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【第五十四節/歌とすれ違い】

『銀のかいなのアストラは 不治の病に侵されり


 閉じたる心が開かねば いずれ銀へと成り果てる


 海山越えて幾百いくひゃくの 王子や騎士が集いたり


 道化は踊り、楽師は奏で、されども乙女は救われず


 麗しき顔は鬱々と 暗い翳りに覆われて


 遂に望みは絶え果てぬ……』



「えっ、死ぬの?」


 あんまりな歌の内容に、思わずペトラはツッコミを入れてしまった。ぼうっとしていたカナンはあっさり「あ、はい、死にます」などとのたまっている。


「……確かにあんたの声は綺麗だよ。これまで聴いたどんな歌い手より上手だった。けど……」


 なまじ上手いだけに、暗い内容の曲を歌われると一気に気分が落ち込んでしまう。一緒に瘴土へ入った仲間たちも、一様に「そんなオチかよ」と言いたげな表情だった。


 こりゃ教えなくて正解だったね、と嘆息混じりにペトラは思った。もし守火手の健在を知ったら、矢も盾もたまらず飛び出していただろう。地下探索どころの話ではなくなってしまう。


「カナンさん、どうしちゃったのかな。イスラさんが居ないから、不安なのは分かるけど……」


 オルファの弓隊に組み込まれたトビアは、遠目にも不調の明らかなカナンを見て呟いた。


 カナンがこの探索に加わると宣言したのは、トビアが参加を促したからだ。昨夜、彼女が「やります」と言った瞬間は、確かに前に進もうという意志が漲っているようだった。


 だが、瘴土の奥に進むにつれ、彼女の気分はどんどん落ち込んでいくかのようだった。夜魔に嗅ぎ付けられることを恐れたペトラが「何か明るい歌を歌っておくれよ」と注文したのだが、その結果がこれである。


 瘴土に入るのが恐ろしくない人間など、この隊列の中には居ない。皆、何かしらの恐怖を抱えて、それでも前に進んでいる。彼らが勇気を保っていられるのは、カナンの蒼い炎が常に行く手を照らしてくれているからだ。


 その当人が誰よりも悪影響を受けているのは由々しき事態と言える。だが、トビアを含めて、誰もカナンの悩みを解決出来る者はいない。


「イスラさんがいればなぁ」


 そうぼやくのも何度目になるか分からない。


 だが、この時は反応する者がいた。彼の隣を歩いているオルファだ。


「はっは〜ん……」


 顎に手を当てながら、オルファはしたり顔で頷いた。


「ありゃ病気だね」


「病気?」


 トビアは鸚鵡おうむ返しに言った。


「継火手は病気にならないんじゃないですか?」


「いいや、なる。こればっかりは継火手だって逃れられないさ。あの子もその患者なんだよ」


「はあ……」


 オルファの言葉の意味が分からず、トビアは首を傾げながら曖昧な返事をするにとどめた。

 彼女は顔の前で指を振りつつ、「チッチッチッ」と舌打ちしている。


「あんたもまだまだ初心だねえ。そんなんじゃ、気になるあのに振り向いてもらえないよ?」


 と、言われても、やっぱり意味の分からないトビアは、さっきと反対の方向に首を傾けた。


「なぁにバカなこと言ってるんだい、あんたも患者の一人の癖にさ」


 振り返ったペトラに即座にツッコミを入れられると、白い顔に血を昇らせたオルファは「ちげーよ!」と怒鳴り返した。そんな反発は、返って場の空気を和ませた。


 一人、その輪から抜け出ていたカナンは、両手でピシャリと頬を叩いた。


「次はちゃんとしたのを歌いますっ」


「そうしとくれ」


 カナンはスゥっと息を吸い、心に浮かぶ風景を音色に変えた。



『風よ、木の葉を乗せるなら


 我が言葉をも 彼方へ運べ


 鳥よ、その羽根が要らぬなら


 歌に翼を授けよや


 遥かなる地のの元へ


 憂える心を届かせよ


 大いなる火は弧を描き


 あまねく土地に光を与う


 朽ちたる塔も、真砂まさごの浜も、


 白亜の山も、血染めの丘も、


 さすらえる者の真上にも


 よし陽が想いを運ぶなら


 朝の調べを響かせよ……』



 歌の内容が明るいかどうかはともかく、カナンの美しい声音は天火アトル以上に闇を祓った。さすがに気合いを入れ直しただけあって、聴く者全ての心を掴むほどの歌いぶりだった。もし音楽家が立ち会っていれば、名演だと拍手を送ったかもしれない。


 カナンの声は坑道の壁に反響し、曲がりくねった無数の通路を通り抜けて、別の場所を歩いている者たちにも届いた。


 もっとも、詩意が完全に伝わったわけではなかったが。




◇◇◇




「夜魔の鳴き声が聞こえる」


 石造りの橋の上を歩いていたイスラは、耳に手を当てて音を拾った。ずいぶん遠くの方から、女の悲鳴にも似た声が聞こえてくる。一般的な夜魔の鳴き声は、錆びた歯車の駆動音やいなごの羽音に女の声を足したものとされるから、あながち的外れというわけではない。


「そう言うが……何だが、どこかで聞いたような気がするな」


 ギデオンは訝しんでいるが、イスラは「夜魔に違いない」と言い切った。


「連中が女の声を出すのは、ちょっとでも人間の気を引くためだ。俺は見たことはないけど、瘴土の中に誘い込むことだけに特化した夜魔ってのもいるらしい。そいつの誘いかも……」


「成程、確かに狡猾だな。……しかし、男を誘う夜魔か。ラヴェンナのサキュバスの伝説を思い出すな」


「サキュバス? 聞いたことが無いな」


「向こうでは有名な悪魔の名前だ。夢魔とも言うな。男性の夢の中に、その者の理想の姿をとって現れ、精気を吸い取るそうだ」


「有り難い悪魔だな」


「うむ。が、一度目を開ければ、心臓も凍りつくほど醜い姿を見ることになるそうだ。ははっ、馬鹿馬鹿しい話だが、オチは道徳的だな。仮の姿も、真実の姿も美しいのでは、世の中の男性全てが悪魔崇拝者になってしまう」


 面白いのは、こうした悪魔の出処が僧院や神殿である点だ。宗教は道徳と結びついており、道徳を説明する際に二元論……善と悪、美と醜、罪と罰、天使と悪魔といった構図はこの上なく便利である。


 ギデオンが言うように、悪魔が完全な存在として語られることは、普通はありえない。悪魔は悪の領分にあり、道徳に反する存在だからだ。


「サキュバスの伝説は、元を辿れば夢精の原因作りだそうだ。人々の性生活の厳格化を図った為政者たちのでっち上げに過ぎん」


「……何だか、夢を奪われた気分だ」


「貴様、サキュバスに出てきて欲しいのか? ……いや、そもそもカナン様に手を」


「出してねぇって言っただろ! むしろ煌都の連中の方がずっとヤバかったっての。あんたも姉ちゃんも、普段から付き合ってるならもっと……」


「ああぁ……」


 唐突に、ギデオンは頭に手を当てて嘆息した。疲れ切った中年男のような苦労と疲労の滲んだ声で、負の感情が滝のように流れ出ている。ギョっとしてニ、三歩後ずさったイスラは、内心夜魔が寄ってくるのではとヒヤヒヤした。


「嫌な事を思い出させるな、闇渡り……」


「嫌な事って……あんた、エルシャ育ちだろ? 故郷が嫌いなのか?」


 そうではない、とギデオンはかぶりを振った。


「私が嫌いなのは、あそこに住んでいる連中……特に上流階級の子弟ときたら、救いようの無い愚物ばかりだ。大祭司猊下には職を与えていただいた恩があるし、御息女のユディト様も、カナン様も、あの環境で育ったとは思えないほど清廉な方々だ。


 が、他の連中はてんで駄目だ。貴様が戦ったレヴィンという男は、確かに頭一つ抜けて凶暴だったが、他の奴らも似たり寄ったりだ。自力で得たわけでもない権力を振りかざし、当然のように人を足蹴にする……煌都というのは、そんな不条理の罷り通る場所だ。


 それならいっそ、外に出た方が良い。人の為す不条理より、自然の与える不条理の方が好ましい。出来れば、帰りたくない……」


 それは、ギデオンという男の吐いた、正真正銘の弱音だった。


 イスラは驚いていた。煌都で剣匠と呼ばれ、数々の奥義を持ったこの男でさえも、瘴土の闇に触れれば弱音が出てしまう。


(誰だって、人には違いない、か)


 驚きと同時に、ちょっとした感動でもあった。


「なら、あんたはどうして守火手になったんだ? そうならない道だってあったはずだ」


「……さっきも言ったが、煌都の連中は自分たちのことしか考えていない。そんな奴らにユディト様の御身を任せることなど出来んと思ったからだ。


 それにここだけの話だが……どうやらユディト様には想い人がいるらしい」


「そりゃ本当か?」


「うむ。日ごろの様子から察するに、誰かに恋心を抱いているのは明らかだ。カナン様を身近に見ている貴様なら分かるだろうが……あの姉妹、顔はそっくりだが、雰囲気は全然似ていないだろう?」


「ああ。俺から見ても、姉ちゃんの方が美人に見えるな。別にカナンが悪いってわけじゃないんだが、あいつは化粧っ気が無さすぎる」


「あの方はあの方で、ずいぶん極端だからな。ユディト様も気合いを入れ過ぎていると思うのだが……ともかく、片想いか両想いかは知らんが、そんなユディト様の側に獣のような男を置いておくわけにはいくまい」


「あんた、結構気が効くな」


「で、あろう?」


 もしこの場にカナンかユディトのいずれかがいれば、頭を抱えて座り込んだことだろう。


 しかし、ある分野については唐変木でも、別の分野において彼らの嗅覚は卓越していた。


 無駄口を叩きながら、イスラは左手に作った握り拳を小指の側から開いていった。開き終わると、今度は親指の方から順に閉じていき、もう一度拳を作って、中指までで止めた。全部で十三。そして剣の柄に手を置き、わずかにつばを浮かせる。


 それを見ていたギデオンは無言のまま首を横に振り、右手に持った松明を行く手に向けて掲げた。


 橋が途切れ、さらに地下へと続く坂が姿を現した。二人は迷うことなくその中に駆け込んだ。

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