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【第四十八節/地底のサラ 上】

 集会が終わり、三人は家に戻った。道中口数は少なく、戻って寝床の用意をしている時もそれは変わらなかった。


 昨夜と同じくカナンはペトラの部屋の床に横になったが、心地良く眠りに落ちることは出来なかった。壁の方に顔を向け、自分の心と記憶とを行ったり来たりしながら、自己嫌悪の念を強めていった。


 自分の弱さを覆い隠すために、他人を利用するほど卑怯なことは無い。ある種の破廉恥な人間は、己の欠点には絶対に目を向けず、当然のように自己を正当化しようとするが、不幸にもカナンはそういった人種には属していなかった。


 むしろ、潔癖過ぎた。


 日頃から低級な酒を飲んでいれば悪酔いもし難いが、最上の葡萄酒ばかり飲んでいた人間なら、頭痛も胸焼けも一層酷く感じるだろう。それと同じように、カナンは良心の呵責を強く感じていた。


 だが、そんなことはいくら考えても無意味なのだ。結局のところ、カナンは良心を言い訳に思考を停止させている。普段はそういった心の動きにも気付くのだが、今の彼女は、とても聡明とは言えない状態だった。


 扉一枚隔てた向こう側では、トビアもまた思案にふけっていた。


 これからどうすれば良いのか、自分は何をするべきなのか、あるいはどうしたいのか。


 これまでは父親が全て考え、命じてくれた。彼が自分の意思で動くことなどほとんど無かった。一人で物事を決めることに慣れていないトビアは、イスラとはぐれ、カナンを頼れないこの状況下でどうするべきか、答えを出せずにいた。


 今のままで良いはずがない。自分もカナンも、うずくまって膝を抱えているだけではダメだ。理屈では分かっていても、自分から動く踏ん切りがつかない。ウルク軍によって里人たちが叩き落とされていく光景はまだ網膜に焼き付いたままで、その時に抱いた恐怖も色褪せず残っている。


 ただ、あの時はイスラがいた。呆然自失となった彼を叱咤してくれたおかげで、ザバーニヤを木陰に降り立たせることが出来たのだ。


 カナンが動けなくなった理由も分かる。どれほど窮地に立たされようと、イスラがいれば最後は全て解決してくれる。突破の糸口を作ってくれる。そうした厚い信頼があったからこそ、カナンは旅を続けてこれたのだ。そしてトビアもまた、イスラの幻影に寄りかかっていた。


「父さん……イスラさん……僕、どうしたら……」


 この場に居ない人間に、答えを求めても仕方が無い。分かっていても呟かずにはいられなかった。


 トビアはかぶりを振って起き上がった。少し喉が渇いていた。どうせこのまま横になっていても考えはまとまらないのだ。夜中なので不死隊アタナトイの巡回も無いことだし、水汲み場まで歩くことにした。


 念のために外套だけは着用し、その下に山刀を吊るしてそっとペトラの家を出た。


 大坑窟の壁面に作られた回廊を忍び足で歩きながら、トビアは天井より伸びる巨大な燈台に目を向けた。


 とんでもないところに来てしまったな、と思う。つい先日まで、自分は山奥の小さな里で平和に暮らしていたというのに、今は人々が虐げられる地下都市に居る。


 人の生はどう流れていくか分からない。運命というものの不可思議さ、理不尽さを想ってトビアは溜息をついた。



 その時、視界の端を何かが翻った。



 反射的に腰の山刀に手を伸ばす。誰かが襲い掛かってくるということはなかったが、こつん、こつん、と硬質な音が一定の間をあけて聞こえてくる。まるでステップを踏むかのような。


「まさか、見つかった……?」


 危惧すべき状況だが、何故かトビアは、それほど危機感を覚えなかった。だが放置するわけにもいかず、足音のする方へ向かって可能な限り音を立てずに走っていく。


 なかなか距離は縮まらない。まるで彼を誘うかのように、一定の間隔で音が聞こえてくる。それが罠かもしれないと思っていたが、どうしてかトビアは、足を止める気にはならなかった。


 壁面の回廊を、音のする方へ進んでいくと、大坑窟の巨大な虚空に張り出すように造られたテラスへたどり着いた。あちこち崩れかかっていて、列柱のいくつかは倒れて砕けてしまっている。元は花壇でもあったのか、枯れた花や木が渇いた土の上に無造作に転がっていた。


 そのテラスの中央に、踊り子を踊らせるための小さな祭壇があった。あるいは演劇のための劇場でもあったのか。いずれにせよ、トビアの視線はそこに舞う一つの人影に捕らわれていた。




 一人の少女が、陽炎のように身体を揺らめかせていた。




 喪服のような黒い衣装は、袖が広く長く織られていて、身体の動きに合わせてまるで鳥の翼のように翻った。禁欲的な作りに見えて肩や背中、膝から下は露わになっている。地底のわずかな光が素肌を照らすたびに、真珠のような肌が白く輝いた。


 トビアは呆然と、舞台の上で舞う少女を見つめていた。彼女が振り返ったとき、その青紫の瞳が視線と重なり合った。


 白磁のような、ほとんど病的とさえいえるほど白い肌に、少女の青紫の瞳は不気味なほど調和していた。歳のころはトビアと変わらないか、わずかに下かもしれないが、幽霊のように生気が無かった。その蜻蛉のようなか弱さが、少女の浮世離れした美しさを一層引き立てている。


 トビアは、初めてカナンを見たときに「綺麗な人だな」と思った。だが彼女の美しさは、いわばの美しさだ。潤沢な天火の元でしか育まれない健全さが、そのまま形となって表れている。だが目の前の少女がまとう美しさは、カナンのそれとは全く種類の異なるものだった。


 そしてトビアは、彼自身自覚していなかったが、影の美しさに心惹かれる感性を持っていた。


 だからカナンに対してはドギマギするだけだったのが、今は何もかも忘れ去ってただじっと少女の姿に目を奪われていた。



 彼女の影が、ぞわりと波打ったことなど、まるで気が付かなかった。

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