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【第七十節/超克の蒼き炎 下】

 向かい合った二人の間に奇妙な沈黙が訪れた。ベイベルの天火は依然轟々と音を立てて燃え盛っているが、大坑窟の闇に虚しく響くだけだ。崩れた防塁、雪のように降り積もった灰、倒れた仲間たちの間に一人で立ったカナンは、じっと敵を見据えていた。


 フッ、とベイベルは鼻を鳴らした。


「何を言い出すかと思えば……ついにお前の目も、恐怖で霞んでしまったか。一体今まで何をみていたというのだ。


 それに、その答えとて陳腐であるな。余が人間だと? それはそうであろう。見たままのことを言っておるだけだ」


 ベイベルはカナンを嘲笑するが、カナンの目はどこまでも澄み切っていた。まるでお伽話に出てくる全てを映し出す水晶球のように。そこには、狂気や恐怖に惑わされていない、確かな理性が宿っていた。


「いいえ、今になってようやく私は、貴女の本当の姿を知ることが出来た。


 ずっと引っかかっていたんです。この地下世界では、誰もが貴女のことを化け物と呼ぶ。でも、化け物である以前に貴女は人間だ。その当然の事実が無視されていた」


 言葉がすらすらと唇に上ってくる。何もかもが明瞭だった。


 見破れない嘘など、何一つ無いように思えた。


「貴女の戦い方や言葉にも、どこか奇妙な部分がありました。ついさっき、イスラの首を噛んだことだってそう……人間はあの程度では死なない。貴女はそれを知っていて、わざと恐怖を感じさせるような攻撃を選んだのではないですか?」


「……だから? だから何だと言うのだ。余がそんなことをして、何の益が」


「全て計算づくの演出なのに?」


 ベイベルの言葉を遮り、有無を言わさない口調でカナンは問い詰めた。それが正鵠を射た言葉でなければ、彼女を再度黙らせることなど出来なかっただろう。


 カナンは確信した。


 これ・・こそが、魔女ベイベルの最大の弱点なのだと。




「ベイベル。貴女は誰よりも、その黒い天火を恐れている」




 果たして、魔女は沈黙した。そして敵意と殺意が炎となって猛り狂う。


 だが、彼女の頭上から止め処なく湧き出る天火アトルこそ、彼女の力の源であるとともに恐怖の源でもあるのだ。


 そのことに気付けば、全ての謎が連鎖的に解けていく。


「この地下世界で、貴女は誰からも人間として見られていなかった。貴女がそういう風に人々の心を誘導していたからです。ことさらに他者を傷つけ、気まぐれを装って人を焼き殺して……でも、それは全て怪物として見られるための演技に過ぎない。なぜなら、貴女は」


「黙れッ!!」


 ベイベルが怒鳴る。黒炎がカナンのすぐ近くを通り過ぎていく。だが、カナンは身じろぎするどころか、瞬きさえしなかった。


「……なぜなら、貴女は怪物でなければならなかったから。人間の心では、そのあまりに強すぎる力を支えることが出来ないからです。


 どれだけ乱暴に振る舞っていても、本当の貴女は知恵や理性に恵まれている。だからこそ、人間としての自分の弱さや脆さを自覚していたし、自分だけの思い込みで怪物にはなれないことも分かっていた」


 カナンはベイベルの力の強大さを認めていた。それ自体は疑う余地がないし、その脅威も嫌というほど味わった。今でもそれを向けられれば否応なしに恐怖を覚える。




 だが、もし自分がその力を持っていたとしたら?




 恐らく、嬉々として力を振るうことなど出来ないだろう。


 強大な力を持つということは、それが自分を害さないよう制御するということでもあるのだ。剣には鞘があるように、天火にも法術という鞘がある。ベイベルでさえ、制御のための「門」を開いたほどだ。


 それに、首を刎ねられたり心臓を潰しても蘇るなど、人間離れも甚だしい。逆に気味の悪さを覚えるのではないか。少なくとも、人間の感性・・・・・では。


 ベイベルが人間としての心や感性を宿しているとすれば、彼女もまた、同じような混乱や恐怖を感じたに違いない。それを克服するためには、人間の命や倫理、価値観などを物ともしない、怪物の心・・・・が必要なのだ。


「自我は自分では作れない。それは常にを通して作られる……貴女は初めからそのことに気付いていた。だから、自分の望む姿を語ってくれる鏡を求め続けていたんです」


「違う! 余は他者など必要とせぬ!! 鏡など余には必要無い!!」


 否定の言葉とともに炎が巻き上がり、熱の波がカナンの髪を激しく搔き乱す。灰が舞い散り、瓦礫が音を立てて揺れ動いた。その騒々しさに負けないほどの声で、カナンは「嘘だ!!」と怒鳴り返した。




「貴女には他者が必要だった! 自分を怪物と呼んでくれる他者が、怪物と呼んでもらえるような場所が、演技が!


 下らないッ!


 この大坑窟も、仮面の不死隊アタナトイも、貴女が行ってきた虐殺も、何もかもがただの怪物ごっこ・・・・・に過ぎない!!


 お前が、お前自身の力の恐怖から目を反らすための、惨めで憐れな、度し難いお遊戯だ!!」




「言うなああああああああああああああああああ!!!!」




 から溢れた天火の全てが、カナンに叩き付けられる。


 カナンは、倒れたイスラの手から剣をもぎ取り、それを構えて黒炎の津波を受け止めた。


 炎の波が真っ二つに分かたれる。だがオレイカルコスの剣と言えど、ベイベルの圧倒的な天火を受け止めきれず、柄にまで及んだ熱がカナンの右手の皮膚を焼いた。


 まるで、手の平に焼鏝やきごてを押し付けられているかのようだ。カナンの小さな手に剣の柄が張り付く。




 だが、痛みを伴わない闘争などまやかしだ。




 視界の全てが炎に包まれた。魔女の怨嗟を飲み込んだそれは、地獄の底でのたうつ死霊たちのようだ。




「……天を去られし神よ、汝が力を振るうことを許し給え。我に御怒りの代行者たる権威を与えよ」




 押し寄せる闇のような炎のなかで、カナンは最後の法術を紡いだ。




「我が蒼炎よ、この天命を糧となし、至高の翼となりて御座につかえよ。

 永遠とわの賛美の歌い手也。怨敵を見張る櫓也。

 尽きること無き栄光の元、ひるがえれ、熾天使の羽衣ラファエルズ・ローブ!!」




 閃光、そして割れるような鐘の音と共に、黒炎の波が吹き飛ばされた。


 その光が収まった時、カナンは蒼い炎によって織り上げられた六枚の翼に包まれ立っていた。


 それは鳥の翼でも蝶の羽でもない、この世に類を見ない形をしていた。大きく長く伸びたそれは激しく燃え盛り、また激流のように波打っている。そして表面に浮かび上がった唇と目が、不可思議な言葉で至上の歌を響かせ、怒りに燃えて敵の居場所を探している。


 この世ならざる美しさと禍々しさを備えた翼を前に、さしものベイベルも一時圧倒された。


「熾天使級だと……!? しかし、それが何か! 余の黒炎に敵うものではない!」


 現に、カナンの展開した翼は、そのうちのいくつかが不完全なままだった。ここまでの連戦で使った分の天火がまだ回復していなかったのだ。


 だが、これ以外にカナンが切れる手札は残っていなかった。たとえ、寿命のいくらかを削る術だとしても。


 そして、ベイベルの言う通り、彼女の黒炎を完全に突破出来ないとしても。


「それで良い……!」


 カナンは左手に持っていた杖を投げ捨て、剣の柄に添えた。


 正眼の位置に剣を構え、ベイベルに向けて一直線に突進する。蒼炎の翼が彼女の身体を包み込み、押し寄せる黒い天火を易々と弾き返した。


 ベイベルは黒炎を操り、真正面からカナンの術にぶつける。だが、それは叩き潰すというよりも消耗させるための行動だった。



 ――張り合う必要など無い! 



 単純な威力では、カナンの天火の方が自分より勝っていることをベイベルは認めていた。


 だがどれほどカナンの蒼炎が強力であろうと、彼女が出せる量には限界がある。対して、自分の天火は自身で把握出来ないほどに膨大なのだ。仮にこの炎の壁を突破され、身体の半分を消し炭にされようと、回復に意識を回せばすぐにでも再生出来る。その時目の前にあるのは、力の全てを出し切って自滅したカナンの姿だ。


 そうなればもうカナンが何を言おうと心を乱されることは無い。今度こそ彼女の心を完全に屈服させることが出来る。


 まずはカナンの見ている前で、岩堀族の女を奈落に向かって放り投げ、闇渡りの頭を潰してやろう。その後は、恐怖に竦もうが、怒りに燃えて抵抗しようが関係ない、心が折れ砕けるまで陵辱を繰り返す。



 そうして、二度と歯向かうことも、不愉快なことも言わない、従順な人形に作り替えるのだ。



 天火の圧を強める。ベイベルの眼前で、カナンの前進が止まった。


 熾天使の翼が次々と削られ、勢いを失っていく。割れるような讃美歌は少しずつ音を減らし、見張りの目も瞼を閉じていく。


 それでも、完全に屈服させるには至らない。二人の天火は完全に拮抗・・・・・している。


 だが、これで――。




「怖いの?」




 二つの天火の向こうからカナンが挑発する。その蒼く澄んだ瞳には、一切の恐怖が浮かんでいない。圧倒的に不利なこの期に及んでもなお、カナンはベイベルを恐れていなかった。それどころか、軽蔑してさえいる。


「私は、貴女の恐れているものを恐れない。そんなもの、怖くはないわ」


「黙れ! 余は恐れてなどおらぬ!!」


「フッ……」


 ベイベルの頭の中で、何かが音を立てて千切れた。


 彼女はこれまで、誰かに馬鹿にされたことなど一度も無かった。並ぶ者のいない強者であるが故に、彼女を軽蔑し、あまつさえ嘲笑しようとする者など、出会ったことも無かったのだ。


 それが今、生まれて初めて、しかも年下の小娘に、「臆病者の強がりだ」と鼻で笑われた。



「おのれえええええええええええええええ!!!!」



 絶叫と共に、頭上のが光り輝く。




「もう、良い! もうお前など要らぬ! ここで消す!!」




「そうやって、自分の求めるものしか見ないから!!」




「お前に何が分かる!? 燈台を離れられぬ窮屈さが、腐り物しか喰らえぬみじめさが……そんな生など人以下ではないか!?」




「……ッ」




 彼女の言葉に、同情を覚えなかったと言ったら嘘になる。


 望んでもいない力に振り回され、それを少しでも消費するために毒を取り込み継火を行う……限られた地下世界の中で独裁を振るう代わりに、彼女は決して、あの広い星空の下を歩くことは出来ないのだ。


 蜂の子の入ったスープも、山奥の温泉のことも、シムルグの翼に乗って風を受けることも、決して知りえないまま一生を終える。




「それでも、その力を人のために使っていれば!」




「他者なぞ知るか! 全ての他者は余のためにのみあれば良い!


 そうだ、余が余のままであるために……他者など全て食い潰す!!」




 門の縁が崩れ、カナンの熾天使の羽衣ラファエルズ・ローブを覆い隠すほどの天火が溢れ出す。それは火山の噴火か、あるいは失われた伝説の炎――太陽のようだった。


 カナンの法術は、最早押し返すだけの力を残していない。端の方から次々に千切れ飛び、勢いを失っていく。何とかベイベルの天火に丸焼きにされるのを防いでいるような有様だ。


 だが崩れない。カナンの蒼い翼は彼女の身体を包み込み、ベイベルの天火を跳ね除け続けている。



 あと一撃、一押しで破れる。



 無論、時間を掛けて押し潰しても構わない。そうすれば勝負は確実だ。だが、




 ――怖いの?




 カナンの挑発がベイベルの脳裏をよぎった。次の瞬間に彼女を突き動かしたのは、彼女が密かに捨てずにいた理性ではなく、どこまでも人間的な・・・・意地と強がりだった。



「誰が恐れるものか――証拠を見せてくれる!!」



 ベイベルが詠唱に入る。文字通り、これが最後の一撃だ。



「我が黒炎よ、創世の光となりて万象を照らせ、無限アイン・ソフ……!」



 頭上に巨大な魔法陣が現れる。ベイベルが事前に生み出したそれとはくらべものにならない、大坑窟の穴の直径に匹敵するほどのものを。その全体が荘厳な光を放ち、カナンの小さな羽衣を覆い隠す。


 だが、それは長くは続かなかった。


 魔法陣の端が崩れ、溢れ出た黒い天火が二人の上に降り注ぐ。


 直撃を受けたカナンの熾天使の羽衣ラファエルズ・ローブは、一瞬にして打ち破られた。全ての翼が根元から折れ、表面に生えた無数の目が全て閉じられる。カナンを守るものは、最早何も無い。


 しかし、天火の全てを使い切って気絶する直前に、カナンは確かに勝利を確信し微笑した。

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