しばらくの間、二人は見つめ合ったまま一言も発さなかった。少女の表情は彫像のように凍りついていて、トビアも言葉を切り出せない。今、少しでも音を立てたら、彼女が霞になって消えてしまいそうな気がした。
だから、先に口を開いたのは少女の方だった。
「ここで、何をしているの?」
少女は無表情のまま小さな顔をこっくりと傾かせた。我に返ったトビアは慌てて返事をしようとするが、どうしてここに居るのか、良い理由が浮かばない。
「えっと、その……何だろ……?」
後々、トビアはこの時の醜態を思い出すたびに頭を抱えたくなるのだった。あまりに間抜けすぎる返答だと思う。
だが、それに対する少女の返答も、あまり一般的なものではなかった。
「分かるわ、その気持ち」
「え?」
「理由は無くても、身体を動かしたくなる時があるもの。もやもやして、憂鬱な気持ちになってると、なおさらね。あなたも何か嫌なことがあったの?」
少女は舞台の上から飛び降りた。黒い服がひらりと舞い、鳥の羽のように静かに着地する。
トビアは自分に起きていることを洗いざらい話したかった。だが、すんでのところで彼は自制を効かせた。
「……うん、困ってる」
「そう。でも、ここでは困っていない人の方が珍しいわ。わたしもそう」
少女はトビアの周りをくるくると歩き回った。トビアが振り返ると、その視線から逃れるようにするりと死角に潜り込む。魚の胸びれがたわむように、少女の動きに合わせて黒い服が流れる。
「あなたは何に悩んでいるの?」
誰かに全て打ち明けられたら楽だろうな、と思う。だがこんな場所で偶然出会った人間にそんなことは出来ない。こうして会話をしていること自体、軽率と言うべきだろう。
「内緒、かな。あんまり人には言いたくないんだ」
「思わせぶりなのね。困ってるって言ったくせに」
「うん……ごめん」
「じゃあ、わたしの悩みなら聞いてくれる?」
「え?」
無表情のまま少女は言った。彼女の態度や様子からは、おおよそ彼女が何かの悩みを抱えているようには見えない。ただ、喜怒哀楽のいずれかの感情が見えるかというと、そうでもなかった。人間に出会った経験の少ないトビアにとって、目の前にいる少女は、いささか持て余す相手だった。
すぐに話を切り上げて立ち去るべきだ、と彼の理性はささやいている。だが一方で、どこか彼女に心惹かれるところがあった。彼女の謎めいた態度の裏にある何かを知りたいと思った。
そして、少女を追うトビアの視線の外で、影が波のようにゆらめいた。少女はちらりと影の波を一瞥し、またトビアに戻す。
「わたしはここから出られないの」
「ここに居る人は、みんなそうだろ?」
「うん。でも、他の人たちは出て行っても良いけど、わたしは駄目。みんな、許されないから出られないだけで、出ていく資格はあるもの。わたしは、出て行ってはいけないし、わたしもわたしを許していない」
少女の謎めいた喋り方に混乱しながらも、トビアは何とか返事をした。
「それじゃあ、君が……何でなのかは分からないけど、君が自分自身を許せたら、出ていく資格も手に入るんじゃないかな」
トビアがそう言うと、少女は一瞬きょとんとした表情になり、それから鈴を転がすような声で笑いだした。いきなり笑われたトビアは、その声で誰かが来るかもしれないという考えさえ浮かべずに、「何か変なこと言った?」とたずねた。
「あなた、馬鹿ね」
「馬鹿、って……」
「ふふ……いーえ、あなたやっぱり分かってないわ。そんなに単純な考えで解決するなら、最初から悩んでなんかいないもの。
本当に深刻な悩み事はね、いくら考えても解決しないのよ。そして、悩みを抱えている本人も、それが絶対に解決出来ないって最初から分かっているの」
少女は列柱の間を歩きながら、からかうような口調で喋り続けた。だがトビアは苛立ったり、腹を立てるようなことはしなかった。少女の白い顔はたしかに笑っていたものの、トビアにはひどく空虚なものに思えた。
「君の言うことが本当だとして……それじゃあ救われないじゃないか」
トビアはわずかに顔を伏せながら言った。
「そうよ。救われないの。解決出来ない悩みだけが本物で、それ以外は全部偽物。
あなたの悩みは、そんなに難しい? 大したことではないでしょう?」
「それは……違うと思う。僕のだって、難しい悩みだと思うよ。でも、君が言うほどじゃないかもしれない」
「そう」
少女はくるりと身をひるがえし、音もなくトビアの目の前に降り立った。そして鼻先の触れ合いそうになるほど顔を近付け、じっとトビアの瞳を覗き込む。いきなり眼前に立たれ、吐息のかかるほどの距離に詰め寄られたトビアは、わずかに上半身を反らした。緊張を悟られないよう努めたつもりだが、顔が赤くなることまでは隠しきれなかった。
「ふふ、
「なっ……!」
「ね、本当に教えてくれないの?」
「……うん、教えたくない」
「そう。じゃあ、話はお終いだね」
彼女の顔が離れた。少女は
「どこに行くの?」
「帰らなきゃ。あんまり長い間、外に出ていちゃいけないの。本当はあなたとも会わない方が良かった。でもね、色々お話しが出来て、楽しかったよ?」
肩越しに振り返りながら、少女は屈託のない笑みを浮かべた。それだけは、彼女がこの数分の間に見せた、唯一裏の無い表情だった。
その表情に、トビアは心臓を突かれたような気持ちになった。
「君の名前は!?」
去っていこうとする少女に向かって、トビアはたずねていた。
少女は「あなたの名前は?」と聞き返す。
「僕は……トビア」
「わたしはサラ。さよなら、トビア。あなたの悩みが晴れたら良いね」
「……君の」
トビアが言葉を返そうとした時には、少女の姿はそこには無かった。
ただ、一瞬彼の目に、影の表面を走るさざ波のような何かが映った。
一度瞬きをすると、もうただの暗闇しか残っていない。
◇◇◇
家に戻ると、待っていたのはペトラの説教だった。
「どこ行ってたんだい!」
寝間着姿のペトラは両腕を組み、机の上に仁王立ちで立っている。それで何とかトビアを見下ろせる。
「ち、ちょっと水を飲みに……」
「そこに水瓶があるだろ!」
「夜風に当たりたかったというか……」
「地下にどうやったら風が吹くんだい?」
「……すみません」
しゅんとうなだれるトビア。二人の間に割って入ったカナンが「まあまあ」と諫めようとする。
「何事も無かったわけですし、無事に帰ってこれたんだから良かったです。でも、出かけるならそう言ってくれれば良かったのに」
「はい、すみません……」
まさかカナンとペトラの間に居たくなかったからと言うわけにもいかず、トビアは殊勝に首を垂れ続けた。
確かに軽率であったことは間違いない。出会ったのがサラではなく
(あの子……)
闇の中に去っていくサラの姿は、トビアの網膜にしっかりと焼き付けられていた。その儚い佇まいや、鈴の音のような笑い声も。
彼女は何者なのだろう? 解決出来ない悩みとは何だったのだろう? 今になって、そんな疑問が次々と浮かび上がってくる。
ふとカナンの顔を見た。
「トビアさん? 私の顔に何か……」
「カナンさん、あなたはイスラさんのことで悩んでいるんですか?」
「え?」
いきなり話題をすり替えたうえ、唐突にイスラの名前を持ち出されたカナンは当惑した。まさかトビアの口から彼の名前を突きつけられるとは思っていなかった。そして、否応なしに自分の卑怯さを思い返してしまう。
カナンが苦しげな表情を作ったのは、トビアにも分かった。それでも彼は話題を変えようとは思わなかった。
「ペトラさんから地下探索の話を持ち掛けられた時、カナンさんはイスラさんが見つかっていないことを理由に断りましたよね。でもイスラさんが生きていたら、カナンさんが動くことを前提にして探そうとするんじゃないかな……」
「……」
言われるまでも無いことだ、とカナンはいささか腹立ち気味に思った。だがことさら苛立つのは、彼の言葉が自分の痛いところを突いていたからだ。
イスラが居たとしても、彼は自分から「助けよう」とは言い出さない。それを言うのはカナンの役目で、自分はそれを全力で補佐すると決めている。それが、二人が旅の間で築いてきた関係性なのだ。
カナンが意思を示し、イスラがそれを実行する。風読みの里を出るときもそうだった。ほとんど成り行きとはいえ、カナンは風読みたちを助けることにしたし、イスラはその決定については何の異議も唱えなかった。
ではイスラが居なくなってしまえば、自分は一人で意思を示すことも出来ないのか?
「イスラさんが言ってました。難題に対しては像のように泰然とし、虎のように果敢であれ、って」
「……それは、闇渡りの格言ですか?」
「はい、そうだって言ってました」
「そう、ですか……」
イスラは何も決められない人間ではない。闇渡りの教えと自分の経験とを基にして、生きるか死ぬかの瀬戸際を戦い続けてきた男だ。自分がいなくても、イスラは独自の判断で動くことが出来る。だから、彼が生きていたら、彼なりの方法で自分たちを探そうとするはずだ。
では自分は? イスラが居なければ何も出来ない、何も決められないのか?
ここで立ち止まれば、その事実を認めてしまったことになる。自分はそれで良いのか?
イスラが探そうとしているカナンは、そんな女々しい人間なのか?
エデンを目指そうと決めたのは、誰かに指図されたからか?
「私は……!」
◇◇◇
カナンが煩悶いていた同時刻、イスラとギデオンは地下へと続く道を見つけ出していた。