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【第七十三節/オアシス 上】

 金色の月光に照らされて、水晶のように澄み切った泉が輝いている。そのほとりには色とりどりの花が咲き乱れ、熟れた果実が枝をしならせている。時折吹き寄せてくるそよ風が水面に波をたたせ、草花を揺らした。




 そんな静謐な空間の中で、イスラとカナンは互いにほとんど全裸のまま向かいあっていた。




「……は?」




「なっ、ななっ、何でっ……イスラがここに!?」




 事の起こりは、数時間前にまでさかのぼる。




◇◇◇




……六時間前


 オアシスが見つかった、と斥候が叫んだ時、それまで陰鬱だった一行から喜びの声が湧き上がった。


 ウルクを脱出し、砂漠を彷徨い歩くこと三週間。持ち出してきた水や食料はほとんど底をついていた。幕屋の表面に出来た水滴を集めて何とか渇きをしのいでいたが、子供や老人には限界が近づいていた。


 そんな窮状であっただけに、難民たちの喜びもひとしおだった。カナンの隣を歩いていたペトラは、うっかり涙腺を緩めてしまったほどだ。


「ようやくあの地獄から抜け出せたってのに、野垂れ死になんて救われないもんね……これも全部、あんたのお陰だよ、カナン」


 オアシスを見下ろす砂丘の上で、ペトラはぺこりと頭を下げた。カナンは慌てて「かしこまらないでください」と言うが、岩堀族の棟梁は頑固だった。


「何言ってんのさ、こんなんじゃ足りないくらいだよ。あんたがあたしらのためにしてくれたことを思ったら……なあ、爺さん?」


 馬車の荷台に載せられたバルナバは、弱々しく、だが深く頷いた。


「そうじゃ。砂漠越えは貴女の天火が無ければ出来なんだ。儂らだけではすぐに絶望していたじゃろう。でも、貴女がいつも天火を掲げてくれたから、儂らは闇や寒さに怯えずに済んだ。本当に、感謝してもしきれんよ」


 カナンは砂埃に汚れた顔ではにかんだ。彼女の顔にも疲労が色濃く現れているが、その眼差しは少しも曇っていない。常に行く手を照らし、不安や恐怖で泣く子供たちに歌を歌って慰めてくれた。そんな彼女の姿が、ここまで自分たちを引っ張って来てくれたのだと、ペトラはあらためて確信した。


「私は、その……継火手として当然のことをしたまでですから」


「普通の継火手じゃあ、あんたみたいには振る舞えないよ。もっと胸を張りな」


 そう言われて、カナンはイスラの方を見た。視線に気付いた彼は軽く笑った。


「素直に褒められとけよ。ひょうきん者のシラス曰く、施しと感謝は素直に受けろ、だ」


「ふふっ」


「何だよ」


「いえ、イスラの格言それを聞くのも、ずいぶん久しぶりだなって思って」


「そうか?」


 そんなに長らく使っていなかっただろうか、とイスラは顎を撫でた。


 その横顔に向けられたカナンの視線には、少しも気付いていなかった。




◇◇◇




……五時間三十分前


「蛇だァー!!」


 誰かの絶叫とともにそれまで静かだった水面が沸き立ち巨大な影が立ち上がった。大樹の根のような胴体をくねらせ、火のような舌をのぞかせる大蛇が鎌首をもたげている。全長はおよそ十ミトラほどで、砂漠の色を思わせる鱗が身体を覆っている。


 大蛇は牙を剥いて侵入者に襲い掛かった。最初にオアシスに入り込んでいた者は這うようにして逃げ帰り、逃げ損じた馬が噛みつかれ水中に引きずり込まれる。


 だが逃げ惑う人々に逆行して、イスラは明星ルシフェルを抜き放ち真正面から突撃した。




「飯イイイイイイイッ!!」



 馬に噛みついた蛇は満足に動けない。だが蛇にしてみれば、砂漠の生態系の頂点である己に敵う者などいないと経験的に理解している。鬱陶しいので尾でも振って追い払おうとするが、イスラはそれを軽々と飛び越え、さらには尾を足台にして跳躍した。


 その時、蛇の目の中にある縦長の瞳孔には、生まれて初めて見る捕食者の姿が映っていた。


 明星ルシフェルは易々と蛇の首を刎ね飛ばした。




◇◇◇




……四時間三十分前


「……あの明星ルシフェルって剣はね、たぶんこの世界に存在する全部の伐剣を合わせたより価値のある一振りさ。いや、伐剣でなくたって、あれほどの物はそうそうありゃしない。それを……それをあいつ……!」


 ペトラの視線の先では、イスラの剣でぶつ切りにされた大蛇の肉が大量に転がっている。イスラはそれをかば焼きみたく切り開いて槍で突き刺し、直接火あぶりにかけていた。料理というにはあまりに大雑把な光景だが、当の本人はいたって幸せそうに蛇肉を焼いている。


 明星ルシフェルは焚火のための薪に無造作に立て掛けられている。全ての剣の中でも屈指の一振りが受けるには、あまりにお粗末な扱いだった。


「ま、まあまあペトラさん、落ち着いて……」


 なんとかペトラをなだめながら、カナンも「考えものね」と思っていた。武器の扱いが雑なのはイスラの悪い癖だ。


 彼が愛用する伐剣という武器は、斧や鉈といった日常道具としての役割も兼ねている。そのため、純粋に武器として見ることが出来なくなっているのだ。


 曰くオレイカルコスで作られた剣は絶対に折れたり砕けたりしないというが、果たしてイスラにもその法則が通じるのかどうか心配になってくる。


 そんな二人の心配をよそに、久しぶりの好物にありついたイスラは意気揚々と蛇肉に齧り付いた。


 大坑窟の難民たちは、イスラの焚火を遠巻きに取り囲んで覗いている。果たしてあれは美味いのか? そもそも食べられるのだろうか? 誰もが同じ疑問を抱いていたが、誰も面と向かって出ていかない。


「おいサイモン、お前行けよ」


 仲間に尻をつつかれたサイモンは「俺かよ!?」と狼狽している。そのうち仲間内で押し問答が始まり、やがて本格的な喧嘩へと発展した。「あんたら、いい加減にしなッ!」ペトラが腕まくりをして乗り込む間も、イスラは黙々と蛇肉を貪っている。


 そんな混沌とした状況の中で、一人、イスラに向かって歩いていく者がいた。


「イスラさん、僕にも一つください」


 イスラの前に立ったトビアは決然とした表情で言った。取り巻きの一同から「おおっ」と声が上がる。


「おう、山ほどあるからな。好きなだけ食え」


「じゃあ……」


 トビアは山刀で肉の一部を切り取り、ごくりと喉を鳴らしてから口に運んだ。やじ馬たちも固唾をのんで見守っている。


 一口噛んだ瞬間、歯を押し返すような強烈な弾力が伝わってきた。まるでバネを噛んでいるようで、頑張って何とか噛み切れるというような代物だ。味は不味いわけではないのだが、ほとんど塩の味しかしない。ただただ淡泊なのだ。


 トビアは率直に聞いてみた。


「……イスラさん、これ、美味しいですか?」


「いや全然」


「えぇ……」


「何贅沢言ってやがる。肉は食える時に食っとくモンだろうが。おいお前ら、不味くても肉食わねえとやってけねえぞ」


 蛇肉の刺さった串を振り回しながらイスラは促す。だが、「不味い」という前評判を聞かされたうえで蛇肉に挑む者は皆無だった。


「まったくもう、イスラったら……」


 呆れ半分に見つめているカナンの視線にも、やはりイスラは気付かなかった。




◇◇◇




……三時間前


 結局、イスラの蛇の丸焼きに付き合ったのはトビア一人だった。


 ある程度焼くには焼いたが、もとより二人で食べきれる量でもなく、余った分は全て捨てることになった。オアシスから離れた窪地に蛇の残骸を投げ入れ、残り火を投げ入れる。蛇の薄い脂肪をゆっくりと燃やしながら、炎はゆっくりと燃え広がっていった。


「……うぇっ」


「馬鹿。無理に食おうとするからだ。嫌なら途中でやめたら良かったんだ」


 食べ過ぎで気分の悪くなっていたトビアは、顔を若干蒼くさせている。イスラは「やれやれ」とぼやきながら水筒を渡した。


「まあ、こんなもんで良いだろ。後は腐るなり、獣や鳥が食うなりするだろうさ。

 で、どうする。今日もやるか?」


 水を飲み干しながら、トビアは首を縦に振った。「よし」イスラは薪の中から適当なものを二つ選び、片方をトビアに渡した。


「いつも通りにやろう。打ってこい」


「はい……!」


 木の棒を構えて、トビアはイスラに向かって突進した。打ち込まれた一打をいなしたイスラは、反撃はせずに一歩後退する。そこにトビアが打ちかかり、イスラが防ぐ……この繰り返しだ。


 ウルクから脱出した直後、傷を負っていたにも関わらず、トビアはイスラに対して訓練をして欲しいと願い出た。面食らったイスラは「カナンに頼め」と言ったのだが、トビアは彼から学びたいと言って聞かない。ついには根負けしてしまい、それ以来空いた時間を見つけてはこうして剣の訓練をしているのだ。


 トビアが言い出した時、ウルクで何かあったな、と直感した。カナンにも相談したところ、どうやら敵方に気になる少女がいたらしい。それで大体の理由は察した。


 女絡みではあるが、強くなろうとするのは悪いことではない。ただ、頼むならやはりカナンの方が適任ではないかと思う。どうして自分なのか、それだけが解せない。


 トビアは必死になって食らいついてくる。足場が悪く急な加速が出来ない分、腰を据えた読み合いが必要になる。トビアは持ち前の視力でイスラの動きを捉え、何とか守りを崩そうとしていた。


「……」


 イスラが棒を真正面に構える。それを突きの動作だと解釈したトビアは、真下から棒を振り上げた。


 それがぶつかる直前で、イスラは腕を引っ込める。「あっ」トビアはの棒は虚しく空を切った。空振りして隙だらけになったトビアの身体に、イスラは棒を突きつける。


「相手がいつも受けてくれるわけじゃない。ズルい奴なら、こういう手だって使うだろうさ。憶えとけ」


「……はい」


「続けるか?」


「はい」


「よし」


 そして再び、棒を打ち付ける音が夜の砂漠に響き渡った。

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