カナンが大坑窟の上層に登った時、すでにそこは、脱出しようとする人々と弾圧しようとする
発着場の入り口はアラルト山脈にあったそれと良く似ている。大坑窟の虚空に架けられた橋は真っ直ぐ発着場の大門へと伸びていて、その道を人や荷車、家畜が埋め尽くしている。門には見張りが立つための櫓が張り出ていて、抵抗組織の長老たちが落ち着いて進むよう怒鳴っていたが、それさえ火に油を注いでいるようなものだった。
人混みを掻き分けて櫓に登ったカナンは、そこで指示を出していたバルナバに状況説明を求めた。バルナバは喧騒に負けないよう、老体に出せる限りの音量で怒鳴った。
「見ての通り脱出者で一杯じゃが、いくつかの坑道で不死隊どもに足止めを食らっておる!!」
「私が行きます!」
「いかん! お前さんの持ち場はここじゃ! ここが絶対防御線じゃ!
しかし、それで納得するカナンではない。
「前に出ます!」
「猪突はよせ!」
「私が前線を押し上げます。その方が時間稼ぎになる!」
そう返すやいなや、カナンは櫓からひらりと舞い降り、橋桁の上を人の流れに逆らって走り出した。左手の方には沸騰する鍋のような人混み、右手には底の見えない奈落が口を開けているにも関わらず、闇渡りのような身軽さで軽々と跳び越えていく。「とんでもない嬢さんじゃて……」バルナバは呆れ半分に呟いたが、すぐに気を取り直して指揮に戻った。
◇◇◇
大坑窟に無数にある居住区の一つ一つで、不死隊と抵抗組織の間に熾烈な戦闘が展開されていた。
一人でも多くの人間を脱出させるため、戦士たちは迫りくる仮面の兵士たちと鎬を削る。土煙が狭い居住区内に濛々と立ち込め、飛び散った血飛沫が地面を濡らしていく。石のゴーレムが不死隊を押し潰す一方、逃げ遅れた住民が血祭にあげられ、それを助けようとした戦士も鉤爪付きの盾で心臓を抉られる。時には決死の覚悟を固めた一人の男が、油の入った壺と松明を掲げて敵中に飛び込んだりもした。
凄惨な戦場の中、サイモンもまた仲間たちとともに剣を振るっていた。
「踏ん張れお前ら! まだ持ちこたえられるだろ!?」
不死隊兵士を斬り倒し、その返り血を浴びながらサイモンは檄を飛ばした。彼自身、それが無茶な注文であると承知している。
斬っても潰しても、次から次へと不死隊は湧き出てきた。岩堀族の技師たちがゴーレムを召喚しようが、恐れる様子など微塵も見せずに群がり、縄を掛けて引き倒してしまう。物陰からの一斉射にも怯まず、仲間の屍を踏み越え、あるいは盾にしながら無理矢理戦線を突破してくる。その死霊のような戦いぶりに、脱出への希望を胸に戦っていた戦士たちも圧倒されつつあった。
「糞っ、撤退の目途は立ってるってのに……!」
脱出者の最後の集団が発着場に向かっている。彼らが通り抜けるまで持ちこたえることが出来れば、サイモンらも使命を果たしたことになる。
ここまでで、すでに何か所か放棄せざるを得ない居住区があった。単純に戦力を送り込めず手遅れになった所、あるいは戦力差故に壊滅させられた所、だがそうした犠牲があったことで、他の者たちが逃げられているというのも一面の真実だ
だからこそ、これ以上誰かを見捨てたくない。救える者は救いたかった。そもそも最初からそう決めていなければ、こっそりと転移門に入っていたことだろう。自分を顧みず他者を救おうとする点において、彼らの精神性はカナンのそれに近い。
「……サイモン、後を頼む」
一人の岩堀族の技師がサイモンを見上げ、頼んだ。「何をする気だ!」サイモンは止めようとするが、彼はすでに不死隊に向かって走っている。
懐から取り出した札を地面に投げつけ、坑道を閉じるための石壁を築く。壁が立ちはだかる直前、サイモンは振り向いた技師の身体を無数の刃が貫くのを目撃した。
「糞っ!」
石壁を殴りつける。反対側からは虫のように蠢く不死隊兵士たちの足音。後ろ髪をひかれる思いだったが、壁が破られる前にサイモンは立ち去らなければならなかった。
「畜生、一緒に自由になるんじゃなかったのかよ! こんなところで……!」
走りながら、それでも目に涙が浮かぶのを止められなかった。道端には逃げ遅れた人々や双方の戦士たちの血まみれの亡骸が転がっている。彼らを埋葬してやる余裕さえ、今のサイモンたちには無いのだ。顔を憶えることや、名前を確認することも。煙と血と悲鳴の中では人間らしい死に方は出来ないのだ。
それでもまだ悲嘆にくれることは出来ない。戦いは終わっていないのだから。
居住区と発着場の間にある広場まで後退したサイモンは、まだ撤退の済んでいない坑道を確認した。広場には発着場に至る道が一つ、そして居住区につながる道が九つある。そのいずれからもまだ人が溢れていた。おそらくこれが最後の集団のはずだが、埒があかないとサイモンは判断した。
「撤退の済んでいない場所の援護に向かう! お前らついて……」
仲間を纏め上げて援護に向かおうとしたその時、彼の身体は吹き飛ばされ壁に叩きつけられていた。爆音を認識するまでに一拍の間があり、自分の周囲で何が起きたか理解するにはさらに時間が掛かった。
壁にぶつかった際に頭を打ったのか、視界がぼやけて状況を飲み込めない。
「ニゲル、ルキオ……誰かいないのか……」
仲間の名前を呼ぶが、返ってくるのは苦痛を訴える呻き声ばかりだ。目の前を雪のように灰が飛び交っている。人が焼かれる、鼻の曲がるような異臭。
広場は灰に覆われていた。それまで百人以上の人間がひしめいていたはずなのに、今生きて動けているのはサイモンも含めてわずかしかいない。
こつり、と靴が何かにぶつかった。爆風で千切れた人間の上半身だった。皮膚は完全に炭化し、断末魔の瞬間の恐怖を宿した両目が彼を見上げていた。サイモンは尻餅をついた。その手の下にも、誰かの身体の一部であった灰がある。
それまで、彼らは確かに悲惨な戦いの中に居た。だが、今やそれは完全に上書きされてしまった。坑道の中に居た人間も含めて、およそ数百人を一瞬のうちに灰に変えてしまう圧倒的な暴力。ちまちまと斬り合いをしているのでは絶対に生じ得ない地獄のような光景を、たった一人で現出させる。
「余が恐ろしいか?」
目の前にあった遺体を黒塗りの靴が踏み躙った。緋色の衣に紫色の上衣を纏った長身の女が彼を見下ろしていた。
魔女……ベイベルは明らかに、サイモンの顔に浮かんだ恐怖を悦んでいた。
「ちょうど良い、戯れに一つ問いを出そう。貴様には余が何者か分かるか?」
答えなど、一つしか浮かばなかった。
「化け物……」
その答えもまた、ベイベルを悦ばせた。だが、最早正解を言うことに何の意味も無い。
「見たままのことを言っておるな。そうか、余が恐ろしいか……ならばしかと目に焼き付けるが良い。貴様を焼く炎を……」
ベイベルの掲げた右手に、黒い炎が渦巻く。一切の慈悲を感じさせない圧倒的な力を前に、サイモンは生を諦めた。
「我が蒼炎よ、御怒りの鏑となり悪を貫け、
黒炎の塊を、蒼い炎が撃ち抜いた。
継火手カナンは杖と剣を携えたまま、ゆっくりと広場の中央に向かって歩いていく。
「サイモンさん、逃げてください」
努めて冷静な声でカナンは言った。その目はベイベルを見据えたまま動かない。ベイベルの方も、何故か呆然とカナンを見つめたまま動かなかった。
生き残っていた戦士たちがサイモンを引っ張り連れ出す。それを見送ったカナンは、大神官ベイベルに剣を突きつけ対峙した。
「……美しい」