそらくここも知られてはいたのでしょうけど、あの蛇のおかげで近寄れなかったんでしょうね」


 葬いの祈りをしてから、カナンは砂からのぞいていた布を引っ張り出した。汚れ、千切れたそれは、絨毯の切れ端だった。


「間違いありません、パルミラの商品です。この近くに交易路があるはずです」


 ペトラは「やれやれ」と呟き肩を叩いた。ぶっきら棒な態度だが、吐き出した息の中に安堵の色が混ざっている。


「ザマァ無いよ。勢い勇んで出て来たら場所が分からなくって、一月も砂漠ン中をうろついたんだからね。ここが見つからなきゃ、どうなってたことやら……」


 食料も水もほとんど限界に達していた。大坑窟からの脱出は、転移門を起動させたうえで慎重に準備を重ねる予定だった。だから物資の蓄積はある程度行っていたのだが、結果的に見切り発車となってしまった。


 そのため、物資は予定していた量を下回り、さらには貴重な馬車を重要な荷物・・・・・を運び出すために使う羽目になってしまった。


 脱出者たちの体力は減る一方、そしてそれ以上に精神的な消耗が激しかった。さっきの喧嘩や、今、泉の方から聞こえてくる楽しげな歓声は、積もりに積もった重圧の裏返しだ。


 ペトラは思う。この集団の中で、カナンの存在は彼女自身が自覚している以上に大きく重要になっている。


 砂漠越えにせよ、ベイベルとの対決にせよ、カナンは普通の人間では出来ないようなことを次々と成し遂げて来た。はたから見れば、まるで奇跡のようだ。


 本当は違うのだと、ペトラは分かっている。カナンの活躍の陰には、いつも闇渡りのイスラが立っている。皆が彼女を拠り所とするように、カナンもまたイスラの存在を拠り所にしているのだ。


 薄々気付いてはいたが、やはりカナンはイスラに恋をしている。


 カナンが彼を好きになった経緯は分からない。だが、ここに至るまでに多くの出来事を体験し、共有してきたのだろう。それが積み重なった挙句、少女は気持ちを自覚するに至った。極々自然な流れだ。


 ただ、その決め手が何だったのか興味がある。


「ねえカナン」


「はい?」


「あんた、あの闇渡りのどこに惚れたんだい?」


 狐に見つかった兎のように、カナンは砂の上でピョンと跳び上がった。あまりに分かり易い反応だった。


「鈍い奴ならともかく、分かる奴にはモロバレだよ」


「……はい」


 カナンはあっさりと肯定した。


「自分の気持ちに気付いている娘は素直だね。で、どうなのさ?」


「うーん……」


 いざ言葉にしろと言われると困る。惚れた腫れたといっても、結局は感情の問題だ。ペトラも少し意地悪な質問だったと自覚しているのだが、あのベイベルの心を読み切ったカナンが、こんな些細な質問に答えられないのは面白い。


「やっぱり……優しいから、でしょうか。ぶっきら棒だけど本当は面倒見が良くって、自分より他人のことを優先するし……でも全然恩着せがましくないとことか……」


 カナンは思いつくことをつらつらと並べてみた。


 ところが、ペトラはレモンを舐めたようなしかめっ面を浮かべている。


「弱い」


「へ?」


「それじゃ理由が弱いよ」


 ペトラはぴしゃりと言ってのけた。


「いいかい、カナン。よほどのワルでない限り、男は女に優しいものさ。それが本当の優しさかどうかは関係無い。ともかく、最初のうちはほとんどの男は優しくしてくれるのさ。


 だから女は、軽はずみに優しさに惚れちゃいけないよ。それ以外のもの……その男しか持ってないようなものを分かってやりな」


「イスラしか持ってないもの……」


 カナンは俯いて考えてみた。


 イスラと交わしたやり取りや出来事を思い出すたびに、その一つ一つがかけがえのないものとして浮かび上がってくる。だが、それを上手く言葉にすることが出来ない。


 祭司ともあろう者が、感情を言葉に出来ないのは良くないと思った。いくら破天荒でも、カナンにも祭司としての矜持がある。それにここでちゃんと説明出来ないと、ただ舞い上がって好きになったようで、嫌だった。


「うー……ん」


「カナン?」


 カナンは腕組みしたまま固まってしまった。服を引っ張っても、真正面で飛び跳ねてみても動く気配が無い。


 カナンは、解けない問題を放っておけない性質だった。


「すみません、しばらく考えておくので……ペトラさんは先に戻っておいてください」


「あ、ああ。寒いし、早く戻ってくるんだよ?」


「はい」


 生返事を返したカナンは、結局そのまま同じ場所をうろうろとしながら頭をひねり続けるのだった。




◇◇◇




……一時間前


「ったく、結局こうなるのかよ」


 疲れて眠りこけたトビアを背負って歩きながら、イスラはぼやいた。


 あの後三時間近くトビアの特訓に付き合ったのだが、あれよあれよという間に時間は過ぎてしまい、疲労の極致に至ったトビアは倒れてそれきり起き上がらなくなった。まさか砂をかぶらせておくわけにもいかないので、こうして居留地まで戻ってきた次第だ。


 難民たちの野営地は、オアシスの南部に沿う形で広がっている。粗末な天幕ばかりだが、砂漠の冷たい風から身を守るには十分だ。あちこちで焚火が焚かれ、その傍で人々はゆったりと時間の流れに身を任せている。


 そんな中、一か所だけ妙に騒々しい場所があった。男の若衆だけを集めた区画で、イスラやトビアの寝床もその中にある。トビアを天幕の中に放り込んで様子を見に行くと、焚火の前でなけなしの酒を持ち寄ったサイモンたちが賭けに興じていた。


「よう兄弟! 遅かったじゃねえか!」


 すでに出来上がったサイモンが陽気な声でイスラを呼んだ。「誰が兄弟だ」と返しながら、イスラは焚火の輪の中に腰を下ろした。隣に座っていた岩堀族の男が、麦酒ビラーの入った杯を手渡した。それを、一息に飲み干す。


 麦酒からはほとんど酒気が消えていた。口の中で少しだけ弾けるように感じるが、まるで苦い水を飲んでいるかのようだ。それでも少しだけ甘味があり、砂で乾いた喉を潤してくれる。掻き毟りたくなるような渇きが癒され、飲み干すと少しだけゲップが出た。


 口の周りについた泡を手で拭っていると、すぐに二杯目が注がれた。


 イスラは二杯目もあっさりと飲み干した。それを見たサイモンがニヤリと笑って、同じく酒を呷る。一座から「おおっ」と感嘆の声が上がった。


「……この野郎」


 なし崩しに飲み比べが始まった。




◇◇◇




……十分前


「……だめ。頭冷やそう」


 一時間以上考えた末の結論がそれだった。


 油を売っていたおかげで、今は泉には誰もいないはずだ。いくら身体を洗える機会とはいえ、夜の砂漠で水浴びをするのは勇気がいる。皆寒さを嫌って足早に出て行くか、桶に汲んだ水を温めて使っていた。


 その点カナンは、自身の天火を熱源にして周囲を温めることが出来る。おそらく他の者よりは快適に使えるだろう。


 天幕に替えの下着や桶を取りに戻る。


 その中は他の女たちと共用しているため狭く、自分の荷物を枕代わりに使わなければならない有様だ。ごちゃごちゃしていて、自分の領土がどれくらいあるかも分からない。


「石鹸石鹸……って、私の荷物、どれ?」




◇◇◇




……五分前




「この大馬鹿野郎!」




「ぶえぇっ!」




 ビターンッ、と軽快な平手打ちの音が響き渡った。汗まみれのサイモンは地面の上を転がされ、揚げ物のように砂が裸の上半身に吸い付いた。


 仁王立ちしたオルファから後ずさりして逃げようとするが、他の女衆に完全に包囲されている。


 麦酒ビラーの樽が真横に倒される……酒は一滴も流れない。


「あんたらだけで空にするって、どんだけ馬鹿騒ぎしたのよ」


 ドンッ、と空樽に片足を乗せて、震え上がる男たちに睨みをきかせる。


「な、何で俺だけつんだよ!? やるならあいつも……」


「あいつって?」


「闇渡り……って、居ねえ!?」


 さっきまで自分と同じく上半身裸で飲み比べをしていたイスラは、騒ぎの予兆を察知すると人知れず退散していた。その手際の良さは熟練のもので、誰一人として気付かなかった。


「なぁに逃げを打とうとしてんだい。潔く罪を認めな」


「い、嫌だ! 俺だけ折檻を受けるのは嫌だ!」


「問答無用!!」


 ぎゃあああぁぁぁ……と哀れな悲鳴が響き渡った。




◇◇◇




……一分前


「脱走者のヨナ曰く、賢い逃げは恥に非ずってな」


 酒気を帯びて若干顔を赤らめながら、イスラは持っていた服を泉の岸の上に投げ捨てた。


 水の中に踏み込むと、刺すような冷たさが一瞬で火照りを消し去った。イスラは腹に気合いを込めて、一気に頭を水に漬ける。


「……ッハァ!」


 髪の毛をかきあげ、顔を拭う。長い間洗えてなかったため、髪は油で固まっていた。皆んなが皆、同じような体臭のため気にならなかったが、やはり汗の臭いが染み付いていた。


 何度かそれを繰り返していると、髪も徐々に素直になっていく。次は身体を……と思ったが、石鹸が無い。


「しまった、どうすっかな……」


 イスラがぼやいたその時、ほとりに植わった木々が揺れた。


「おう、ちょうど良かった。悪いけど石鹸……」




 全裸のカナンが立っていた。手から桶が離れ、中に入っていた手拭いと石鹸が地面を転がった。




「……は?」


「なっ、ななっ、何でっ……イスラがここに!?」


 二人の間を風がすり抜けていった。水面にわずかに波が立ち、水に映った月が揺れた。



 ハッとしたイスラは首まで水に浸かり、そのまま背中を向けた。



 だが、イスラの目にはカナンの肢体が焼き付いていた。



 しなやかな手足には、細いだけでなくしっかりと筋肉が付いている。手足に比べてやや色白な腹部にも、うっすらと腹筋が浮かんでいた。それでいて肩や胸、腰は滑らかな曲線を描いていて、一片のたるみも無い。


(……いかん)



 立てない。


 いや、勃っているから立てない。



 こればかりはイスラにもどうしようもなかった。



 願わくば彼女が立ち去ってくれるのを祈るしかない。が、カナンの口からはイスラの予想しなかった言葉が飛び出した。




「あっ、あのっ……背中洗います!!」




「うん!?」

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