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【第五十三節/若き剣士と闇渡りのシャムガル 下】

 私は軍人の家に生まれたが、あまり裕福な家庭ではなかった。父と七つ上の兄がいて、共に誠実で優れた武人だったが、私が十五歳の時に闇渡りの野盗との戦いで命を落とした。この剣は、父の形見だ。


 エルシャでは十八歳から成人として扱われる。無論、正式な軍人となるには三年待たなければならなかった。その間は大工の下で働きながら剣術を磨いた。母と、兄の嫁も着物の修繕で賃金を稼いだが、私が巡察隊に入るまで楽な暮らしは出来なかった。兄嫁は身重だったし、子供が生まれてからは、それはそれで金が必要だったからな。特に、兄は軍人になってから四年しか経っていなかったから、年金も出ない。


 巡察隊は危険が多い分、報酬も多額だ。それに一族の男が全員戦死した場合、遺族の人数に応じた年金が支給される。後顧の憂は無かった。


 最初の一年はあっという間に過ぎた。やることや覚えることはあまりに多く、しかも常に急き立てられている。闇渡りの貴様には当たり前のことでも、煌都で育った私が夜に慣れるのは大変だったよ。


 それでも私は大過なく職務を遂行出来た。一年半後、大雨の中で隊列からはぐれるまでは。


 ひどい大雨だった。私たちは一列に並んで歩いていたが、数歩でも離れてしまうと、もう松明の光以外は何も見えなくなってしまった。


 その日は瘴土から抜け出したばかりで疲労が濃く、雨水で身体は冷え、装備は重くなった。ほとんど眠りながら歩いているうちに、私はだんだんとうつむいていって、気が付くと目の前には誰の背中もなかった。


 なんとか木のうろのなかに身体を押し込んだが、毛布も何もかも濡れていて、身体は芯まで冷え切っていた。眠れば終わりと分かっていたが、瞼は重くなるばかりで、いっそ楽になってしまいたいとまで考えた。我ながら弱気だったと思うよ。瘴土の中なら夜魔に引き裂かれていただろう。


 だが、私の前に現れたのは夜魔でも獣でもなく、一人の闇渡りだった。


 傷だらけの肌以外に髪や髭まで白かったせいで、一目見たときは老人かと思った。だが、見た目の割に全然枯れた印象を与えない不思議な男だった。一体幾つだったのか今でも分からない。活発というか、生気に満ちているというか……闇渡りのシャムガルは、人柄も印象も、ともに炎のような男だった。



 ――災難だったな。



 奴は震える私を見下ろしながらそう言った。


 私は消耗がひどくて、頭ではほとんど何も考えられなかった。だが、自分が思ったよりも早く死を迎えるのだと覚悟した。巡察隊は闇渡りから嫌われているし、我々も闇渡りを討伐の対象としていたから、当然と言えば当然だ。


 闇渡りなぞの手に掛かって死ぬくらいなら、一太刀浴びせてから死んでやると決心した。その頃は私も、闇渡りに対してはろくな印象を持っていなかったから、目の前に立っている男も微塵も信用していなかった。


 だが、シャムガルは普通の闇渡りと少し違っていた。私を殺すどころか、物さえ奪おうとせず、伐剣を鞘ごと地面に置いてその場で天幕を張った。とても簡単な代物だったがな。それから乾いた服や毛布を投げてよこし、湯を沸かして蜂蜜とレモンの果汁を絞った飲み物を作ってくれた。それも、恐ろしく素早い手際で。


 呆気にとられた私に、貴様は何を企んでいるのかと詰め寄った。湯の入った杯を持ったままな。思い出すと、まったく間抜けな絵面だ。

 奴はきょとんとした顔で、こう言ったよ。



 ――人情人のシモン曰く、倒れたる者は汝の友なり、さ。雨で凍えてる奴を助けるのは当然だろ?



 奴の論理は単純明快で、反論のしようが無かった。演技で言っているようにも見えなかった。


 私は奴を信頼し、互いに名前を教えあった。


 身体が動くようになってから、私はシャムガルに連れられて闇渡りのキャラバンへと向かった。巡察隊がどこにいったのか分からない上、私も疲労は抜けていなかったから、どうしても休息を取る必要があった。


 正直、連れ込まれて袋叩きにされるのではないかと思っていたし、実際にキャラバンの闇渡りたちの視線は冷たいものが多かった。それでも受け入れられたのは、シャムガルが大きな発言権を持っていたからだ。


 キャラバンには族長がいたが、どうやら奴は用心棒のような立ち位置にいるようで、集団全体の安全を請け負っていた。だから、奴が連れ込んだ人間にも強く出れなかったのだろう。


 もっとも、男の闇渡りに比べて、女の闇渡りはずっと強かだった。あまり思い出したくないことなのだが……まあ、笑い話にはなるか。


 シャムガルは私に一つの天幕をあてがってくれた。狭い上にかび臭いところだったが、一人きりになれる場所があるのは在り難かった。


 私はそこでずっと横になっていた。もちろん剣の柄はずっと握ったままだったが、夜になるころにはずいぶん身体も軽くなっていた。


 そのせいか……病気から立ち直ると、妙に開放的な気分になることがあるだろう? ……何? 病気になったことが無いから分からない? それは何よりだ。


 ともかく、早い話が羽目を外したくなったわけだ。我ながらずいぶん浮かれていたと思うが……酒の手配をしていた闇渡りのところに行って、煌都の銅貨と一杯の麦酒ビラーを交換してもらった。一人でゆっくり飲むつもりだったのだが、あっという間に闇渡りの女たちに絡まれてな……翌朝気が付くと、天幕のなかで素っ裸の女に頭を撫でられていた。


 女の話では酔った私が襲い掛かったことになっているが、事実はおそらく逆だ。というか、後になってよく思い返してみると、明らかに向こうの方から仕掛けてきた。彼女らが持ってきたのは質の悪い火酒で、それを飲まされた私はあっという間に気絶させられたというわけだ。……何故逃げなかったか? 六人にしなだれかかられてはどうにもならん。


 おまけに、起き抜けに女は代金・・を要求してきた。一晩楽しんだのだから、それに見合うだけの料金を払えとな。既成事実を作られた以上断ることも出来ず、有り金の半分近くを毟り取られた。


 業腹だが、それが私の初体験だった……屈辱だが……おい笑うな!


 …………唯一の慰めは、その闇渡りの女性が結構な美人だったことだ。これが年増だったら目も当てられん。


 ともかく良い経験にはなった! それだけは間違いない!


 シャムガルに経緯を話したら、奴も大笑いしていたよ。ちょうど今の貴様と同じようにな。闇渡りの女は平然と性を武器に使ってくるから用心しろと、遅まきな助言までくれたよ。


 奴と過ごす間、私は闇渡りの生活を間近で見続けた。彼らの文化や風習、生活、信仰……表も裏も、ほとんど余すところなく、な。


 シャムガルという男は、本質的には至極純粋な男だった。生真面目に闇渡りの格言を守り、その基準に則って善悪の判断を下していた。そんな生き方こそが闇渡りにふさわしいのだと言わんがばかりに。まるで、自分の振る舞いを他者に見せつけることで、他の闇渡りたちを啓蒙しようとしているかのようだった。


 私に闇渡りの生活を見せたのも、その真の姿を煌都の人間に知らしめるためだったのだろう。そして、最も模範的な闇渡りとして振る舞うことで、私の疑念を、ひいては煌都の人々の偏見を消そうと試みたのかもしれない。


 奴はことあるごとに闇渡りの格言を引用した。キャラバンを出て、エルシャに続く街道を見つけるまで、毎日必ず五つは格言を使った。そのうち印象的だったものは今でも憶えている。今でもとっさに使えるのはそのためだ。


 闇渡りのシャムガルとの邂逅は、私にとって大きな衝撃だった。何せ、闇渡りが血の通った人間で、彼らにも彼らの営みがあるのだと自覚すると、二度と闇渡りと戦えなくなってしまうからだ。


 シャムガルは気持ちの良い男だった。考え方や感じ方、育ちや立場が違えど、それでも私は奴を嫌いになれなかった。



 そんなことを考えていたせいかな……巡察隊に復帰してほどなく経ってから、私は奴と殺し合う羽目になった。



 当時、エルシャの街道付近に大規模な盗賊団が出没していた。交易に支障が出たのはもちろん、小さな村が一つ潰されるに至って、エルシャの上層は都軍に討伐を命じた。巡察隊はその先鋒を任された。


 相次ぐ襲撃で図に乗ったのだろう、闇渡りで構成された盗賊団は、先に我々を捕捉して襲撃をかけてきた。こちらの隊長格が真っ先に狙われ、指揮統制もままならない中で私はひたすら剣を振るった。


 何人斬ったのか、よく憶えていない。数えている余裕など無かった。悪いことに雨まで降り始め、血と水の泥濘の中で私は敵を斬って、斬って、斬って……そしてシャムガルが現れた。


 私も奴も、何も言わなかった。内心、どうしてここに居るのか問い詰めたかったが、無駄だということは重々承知していた。奴には奴の哲学があり、それに従ってここに居るのだ。そして私も、軍人としての立場故に奴と戦わなければならない。


 シャムガルは強かった。私が弱かったのかもしれない。幾度となく追い詰められ、泥の中を這い回り、それでも闘わないわけにはいかなかった。奴が私の前に現れたのは、味方の犠牲を減らすためだ。同様に、私が奴を討たなければ、多くの殉職者を出すことになる。


 必死だった。私もあの時どんな戦術を使ったのか、よく憶えていない。どんな手を使ったのか、どんな好機があったのか……最後の瞬間、私の剣は奴の伐剣によって半ばから折られた。そして私は、折れた剣を奴の首筋に突き立てた。


 死を目前にした男に、私は言い残すことは無いか訊ねた。



 ――強いな、お前。よくもまあ、やりもやりやがって。



 ――……すまない。



 ――謝るなよ、仕方のないことさ。だが、あの時助けた恩を忘れていないなら……せめて、闇渡りと戦う時だけは、手心を加えてやってくれ。



 闇渡りのシャムガルは、闇渡りであることを恥と思っていなかった。決してその生まれを卑屈に感じることはしなかった。


 私は奴の遺言を守ってきた。そのためには巡察隊を辞めなければならなかったし、色々と幸運が重なって、今はユディト様の守火手をやらせてもらっている。


 そして、エルシャで貴様と戦った時……私は、シャムガルのことを思い出した。




◇◇◇




「つまり何だ、あの時あんたは手心を加えてたっていうのかよ」


「当然だ。でなければ、貴様の頭はとっくに胴体から離れている」


「ケッ!」


 イスラはそっぽを向いた。


 そんな彼を横目に見つつ、ギデオンは、やはりこの少年はシャムガルに似ていると思った。今時掟を遵守するのは古風といって良いだろう。あの男が見たら喜んだかもしれない。


「さて。では、次は貴様の番だな」


「あん?  次って、何の話だ」


「私に昔語りをさせたように、貴様も何か差し出すべきだ。まだまだ瘴土も続くことだし、一人ずつネタを出さなければ退屈だろう」


「ネタって……そうか。じゃあ、一曲歌うか」

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