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【第六十二節/鯨の腹の中】

 逆さ宮殿の回廊を行くネルグリッサルに、謁見間から飛び出た法官達が追いついた。長い衣の裾を翻し、息を切らしながら走る彼らを一瞥したネルグリッサルは、無感動な表情のまま彼らを眺めていた。


「ネルグリッサル、どこに行くつもりだ!」


 法官の一人が怒鳴る。ネルグリッサルは軽く肩を竦めた「主命を果たしに行くところです」と答えた。


「気でも狂ったのか!? あの女のみならず貴様まで! 労働者の弾圧など認められん、あの命令は事実上の虐殺令だと分かるだろう! そんなことをしてみろ、我々は……ウルクはおしまいだ……」


 法官達は恐れ慄いているが、ネルグリッサルは何の感銘も受けなかった。


「はあ、左様ですか」


「貴様は怖くないのか? 止めようとしないのか!?」


 それとも事態の深刻さが理解出来ていないのでは……出来ればそうであって欲しかった。阿呆の方が、狂人よりかはいくらかマシというものだ。


 だが、ネルグリッサルの顔に狂気は見られない。かといって愚鈍なわけでもなかった。彼はベイベルの命令を了解していたし、それがもたらす結果も十分理解している。


 だからこそ、理性を保ちつつあの狂人に追従出来る彼が、常人たちには不可解でたまらなかったのだ。


「良く考えてみろ、虐殺を実行した後に何が起きるか……我々はこれまで築き上げたものを全て失う。ウルクの地位も富も全てが消える。先祖代々受け継いだ遺産が、全て潰えてしまうのだ。


 それだけではないぞ。ウルクの力が弱まれば、周辺に跋扈する闇渡りどもが隊商を襲う。交易が出来なければ経済も崩壊する。どれだけの失業者や破産者を出すか分からん。最悪、都市の人間が死ぬことになるやもしれん! そんなことは、人類の希望たる煌都においてあってはならんのだ」


 法官達は口々にウルクの被る被害を語った。それを唱え続ければ現実を変えられるとでもいうかのように。


 事実、煌都ウルクの存在は彼らにとって信仰の基盤であった。彼らの自己同一性はウルクと、その中心に聳える大燈台ジグラットに依拠している。それらが穢され、曇ることは、彼ら自身が貶められることと同義だ。


 だが、ネルグリッサルはそれらに対して少しも期待を抱いていなかった。従って、彼らに対する反応も極めて無感動なものになった。


「分からないのか!?」


「はい、分かりません」


 平然と彼は言ってのけた。


「なっ……」


 唖然とする法官達に向かってネルグリッサルは切り返す。


「何故今になってもそんなことを言っていられるのか、理解に苦しみます。


 さっき何を聞いていたのです? 怪物が人間の事情を斟酌しんしゃくするわけがないでしょう。


 第一、貴方達は煌都の権威を絶対視し過ぎている。別に、この世の始まりからウルクがあったわけではないでしょう。これまでのどこかでウルクが崩壊していた可能性は十分にあります。まあ、それが今来た……地震が人の姿をしてやってきたとでも思っておけばいかがです?」


「……貴様どうして、そうも平然としていられるんだ?」


「何故なら、私は既に死んだも同然だからです。


 古い物語に、鯨に呑まれた男の話があります。私はそれと同じ。抗いようのない巨大な存在に呑まれた、矮小な個体に過ぎない。いずれどこかの岸辺に放り出されるかもしれないし、このまま溶けて消えるかもしれない。運命に対して、私は何の決定権も持たないのです。


 さて、貴方達にも、さっさとこの場を立ち去ることをお勧めします。これからここで起きるであろうことを考えれば、その方が多少は安全でしょうから」

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