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【第七十二節/「私の守火手」】

 ウルクから離れる馬車の中で、ユディトは頬杖を突きながら大燈台ジグラットの遮光壁が開いていくのを眺めていた。


 あの街の下で、妹が人知れず戦いに臨んでいるのが不思議に思えた。気楽で呑気に見える癖に、誰よりも苦労を背負いこもうとする、一口で言えば馬鹿な娘だ。




 そういえば、とユディトは記憶を巡らせる。

 三年ほど前、こんなことがあった。




 ある日、授業を脱走したカナンを追ってエルシャの貧民街に向かった時のことだ。その時期のカナンは頻繁にナオミという継火手のところに出かけていて、彼女の運営している救貧院の手伝いをしていた。


 カナンが行くならそこだろうとあたりをつけたユディトが訪れると、カナンは寄付金集めに出掛けた後だった。妹の無軌道さに辟易へきえきしつつ、エルシャの大通りを捜し歩いていると、襤褸を着て貧民たちの間に混ざったカナンの姿があった。


 妹の姿は遠目にもすぐ分かった。服を変えようと、全体からにじみ出る雰囲気は貧者のそれと決定的に異なっている。育ちの違いは姿勢に現れるから、手や顔を隠していても簡単に見分けられるのだ。


『こんなところで油を売って』


 呆れ交じりに叱っても、カナンはけろりとしていた。それどころか欠けた器を渡して、一緒に物乞いをしないかと誘ってくる。馬鹿にしているのかと思った。


『あなたには祭司としての自覚が無いの?』


 そう言うと、


『えへへ……あんまり』


 と悪びれずに答えた。それで肩の力が抜けてしまった。


『あと三年もすれば、私たちは本物の継火手になるのよ。あなたは自分の守火手にもこんなことをさせるつもり?』


 その時のユディトは、まさかカナンが闇渡りを守火手に選ぶなどと夢にも思っていなかった。せいぜいそれなりの家柄の軍人が選ばれるだろうと高を括っていた。


 だが今思うと、あの時からカナンは、誰か特別な人間を選ぶつもりでいたのではないか。


『姉様』


『何?』


『エルシャには大勢の人がいますね』


 目の前の雑踏を見ながら、カナンは言った。何を当たり前のことを、とユディトは思った。


『当然でしょ? 煌都なんだから』


『ふふっ』


『何がおかしいのよ』


『もしかすると、今ここを歩いている人の中に、私の守火手になる人がいるかもしれない……いいえ、ここじゃないどこかに、絶対にその人はいるんだって……そう思うと、少し不思議な気持ちになって』


『ふうん』


『ま、姉様はギデオン一筋だし、分からないよね」


『……今、馬鹿にしたでしょ』


 カナンがどうしてそんなことを言ったのか、その時は分からなかった。


 ただ、あの時のカナンの瞳は、いつもよりも少し明るく見えた。もしかすると、その目は雑踏などではなくて、もっと遠くを見ていたのかもしれない。


 その時、あの闇渡りはどこかの森の中を歩いていただろう。自分の運命が、煌都に住まうカナンと交差することなど微塵も予想していなかったに違いない。だが、今彼は妹の傍に立って戦ってくれているのだろう。


 典型的な祭司であるユディトにとって、闇渡りのイスラはやはり野蛮な存在として映った。


 ただ、祭司である以前にカナンの姉であるユディトは……何故カナンが彼を選んだのか、分かるような気がした。言葉にするのは難しいが、確かに彼でなければ務まらないのだろう。


「闇渡りのイスラ……カナンの守火手、か……」


 闇渡りなど信頼出来ない。そう教えられてきたが、確かに彼ならば、あの危なっかしい妹を支えていてくれるのではないか。


 だから、これ以上カナンの心配をするのは無駄なことだ。エルシャに戻ったら、やらねばならないことが山とある。放蕩娘の妹など放っておいて、自分が過労で倒れないか心配した方が、よほど生産的だ。


 そう考え直して、ユディトは目を閉じた。




◇◇◇




 カナンが手の痛みに目を覚ますと、すぐそこにイスラの頭があった。噛み切られた首からは血が流れている。白い肌は黒炎の熱ですっかり炙られ、そこかしこが火傷で腫れ上がっていた。腹を殴られた際の痛みが尾を引いているのか、口から洩れる息はひどく乱れている。


 そんな満身創痍の有様で、イスラはカナンを負ぶって地下通路を歩いていた。


「イスラ……」


 カナンもまた朦朧としていた。疲労が重くのしかかり、指一本動かせない。何とか耳元で囁くのが精いっぱいだ。


「よぉ、起きたか?」


 彼の声音は穏やかだった。自分は賭けに勝ったのだと、ようやくカナンは実感した。


 イスラのすぐ前をペトラが歩いている。表紙の焦げた魔導書を背中に背負い、両手にはそれぞれカナンの杖とイスラの剣を持っている。刀身の中に閉じ込められた蒼い炎が行く手を照らしていた。


「ペトラさん、無事だったんですね」


 カナンがそう言うと、振り返ったペトラは「おうさ」と笑い返した。その額には瓦礫がぶつかった際の傷が残っていて、紫色に腫れ上がっている。


「残念だったね、もう転移魔法陣を抜けた後さ。あんな体験は二度と出来ないよ」


「俺はもう御免だ。まだ目の前がグルグルするぜ」


「そりゃ脱水症状のせいだよ。合流したらの一番に水を飲ませてやるからね」


 軽い調子で言っているが、その程度の疲労でないことはカナンもペトラも分かっていた。それでもイスラは弱音も吐かず、遅くとも一歩ずつ前に進んでいる。


「……なあ、一つ謝らなきゃいけないことがあるんだ」


「何ですか?」


「お前の手の傷な、一生残るかもしれねえ」


 カナンの手の皮は剣の柄に張り付いて剥がれなかった。放っておくと感染症になる可能性もあったため、カナンが気を失っている間に張り付いた箇所をナイフで削いで切り離したのだ。その後、布を巻くなどして応急処置は施したが、天火が底をついているカナンにはその程度の傷を癒す力も残っていなかった。


「……そんなこと?」


 カナンは唖然とした。


「イスラの方が、私なんかよりずっとボロボロじゃないですか。人の心配するなんて生意気ですっ」


「生意気って、お前な……俺は真剣に言ってるんだぞ!」


「えいっ」


 イスラの後頭部に軽く頭突きを喰らわせる。その程度の衝撃でイスラはよろめき、カナンも頭の中身が掻きまわされるようだった。


「もう……」


 これだけズタボロになっている癖に他人の心配をするイスラは、自分なんかよりもっとずっとお人好しだ……カナンはそう思った。


 いつもそうだ。イスラはいつも、自分の身の安全など省みず、危機に駆けつけてくれる。どれほど強大な敵にも臆さず立ち向かい、傷だらけになっても決して生き延びることを諦めない。獣のような野蛮さで敵に食らいつく一方、他人に対しては素朴で不器用な優しさを見せる……。


 イスラの背中は傷だらけだ。肩も首筋も、今自分を支えてくれている両腕も、どこもかしこも傷がある。そしてきっと、目に見える以上の傷を心に負ってきたのだろう。


 誰からも必要とされず、故無く憎まれ拒絶される。そんな人生を生きてきたというのに、彼は優しさの芽を心の中に残していた。


 それは、どんな武勇にも勝る価値があると、カナンは思う。




 ――嗚呼、そうか。私は……。




 カナンはイスラの背中に、そっと頬を寄せた。


 エルシャに居た頃、ギデオンに片思いをしているユディトを何度もからかった。普段は固いことばかり言っている姉が、ギデオンが絡むと途端に女々しくなる。その落差が不思議で仕方が無かった。


 カナンは煌都に居た頃、一度たりとも男性を魅力的と思わなかった。祭司や軍人の子弟に対しては、心のどこかで軽蔑してさえいたほどだ。


 誰もが商品を見るような目で自分を見る。その視線に耐えられなかった。ユディトにはギデオンがいるが、彼のような男はそうそういない。姉をからかっていたのも、もしかすると心のどこかで羨んでいたのかもしれない。


 だが今は、ユディトの気持ちが良く分かる。もう二度とからかえないかもしれない。


 胸の中が苦しく、そして、不思議な暖かさが溢れている。心臓の鼓動が、自分でも分かるほどに大きくなっていた。それは、カナンがかつて体験したことのない感覚だった。




 ――私は、この人を愛してしまったんだ。




「どうした、どこか痛むのか?」


「……いいえ」


 きっと、口に出して言わなければ、彼は気付いてくれないだろう。今はそれでいい。カナンもカナンで、初めてのことに戸惑っていた。


 やがて、通路の先に朧げな光が見えてきた。


「大丈夫、もう歩けます」


 ふらつきながら、杖を頼りに何とか出口を抜ける。目の前には、月光に照らされた砂漠が広がっていた。転移門の出口は何とか砂から頭を出しており、それ以外の建物は全て飲み込まれてしまっている。


 天を仰ぐと、満天の星々と朧げな月が浮かんでいた。それはイスラの瞳の色や、彼の持つ剣と良く似ている。


「ルシフェル……」


「え?」


「その剣の名前です。光を運ぶ者、という意味ですよ。明星の別称ですね」


光を運ぶ者ルシフェル、か……ちょっと仰々しいけど、悪くないな」


 砂丘の下には先に脱出した人々が松明や篝火を焚いて集まっている。その光景は、牧場に放り出されたままの羊のようだった。


「行ってやっておくれ。あんたが姿を見せたら、みんな安心するからさ」


 カナンは頷き、天火を集中させようとする。だが、杖には種火程度の天火も出ない。


「カナン」


 イスラはルシフェルの柄を差し出した。


 カナンはそれを手に取り、刀身の中で燃えている炎を高く掲げる。それは数多の星の一つのように輝き、無謬の夜を僅かに照らし出した。




 その光は、まだエデンには届かない。




 だが、その時・・・が来るのも、決して遠くはないとカナンは思った。

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