トビアの頭の中は真っ白になっていた。あるいは、そうすることで事態を把握しないように努めていたのかもしれない。
だが、今は現実から目を逸らしていられるような、悠長な時間ではなかった。
「トビア。これもめぐり合わせ、かな」
「そんな……何で君が、こんなところにいるんだ!」
「それはこっちの台詞。でも、最初に会った時から、薄々こうなるような気はしてたよ。あなたも、そうでしょ?」
心の中を見透かすような透徹な声でサラは言った。確かにトビアの中にも、そういう気持ちが無かったわけではない。だが、何も敵味方として相対したくなどなかった。
「トビアさん、彼女を知ってるんですか」
「……ええ、少しだけ」
「あんたの知り合いか。……でも、悪いけど手加減なんてしてられないよ。そこを退きな!」
オルファが矢をつがえる。トビアは制止しようとするが、矢が放たれる直前で伸びてきた影が、オルファの弓を握り潰した。「糞っ、何よこれ!」影が形を変えてオルファに襲い掛かる。他の場所でも、壁や天井から伸びてきた影に、仲間が襲われている。
「オルファさん!」
細剣を抜いたカナンが、群がる影の腕を斬り払う。それに触れた瞬間、影は灰に変わり空中に飛び散った。「これは……」カナンの記憶の書庫に、引っ掛かる記述が残っていた。
杖に天火を纏わせ、片手で連続回転させる。他の戦士たちに襲い掛かっていた影たちは、その光を恐れるようにすごすごとサラの足元へ後退していく。
「へえ。お姉さん、継火手なんだ」
「……そう言う貴女は、夜魔憑きですね?」
カナンの口から出た耳慣れない言葉に、トビアは思わず聞き返していた。
「言葉通り、生まれながらに夜魔に取り憑かれた人のことです。ごく稀に、影に夜魔を宿して生まれてくる子供がいる、と本に書いてありました。ずっと眉唾だと思っていましたけど……」
煌都の中で、闇渡りに関する客観的な資料を見つけるのは難しい。その風俗や風習について、あらかじめ予習はしていたカナンだが、夜魔憑きの存在は単なる伝説とばかり思っていた。
夜魔は人と決して相容れない存在だ。この世界の
だが共生しているなどと考えず、より単純に物事を見れば、簡単に受け入れられることでもあった。
「お姉さん、人だなんて言わないで、もっと思ってるように言って良いんだよ? 化け物だ、って」
「……」
カナンは答えられない。口にこそ出さなかったものの、サラの存在が理解の範疇を超えたものであることだけは確かだ。
「わたしも、自分を化け物だって思ってる。あの人とおなじ。だからわたしは赦されない」
「そんなことはない! それは、サラが自分で決めつけてるだけじゃないか!」
たまらなくなってトビアは叫んだ。
彼女が夜魔憑きかどうかなんてどうでも良い。ただ、彼女が己で己を裁いているのを黙って見ていられなかった。
「赦すとか、赦さないとか……君が戦うのをやめてくれたら、それで済むじゃないか。僕らが戦う理由なんてない、君だって、外に出たいって言ってたじゃないか!」
サラの言葉はまだ記憶に新しい。それを手繰る様にして、トビアはサラを説得しようと試みた。言葉通り、彼はサラと戦いたいなど少しも思っていない。
だが、それは所詮、彼一人の願望だ。
「あなた、やっぱり馬鹿だわ」
サラはぴしゃりと彼の言葉を撥ね退けた。
「トビアはそう思ってるかもしれない。でも、皆の顔を見てみたら? 皆、わたしが怖いって顔をしてるでしょ? それもそうね、わたしがわたしのことを、気持ち悪いって思ってるくらいだもの。
あなたと戦いたくない、殺し合いなんてしたくない、あなたたちのために道を開けます、一緒についていって良いですか? ……なんて言って、受け入れてもらえると思う?」
「そんな……オルファさん!」
トビアはすがるような目でオルファを見るが、彼女は申し訳なさそうな顔で首を横に振った。
「どうせ、通せって言ってもそんな気は無いんだろ?」
「もちろん」
「……なら決まりだ」
オルファが短刀を抜くと、他の戦士たちも得物を構えなおした。サラの傍に
「行って」
サラの呟きと共に、不死隊と影とが同時に襲い掛かってきた。兵士の背中に隠れるように影が仕込まれ、人間に気を取られたところを刈り取ろうとする。不死隊兵士の数はせいぜい六人程度だが、サラの影人形が加わることでその密度を引き上げていた。
だが、カナンが天火を掲げながら前に飛び出ると、影たちは潮が引くように闇の中へ戻ろうとする。
「よし、今だ!」
オルファらが不死隊の攻撃を受け止める。敵に対してこちらの方が数は上だ。サラの介入が無い限り負ける可能性は低いし、そのサラの攻撃はカナンが完全に抑えている。
戦いは勢いをつけて流れ始めてしまった。それを止めることはトビアには出来ない。
「お姉さん、ちょっと面倒だよ……」
それまで動かなかったサラが、長い袖の中から短剣を取り出し斬り掛かった。カナンは細剣で受け止めるが、彼女の目的が斬撃でないことを見抜いていた。
「もらうよ?」
サラの足元から影の腕や槍が現れる。カナンは依然杖に光を灯しているが、今度はひるむようなことはなかった。
サラが追撃をかける。影と宿主との同時攻撃に対して、それでもカナンは優勢を確信していた。
細剣の一突きでサラの短剣を弾き、身体を回転させながら左手の杖で影を薙ぎ払う。崩れ落ちる影に代わり、また別の影が立ち上がり襲い掛かってくる。獅子の頭、山羊の角、そして猛禽のような鉤爪が殺到するが、それさえもカナンの蒼炎の前には無力だった。彼女の杖が眩く輝き、影を焼き払うと同時に、サラの目を焼いた。
再び視界を取り戻した時、サラの首筋にカナンの細剣が添えられていた。
「降伏してください」
「……」
「貴女の力は驚異的です。でも、私の天火とは相性が悪すぎる。貴女に勝ち目はありません」
「それで、はいそうします、って言うと思う?」
「……争いは早く終わらせたい。それだけです」
「偽善者、大っ嫌い」
サラは反抗を諦めていなかった。返ってカナンの剣に飛び込むように、前へと踏み出す。その長い袖の中から槍の穂先が飛び出した。
奇襲だったが、カナンには予測出来ていた。ただ一つの見落としを除いて。
槍が身体を貫く。カナンの、そしてサラの目が驚愕に見開かれた。
槍の到達する直前、カナンを突き飛ばしたトビアが、代わってその槍を受け止めたのだ。
「なっ……!」
「トビアさん!」
サラの槍は、トビアの左肩、鎖骨の下を貫いていた。
失血と激痛によろめきながら、それでもトビアは踏ん張って立ち続けた。頭がぼんやりして、何を言って良いのか分からない。それでも震える腕をサラに向かって伸ばす。
その手をサラがつかみ返すことは無かった。不死隊兵士が全員倒され、驚愕から立ち直ったサラは、苦しげな表情で身を翻した。
「待って……サラ……!」
追いかけることは出来ない。トビアは膝を突き、そのまま倒れ伏した。
目の前が急速に暗くなっていった。