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【第六十八節/「我は神の門、汝は楽園」】

 灰燼と焼死体が敷き詰められた広場の中心で、カナンとベイベルは相対した。二人の他には誰もおらず、何の音も聞こえてこない。地下の住人たちは発着場へと逃げ込み、不死隊アタナトイたちはまとめて焼き殺されたからだ。


 まるで、雪の降り積もった荒涼たる廃墟に立っているようだ。周囲に命の気配は無く、静寂に支配されている。だが、カナンの嗅覚は人肉の焼ける臭いによって飽和しそうだった。


 ベイベルと相対したカナンは、奇妙な感覚に囚われていた。


 行く手に黒い炎が舞った時、カナンは決戦を覚悟した。ペトラたちから聞いた限りでは、大神官ベイベルは圧倒的な天火アトルを備えた人物で、おまけに冷酷無比ときている。いざその前に立てば、自分は死に物狂いで戦わなければならないだろうと思っていた。


 だが、今彼女の目の前に立つ一人の女からは、敵意や殺気が全く感じられない。実際、法術を展開するでもなく、棒立ちになったままじっとカナンを凝視している。


 無論、それはベイベルが普通の人間に見えるという意味ではない。カナンの目から見ても、大神官ベイベルには並々ならぬ迫力や、得体の知れなさがあった。


 並みの男性よりも高い背丈に、長い手足。波打つ黒い髪や隅々まで焼けた肌。顔立ちはこの世のものと思えないほどに整っている。ともすれば毒々しく見える緋色や紫色の法衣、過剰と思えるほどにつけられた装飾品の数々も、ベイベルが身に着けていると不思議と違和感を感じなかった。むしろ、それはそこにあるべきだ、と思えるほどだ。


 この女が並々ならぬ存在であることは分かる。だからこそカナンは、予想外の反応に困惑して手を出しかねていたし、ベイベルの呟いた一言に余計に面食らう羽目になった。


「美しい」


「え……?」


 突き付けた剣の切っ先がわずかにぶれる。その一瞬の虚を突いてベイベルは音もなくカナンの懐へと滑り込んだ。混乱に加え、あまりに自然な動きであったため、カナンの対応は二手も三手も遅れてしまった。殺されていてもおかしくないほどの隙を晒していた。


 だが、ベイベルのとった行動はカナンの思考の斜め上を行っていた。


 ベイベルはカナンの手を両手で取り上げ、あろうことか愛おしげに頬擦りした。


「何と美しい天火か! それだけでない、お前の顔立ちも、手も、何もかもが愛おしいぞ!」


「やっ、やめてください!」


 反射的にカナンはベイベルの手を振り払っていた。脳裏に一瞬、アラルト山脈での出来事が去来した。


「そう邪険にするでない、余はお前が気に入ったのだ。傷つけようとは思わぬ。もっとお前のことを知りたいのだ」


 ベイベルは特に気を悪くするでもなく、むしろどこか懇願するような口調でカナンを誘った。お人好しのカナンは、もしここが死の臭いに満ちた場所でなく、ベイベルがその演出者でもなかったならば、その誘いを拒否しようとはしなかっただろう。


「貴女に話すことなど何もありません」


 剣を突き付けベイベルから少しずつ距離を取る。丸腰のベイベルはカナンの細剣に対して微塵も警戒を抱いていない。楽しげに笑いながら、石で出来た台座に腰を下ろす。


「ふふ、つれないな。まるで拾われてきた猫のようじゃ。

 だが良いのか? お前を力尽くで手籠めにすることなど造作も無い。ほんの少しの時間でお前を無力化すれば、あとは逃げていった裏切者共を蹂躙するだけのこと。

 そう深く考えずとも分かるであろう。戦うか、それとも余と語り合うか、いずれの方が長く時を稼げるか」


「…………」


 ベイベルの言う通り、最初からカナンに決定権は無い。彼女の言う通りにした方が、住人たちを逃がす時間を作るという目的に合致する。カナンは息を吐いて肩の力を抜き、剣を鞘に納めた。


「良い選択であるな。お前もいずこかに座るが良い」


「……いえ、私はこのままで結構です」


「左様か。ふむ、まあ、良かろう……それではまず、互いの名を知ることから始めるとするか……いや! それだけでは面白くない。戯れに、互いの名の意味を当てるのだ。お前に知恵があるのか知りたいのでな」


「分かりました。でも、先に貴女の名前を教えてください」


「よかろう、礼儀にも適う。最も、ここに居る以上余の名を知らぬということはなかろうが……余の名はベイベル、ウルクの大神官にして、この地下世界の主である」


 カナンは即座に答えた。


「その名前の意は神の門。旧世界に栄えたとある帝国の都と同じ名前です。神を祀った神殿がいくつも建てられ、各々の神の加護を受けていたからこそ、都の繁栄は全地に広まったと伝えられています」


「その通り。では、その都を最も栄えさせた王についての歌を、お前は歌えるか?」


「ええ」


「ならば歌って聴かせよ」


 ベイベルに命じられるまま、カナンは息を吸って歌い始めた。可能な限り遅いテンポで。




『地の真中まなか、栄えある都の大君は 心に驕りを覚えたり


 その名を永遠とわに残すため 王は塔をば望みたり 


 天にも届く塔を建て いざ知らしめよ我らの威勢


 人の驕りは塔より高く ついに天をも突き破る


 神の怒りは地に注ぎ 王の心を乱したり


 かくして塔は造られず 風と雨とに削られて 


 今や砂となり地を巡る』




 荒涼とした広場のなかで、ベイベルの拍手だけが虚ろに響き渡った。彼女の「素晴らしい」という賞讃の声さえ、カナンには空虚なものに思えてならなかった。


「見事な歌いぶりであった。天火や顔だけでなく声まで美しいとは……余はますますお前が気に入った。さあ、その声で、己の名を余に語るのだ」


「私はカナン、エルシャの大祭司エルアザルの娘です」


「なるほど、高貴な家の生まれか。兄弟や姉妹は?」


「姉が一人」


「ふむ。のウルクに逗留しておる継火手の妹か。実は先ほど、しもべにその者の首を獲ってくる ように命じたのだが……そう怖い顔をするな、恐らく返り討ちにあったのだろう。イザベルとイザベラは、余を待たせることの愚を良くわきまえておる。

 ところで、お前の名前の意味であるが……乳と蜜の流れる地、あるいは約束の地……旧世界の難民共が作り出した楽園の名であるな。そうした場所は確かに存在したが、行われたことと言えば部族同士の紛争じゃ。とても名前の通りの楽園とはならなかった」


「……その通りです。でも、そうでなければ今まで残らなかった言葉だと思います」


「現実には無くとも、人間の祈りの中からは消えぬだろうからな。お前達人間が楽園を諦めない限り、カナンお前の名は残り続けるであろう」


 ベイベルの言葉にカナンは違和感を覚えた。だが、深くは考えないようにする。今は少しでも長く時間を稼ぐことだけ考えれば良い。


 今の所、ベイベルはカナンとの会話を楽しんでいるようだった。だがいつまで続くかは分からない。相手が話に飽きてしまった場合、カナンはあっさりと突破されてしまうだろう。そうならないためにも、何とか言葉を吐き続けるしかなかった。


「私からも質問があります」


「良かろう。話せ」


「……貴女は何故、こんなことを続けるのですか?」


「こんなこと……ああ、人を焼くことか」


 ベイベルは足元の骨を踏み潰した。乾いた音が響く。


「それが余の権利であるからだ。余はこの地下を統べる者。我が黒炎が無ければ、そもそも此奴らは生きていくことが出来ぬ。余より恩恵を受けるのであれば、余から奪い取られるのもまた道理。一方的に恵みを受けるなど、虫が良いとは思わぬか?」


「私はそうは思いません」


 カナンは反射的に切り返した。「何故?」とベイベルが問う。


「私達の力は、私達のためにあるのではありません。力を持って生まれてきたのは、誰かを支配するためではなく、誰かを助けるためです。力を持つ者の責任は、それを振るうことではなく、自制することにある……私はそう思います」


 カナンの言葉はあまりに真っ直ぐで、いっそ愚かしいほどだった。だが、ベイベルはカナンの純粋さに一層気分を良くした。無論、いくらか嘲笑混じりではあったが。


「……ククッ、お前の考えは高貴であるが、あまり支持を集めていないのではないか?」


「それは否定しません。でも、私はこの信念が正しいと信じていますし、支持の有る無しで曲げて良いとも思っていません」


「お前は善意に満ちておるな。その慈悲に対価を求めれば、の連中と変わらんだろうが……どうやらそうではない。お前のそのぐな考え方に、嘘や打算は無く、実に高貴である。余はお前の心根に敬意を払おう。

 しかしな、カナン。お前の高貴な心は薔薇の花と同じだ。麗しく芳しいが、枯れるのもまた早かろう。何がそれを枯らすと思う?」


「……時間ですか」


「違う。虫だ。大衆という名の害虫が、高貴な心を穢すのだ。花弁の陰にこそこそと隠れ、葉を齧り蜜を啜る寄生虫。一部の選ばれた者、高貴な者以外は全てがそうなのだ。

 大衆は弱く、故に愚かである。弱いから己の考えを持てず、胸を張って発言することも出来ぬ。しかしこれが十、二十と寄り集まると途端に凶暴になる。その上愚かで理性が無いから、白を黒と信じることもあるし、一に一を足して三と答えもする。

 故に真理や正義を説いても意味が無い。彼奴らの卑屈な魂には決して届かぬ。どれほど賢く気高い者であっても、いつかはその愚鈍さ、阿呆ぶり、高慢に耐えられなくなるのだ」


「……貴女が良い君主であったなら、その言葉にも説得力があったでしょうね」


「言いおるわ。確かに余は模範的な君主ではない。むしろ最悪の部類であろうな。しかし大衆を徹底的に弾圧し、搾取し、恐怖によって調教するのは正しいと考えておる。犬に言葉が通じぬなら、吠えなくなるまで叩きのめせば良いのだ。

 どの道、愚民共にお前の理想を理解することは出来ぬ。だからこそ、余のものとなるのだ、カナンよ。余に忠誠を誓うならば、お前をのウルクの支配者にしてやろう。お前の蒼き天火と美しいかんばせ、そして高貴な理想は十分地位に見合うであろうからな。威張り散らすしか能の無い大神官どもを城壁から吊るし、その上でお前はお前の理想とする煌都を作れば良い。

 さあ、どうする?」


「お断りします」


 カナンは即答した。一考の余地も無い。ベイベルの提案は自分の目標と相容れず、彼女の考え方や生き方もまた、カナンにとって許せないものだ。


「貴女はもっともらしいことを言っているけれど、一人ひとりの人間について、少しも視線を送っていない。どんな場所にいる、どんな人間にも、それぞれの人生があります。高貴だろうが力があろうが、他者の重みを推し量らず踏みつけようとするような人間に、私はなりたくありません。たとえどれほどの誘惑を貴女が仕掛けてきたとしても、私は全て撥ね退けます」


 ベイベルの言葉を受け容れてしまえば、これまでやってきたことがすべて水泡に帰してしまう。それだけは絶対に嫌だった。


 そして、十分時間を稼ぐことも出来た。



「お前がそんな提案を呑めるわけが無ぇわな」



「ええ、当然ですよ、イスラ」



 通路の奥から悠然と姿を現したイスラは、その手に外套でくるんだ棒状の物を持っていた。カナンの真横に並び立った彼は、彼女の肩を軽く叩いた。

 その様子を見ていたベイベルは、深く嘆息した。大儀そうにその場から立ち上がり、足元の灰を蹴り払う。


「あくまで余の誘いを断るか。ならば仕方があるまい、そこの闇渡りは焼き殺し、お前は完全に屈服させてやろう。ククッ、それも一興であるな。お前が余の前に拝跪し、靴を舐めているところを見てみたい」


「そうはなりません。私は……私たちは、貴女を倒して先に進む! 行きますよ、イスラ!」


「おう!」


 二人の継火手の天火が燃え上がり、静寂に支配されていた空間を熱気で満たした。


 闇渡りのイスラはその間隙を駆け抜け、その手に持った新しい刃を抜き放った。

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