「オオッ!!」
押し寄せる黒炎の波を縫って突進したイスラは、裂帛の気合いと共に剣を振り下ろした。
ベイベルは冷静に軌道を見切り回避する。二度、三度と連続で剣を振るっても、かすりもしない。
だが、今はそれで良い。剣でこの魔女が倒せないことは分かっている。敵の視線をこちらに釘付けに出来れば、その間にカナンが策を考える……イスラは、相棒が突破口を見つけてくれると信じていたし、それ以外にこの場を切り抜ける方法も無いと思っていた。
「猪口才な」
ベイベルは舌打ちと共に手を振るう。呼応した黒炎が横合いからイスラに襲い掛かった。
「遅い!」
だが、それが届く前に、イスラは敵の懐へと飛び込んでいた。
何度かこの女の攻撃を受けて分かったが、黒炎は威力や物量こそ凄まじいものの、展開速度は速くない。カナンの
そう、接近するだけなら不可能ではない。
「この余が、そう易々と闇渡りの刃に斬られてやるとでも?」
横薙ぎに振ろうとした剣が、半ばで叩き落とされる。ベイベルの放った手刀だった。その衝撃は凄まじく、思わず柄を手放しかけたほどだ。
まだ終わらない。イスラは直感的に頭を下げる。その上をベイベルの蹴りが通り過ぎていった。
反撃しようとするが、魔女の動きはそれ以上に俊敏だった。イスラが遅いのではない。剣と徒手空拳では動作の速度が違い過ぎるのだ。
蹴りと拳を織り交ぜ、イスラを天火の壁に向かって追い詰めていく。イスラも反撃するが、ベイベルは手を引くどころか怯みさえしない。流血など物ともせず嬉々として拳を振るい続ける。
「退きな!」
炎を突き破って三体のゴーレムが襲い掛かる。その内の一体の頭に陣取ったペトラがベイベルの後方に向けて鉄片を投げた。
「うん?」
ゴーレムの拳を避けたベイベルの背中が、岩の壁にぶつかった。そこに別の一体が全身で突撃し、圧砕する。
「……やったか?」
そう言った瞬間、突撃したゴーレムの胴体が爆散した。瓦礫を払いのけて無傷のベイベルが姿を現わす。
「今のはちと痛かったな。で、次は?」
「チッ!」
今度はベイベルの周囲を囲むように岩壁を出現させる。「我が蒼炎よ、破邪の拳となり仇を砕け、唸れ剛腕!
爆音が轟き岩壁が内側から吹き飛ぶ。灰が舞い散り瓦礫が小雨のように降り注いだ。
狭い空間に爆風の起きる攻撃を撃ち込むことで、四方から爆風を反射させると共に、熱で蒸し焼きにする。個人を相手に使うにはあまりに
案の定と言うべきか、煙を振り払いながら無傷のベイベルが姿を現した。黒々とした髪も、高級な服もそのままで。
「別に食らってやっても良かったのだが……」
ベイベルは爆風で乱れた髪を搔き上げる。
「服が焼けるのは嫌なのでな。余も恥じらうということは知っておる」
「……そうかい!」
岩壁の残骸を足場にイスラが斬り掛かる。陰と煙に紛れた奇襲は、だが、ベイベルの片手であっさりと受け止められた。刀身が肉の中に沈み、骨に埋まるが、ベイベルは意に介さない。
「小細工が余に通じると思ったか、闇渡り!」
左の拳でイスラの腹を殴り、身体が浮いたところに強烈な回し蹴りを浴びせる。天火によって強化された筋力は、イスラの身体を軽々と吹き飛ばしてしまった。
あまりの威力に耐え切れず、受け身をすることも忘れたイスラは背中から地面にぶつかった。詰まっていた息が気道にのぼり、咳き込む。数滴、口から血が流れた。
「イスラ、大丈夫ですか!?」
「クソっ、これも効かねえのか……」
遠近両面においてまるで隙が無い。遠距離での戦闘はもちろん、近接戦闘でも拳法家顔負けの技と目を持っている。加えてあの回復力だ。さすがのイスラも、勝機は無いのではと思い始めていた。
「……いえ……」
だがカナンだけは違った。回復のために駆け寄ったカナンは、イスラが手に持った剣を見てあることに気付いた。
――天火を吸収してない……?
ゴーレムと交戦しているベイベルを見やる。その周囲には変わらず黒炎が展開しているが、先程、イスラが斬り掛かる直前――つまり、ベイベルが包囲爆破から抜け出た直後には、確かに黒炎の守りは弱まっていたのだ。
そして、イスラの剣が天火を吸わなかったということは、その時ベイベルの手元には天火が無かったということになる。それでも傷ついた手の回復はすぐに行われた。
「……どういうこと? 天火の供給源が二分化されてる……? 傷の回復と、防御の天火は別で……そのために門を開いた? でも、どうして……」
「考え事は、もっと暇な時にするのだな」
ゴーレムを粉砕したベイベルが、一瞬にしてカナンとの距離を詰めた。咄嗟に剣で応戦するが、腹を刺されてもベイベルは平然と蹴りを放った。
靴の先端がカナンの腹に突き刺さる。衝撃から一拍の間をおいて、痛みが駆け上ってきた。
「かはっ……!」
口から心臓が飛び出そうだった。カナンがこれまで経験したことの無い純粋な暴力。今、初めてその痛みを知った。
痛みや衝撃は、傷の治りとは無関係なものだ。カナンはイスラほど痛みへの耐性を持っていなかった。
「どうした。苦しいか、カナン?」
ベイベルは仰向けに倒れたカナンを見下ろし、奪った剣をその左肩に突き立てた。カナンが苦悶の声を上げるのを恍惚とした表情で見下ろしながら、細剣の切っ先で傷口を抉り、血の滴る刀身に舌を這わせる。
「余とて見初めた相手にこのような仕打ちはしたくないのだ。だが言ったであろう、支配するにはまず
ベイベルの言葉など、カナンの耳には届いていなかった。焼けるような痛みを覚える一方で、頭の片隅では、これがイスラの耐え続けてきた痛みなのかと思った。殴られ、踏まれ、斬られたり刺されたことも何度もあっただろう。そのうちのいくらかは、自分のために負ってくれたものもあったはずだ。
それと同じ痛みを、ようやく知ることが出来た。だから、少しだけ嬉しい。
「うん……?」
カナンの汗ばんだ顔に浮かんだ、奇妙に穏やかな表情にベイベルが気を取られたその時、真後ろから飛び込んだイスラがその首を斬り飛ばしていた。
魔女の首が地面に転がり、カナンを踏みつけていた胴体が力を失う。カナンを引きずり出したイスラは、耳元で「大丈夫か!?」と叫んだ。
「だ、大丈夫ですよこれくらい。すぐに、ったた……」
「無茶するな!」
「あなたにだけは言われたくないです」
心配してくれるのは嬉しいが、これ以上の無茶を平然とやっている男にだけは言われたくない。
「あんたら、くっちゃべってる場合じゃない、逃げるよ!」
ベイベルの首無しになった身体を囲むように、黒炎が渦巻いている。門も開いたままだ。どうやら、イスラの断定は間違っていなかった。
「首を斬っても駄目か……確かにこのままじゃジリ貧だ。逃げるぞカナン!」
「はいっ」
三人は地下に続く通路に駆け込み、去り際にペトラが岩壁を展開させた。それが通路を塞いだ時、炎の向こうで確かに人影が立ち上がったのが見えた。