ユディトは厚手のローブを羽織り、一人百花宮の庭に出た。
現在、ウルクの大燈台には遮光壁が降りている。夜明けまでは残り二時間程度といったところだろうか。
ギデオンを送り出してから丸一日が経とうとしている。これほどの時間をかけても戻ってこないということは、かなり深刻な事態に巻き込まれた可能性が高い。最初から危険な賭けだと分かっていたし、覚悟も決めている。それでも他に何かやり方があったのではないかと、どうしても考えてしまう。
「そんなこと、今さら考えても仕方が無いのに……」
宮殿の庭の一つ、小劇場の造られた広場にたどり着いたユディトは、その中心で星空を見上げた。雲が晴れ、遮られていた月光が少女に降り注ぐ。光を取り込むように彼女は大きく息を吸った。そして、木立の陰に向かって殺気を飛ばす。
「出てきなさい」
寝台の上にいた時から、何者かが宮殿内に侵入したことは気付いていた。いつもと違う何かを感じたら、直感に従い警戒すること……ギデオンからはそう教えられている。
密偵を送り込むということは、こちらも刺客を送り込まれるということだ。こうなることはあらかじめ予測していた。
「逃げるつもりはありません。遠慮無く掛かってきたらいかが?」
木立の影から細い人影が現れる。一目で女性と分かった。夜闇に紛れる黒い服をまとい、顔には覆面を被せている。その隙間から見える目は猫のように鋭い。妹の守火手から聞いた無言の兵士たちと似たような印象だ。やはり、出所は同じだったということか。
だが、彼女が手に持っているシミターの造りは、とても平の兵士に持たせる物とは思えないほど見事だ。刀身は眩いばかりの銀色で、柄には紅玉が埋め込まれている。
「エルシャの継火手、ユディトか」
「いかにも。そういう貴女はどこの誰ですか?」
女の詰問に対して、ユディトは余裕を持った表情で問い返した。女は素っ気なく、「知る必要は無い」と言い返す。
ユディトは嘆息した。
「つれないですね、それに礼儀もなっていません。明け方に抜き身の剣を持って押しかけてくるなんて」
やれやれと言いたげに肩をすくめつつ、視線では油断なく敵の姿を追う。
「ずいぶん余裕があるな」言葉ほど余裕のあるわけではない。ユディトは背後から迫るもう一つの気配に、常に意識を割いていた。「何かムカつくね」
列柱の陰から目の前の女と瓜二つの姿をした人物が現れた。ただ、手に持っている得物の種類だけが異なっている。片方が曲刀であるのに対して、もう一人の方は継火手の持つような権杖だった。二人の持つ得物の特徴から、ユディトは彼女たちが互いに継火手と守火手の関係にあるのではないかと推測する。おそらく、それは当たっているとみて良いだろう。
「ねえイザベル、早く殺そうよ」「そうだなイザベラ、早く殺そう」「どれくらい掛かるかな?」「一分も掛からない」「そうだよね」「ああ、そうさ」
打てば響くとはこういうのを言うのだろうか。二人の会話はあらかじめ練習でもしていたかのようにすらすらと出てくる。少し鬱陶しいとさえ思えるのだった。
それに、彼女らが戦う前から勝った気でいるのが気にくわない。ずいぶん舐められたものだと思う。箱入り娘を殺すのに時間は掛からないというわけだ。
「余裕綽々なのは、私より貴女たちのようですね」
ユディトはローブをその場に払い落とした。
その下には鍛錬で使っている戦士としての装束、そして一振りの長剣がある。ギデオンを送り込んだ直後から彼女は常にこの格好のまま過ごしていた。こういう時、自分で自分の身を守るために。ギデオンから授けられた武術によって、今のユディトは多少の危機も自力で乗り越えるだけの力を身に着けている。それを実戦で試す機会がついにめぐってきたのだ。
ユディトは白刃を抜き放ち、敵に向けて突き付けた。
「さあ掛かってきなさい。貴女たちの見立てがいかに的外れか教えてあげるわ」
剣士の方――イザベルが斬り掛かる。踏み込みが速い。抜刀したユディトは敵の斬撃を防御し、その力を横に受け流す。すかさず反撃を加えるが、イザベルは流れるような身のこなしでユディトの剣から逃れた。
追撃は出来ない。背後から法術の詠唱が聞こえた。
「麗しき者よ、汝が力を此処に!
片割れのイザベラの杖から紅蓮の鞭が伸びる。彼女の手の動きに合わせて有機的に襲い掛かってくるそれを、ユディトは冷静に回避した。劇場の中を円を描くように走り、機を見て一気に突進する。
「させない」
だが、継火手に向かおうとすれば当然イザベルが妨害してくる。ユディトは舌打ちしつつ攻撃を捌き、一旦距離を取った。
分かっていたことだが、二対一の戦いはやはり厳しい。敵の連携がとれていないならともかく、この二人はそれを完璧にこなしている。前衛のイザベルがユディトの気を引き、そこにイザベラが付け込む。逆に術者を狙おうとすれば、剣士が即座に防御する。そしてまた状況を振り出しに戻し、じわじわと嬲り殺しにする……そんなところだろうか。
手駒を揃えていないことも合点がいった。彼女らの連携が完成されている分、素人や他人を混ぜて動きを束縛されたくないのだ。彼女たちは、自分たちが自由に戦えることが最上なのだと考えている。
それは、ユディトが付け入る隙になる。
イザベルの斬撃を凌ぎ、飛んでくる法術を回避する。ユディトはなるべくイザベルの背中をイザベラに向けるように立ち回った。そうすれば敵も迂闊に術を使えないからだ。もちろん敵も位置を変えて攻撃してくるが、ユディトはそのたびに立ち位置を変え、イザベルの足さばきを誘導した。
相手も剣の腕は悪くない、しかしユディトの見切れる域だった。むしろ、純粋な斬り合いにおいては優勢ですらある。一対一なら、もっと早くに決着がついていただろう。
だが、押し込もうとすればイザベラが妨害し、状況を仕切りなおす。これではこちらの疲労がいやますばかりだ。
――そちらがそのつもりなら!
「我が焔よ、車輪を
ユディトの掲げた剣から炎が噴き出し、空中で戦輪の形を成す。直径はせいぜい指の先から手首までの長さしかないが、その分発生が早い。「飛べ!」剣を振り下ろすと同時に、戦輪はイザベラに向かって一直線に飛んでいく。相手は天火の鞭で相殺しようとするが、智天使級の法術はそう簡単に止められるものではない。
戦輪が鞭を断ち切りイザベラに迫る。迎撃を諦めた彼女は宮殿の列柱に隠れるように戦輪から逃れようとするが「無駄よ」ユディトが左手の指を軽く振ると、戦輪は柱と柱の間を縫って敵を追尾する。
確かにユディトの天火は素直で、火力、容量共に普通の継火手よりやや優れている程度だ。この「智天使の輪」にしても、カナンと撃ち合えばあっさり負けてしまう。
だが出力が低いということは、制御もその分容易になっているということだ。ユディトはそれを逆手に取ることで、法術の精度を可能な限り高めていた。
無論、そちらばかりに意識を取られているわけにはいかない。イザベルの剣を受け止め、戦輪を手元に呼び戻す。
「光れッ!」
鍔迫り合いの中心に戦輪を飛び込ませ、破裂させる。閃光と火花に目を焼かれたイザベルは苦悶の声を上げながら仰け反る。その隙を見逃すほどユディトは甘くない。シミターを弾き飛ばし返す刀で斬りつける。直撃こそしなかったが、イザベルの左肩に深い傷を入れた。肉を斬る感触にユディトは顔を歪めた。
「イザベル!」
とどめを刺そうとするユディトに向けて天火を放つ。ユディトは同じく天火を纏わせた剣でそれを叩き落とし、反撃の術を唱える。
「我が焔よ、抗う者を薙ぎ払え、
掲げた左手に魔法陣が展開し、そこから炎の弾丸が無数に射出される。「ちょっ」圧倒的な弾幕の前にイザベラは防御することも出来ず吹き飛ばされた。
「貴様、よくも!」
左手にシミターを持ち替えたイザベルが飛び掛かるが、ユディトはあっさりと斬り払い拳を握る。
「ふんッ!」
体重を乗せた一打がイザベルの顎をかち上げ、無理矢理に意識を刈り取った。爪先でつついても起き上がらず、ユディトはようやく肩の力を抜くことが出来た。
「……まあ、各個撃破が出来れば簡単ですね」
倒れたイザベルの胸を踏みつけ、長剣の切っ先を首筋に当てる。このまま始末するべきか、それとも……。
「その辺りで良いのではありませんか?」
「……ギデオン、戻っていたのね」
立ち上る煙の向こうから、イザベラを捻り上げたギデオンが姿を現した。
「助けるべきとは思ったのですが……少々時機を逸してしまいました。しかしこの結果を見る限り、小生の助力など不用でしたな」
猿轡を嵌められたイザベラはジタバタと暴れているが、ギデオンは意に介していない。ユディトの完璧な立ち回りに満足したようだった。だが、当のユディトはふくれっ面を浮かべている。
「助けてくれても良かったと思いますっ」
「はっはっ、まあ御無事なようで何よりです。しかしいつ追っ手がかかるか分かりません。侍女を呼んで、すぐにでもウルクを出ましょう」
「……何かあったのですね?」
「はい、掻い摘んで説明するのも難しいので……ともあれ、証拠と証人を一度に手に入れられたのは大きい。戦果としては十分でしょう」
「そうですね。私も、少し派手にやり過ぎましたから、すぐに人が来ると思います。急ぎましょう」
場の収拾をギデオンに任せて、ユディトは自室に戻ろうとした。ふと立ち止まり「あの闇渡りはどうしましたか?」と尋ねた。
「カナン様と共に行きました。あの方も覚悟を決めておられます」
「……そう。馬鹿な子」
ユディトはそう呟いた。意外なことに、少し寂寥を感じていた。