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【第四十七節/卑怯】

「よっこいしょ……ん、ちょっと高いな」


 椅子を引っ張ってきたペトラは、難儀しつつも腰を下ろして、両足をプラプラと揺らした。先ほど四十代だと告白されたばかりだが、どうしてもカナンは、それが嘘に思えてならなかった。だが岩堀族の女性が童顔かつ幼児体系なのは事実である。


「さて。あたしら岩堀族がここに住み続けてきた理由は、バルナバの爺さんが言ったとおりだ。んで、あたしらが下手なことをしないように見張るのも、支配者側からしたら当然だよね?


 ベイベルの家系は、代々ウルクの地下を見張り続けてきた一族だった。あいつのお袋も、婆ちゃんも、そのまた婆ちゃんも、ずっとウルクの地下にあたしらと籠ってきた。まあ多少は自由に出来ただろうけどね。仕事柄、そう長くは離れられなかったはずさ。


 あたしが大神官の宮殿に奉公に出されたのは、十八歳の時……あんたと同じだね。ちょうど奥方が出産するっていうんで、人手がどうしても欲しい時期だった。あたしだって、右も左も分からないのに、色々やらされてね。バタバタ過ごしているうちに、とうとう陣痛が来た。あたしは奥方の世話をしてたんだけど、お湯が必要だからって言われて、汲みに行ったのさ。


 宮殿の中庭には滝があって、あたしはそこで水を汲んでた。ちょうど桶が一杯になった時、元気な鳴き声が聞こえてね。ああ急がないと、って思った。



 ……そしたら、あたしは吹っ飛ばされて、頭っから滝壺の中に叩き込まれてた。



 何が起きたのか分からなかった。ただ、吹っ飛ばされた瞬間、真っ黒な炎が宮殿の全部の戸口や窓から噴き出たのだけは覚えてる。もし中庭にいなかったら、あたしだって黒焦げだったはずさ。滝壺に落ちたのも運が良かった。


 何が起きたのか分からなかったけど、赤ちゃんの泣き声だけは聞こえてる。あたしはその声がする方向に向かって進んでいった。元の寝室へ……でも、そこはもう原型を留めてなかったし、真っ黒に焦げて縮こまった死体がいくつも転がってた。皆死んでた、あの子……あいつ以外はね。


 あたしはあいつを拾い上げて、どうしようもないまま突っ立って、結局、ウルクの法官どもが駆けつけてくるまで途方に暮れてた。今思うと、あの時あたしは、あいつを滝壺に放り込むか、大坑窟に投げ捨てといた方が良かったんだ」


「そんな……」


 カナンは声を震わせた。その場に居合わせ、動けなくなってしまったペトラの気持ちは想像出来る。その時、彼女は今言ったような葛藤に捕らわれていたはずだ。生かすべきか殺すべきか。途方もない力を前にした時、倫理の輪から一歩踏み出す誘惑にかられたに違いない。


「生まれたての赤ん坊にそんなことは出来ないって? でも、今は本当に、そうしておくべきだったと思ってる。その後あいつがやらかしたことを思えばね。


 あいつは……大神官ベイベルは、生まれながらの虐殺者さ。カタコンベに積まれた頭蓋骨は見ただろ? あれは全部、あいつの天火で焼かれた連中のものだ。それも一時いっときに、一か所に集められて、まるで炭でも焼くように皆殺しにしたんだ。人を焼き殺すのが、あいつにとっては生き甲斐みたいなものなんだよ。


 それだけじゃない。不死隊アタナトイをどうやって操ってるか分かるかい? 分からないだろうね。


 あの連中は、元々地上に住んでた闇渡りとかさ。それを攫ってきて、地下で栽培した麻薬で虜にしてるんだ。農場に駆り出されるのはあたしら、それで飼いならした不死隊に支配されるのもあたしら。まるで、自分で自分の手錠を作ってるようなものさ。


 ありがたいことに、あんたらを襲ったっていう薬中野郎……夢見のトトゥは死んだそうだ。おかげで、農場の運営にも支障が出るだろう。一時しのぎだけどね」


「ハッ! あの魔女のことだ、すぐにでも新しい拷問を打ち出してくるぜ」


 サイモンが足元の小石を蹴り飛ばした。


「いくら戦力を削ごうが、人も物も、表のウルクから運び込まれてくる。俺らは水門跡で三、四人は不死隊を仕留めたが、それだってすぐに補充されるだろうさ。馬鹿々々しい……!」


「サイモン、今話してるのはあたしだよ。喚きたいンなら、あとにしておくれ」


「けっ!」


 まだ腹の虫がおさまらないといった様子のサイモンを見ながら、ペトラは肩をすくめた。それが彼女の癖のようだが、確かに、その仕草にはどこか年季の入った感じがする。頭の中で情報を整理していても、雑念が入り込んでくるのは止められないものだ。


 カナンは意識を話に戻すために、抱えていた疑問をぶつけてみることにした。


「その人の悪行についてはよく分かりました。でも、少し解せないですね」


「と、言うと?」


「ペトラさんの話を聞いただけでは、その人が何を目的にしてそんなことをやっているのか、分からないんです」


 そんなことか、とペトラはまた肩をすくめた。


「言ったろ? 趣味なんだよ、あいつにとっては。嗜虐的で破滅的、冒涜的で異常嗜好……あんなのは人間じゃない。あたしらが、どれだけあいつに酷い目に遭わされたか……」


 当然カナンは、ペトラの答えを予想していた。実際、ベイベルの暴力に曝され続けてきた彼女らが言うのだから、そういう面は本当にあるのだろう。


 だが、それだけだろうか?


 彼女らは恐怖の故に、何か大切なことを見逃しているのではないか。勝手な予想ではあるものの、カナンは単純にペトラの意見を受け入れることは出来なかった。


「…………ここからが本題、あんたらを連れてきた本当の理由だ。


 あたしらはこの地下でもう存分に苦しんだ。このまま残っても苦しみ続けるだけだし、事態が好転する希望も無い。せいぜい、あの女の破滅的な趣味に巻き込まれるのが関の山。


 だから、ここから逃げ出したい。皆を連れてね」


「……それが、私たちを匿った本当の理由ですか?」


「ああ、そうさ。


 逃げ出すための算段はついてる。ただ、手段が確保出来てない。それを達成するためには、カナン、あんたの力が必要なんだよ」


 カナンはふと既視感を覚えた。


 風読みの里の時と同じだ。自分の力を当てにされ、皆から期待されている。だが、ティアマトの空を抜けた後に何が起きた? トビア以外に誰も救えなかったではないか。


 以前の彼女であれば、二つ返事で乗っていただろう。しかし、今はもう出来ない。自分の力など取るに足らないものだと知ってしまっている。いや、それ以上にカナンは自分に対し自信を失っていた。



 何故見抜けなかった、何故助けられなかった、何故示せなかったのか。



 今度もまた、誰も救えないのではないか? ペトラたちが危機に瀕しているのは分かる。トビトのように策を弄しているということはないだろう。だが、それだけに、絶対に失敗が許されない。


「私に、何をしろと言うんですか?」


「この大坑窟を降りていくと、大規模な瘴土がある。そこは元々、旧時代の発着場があった遺跡さ。その転移門の一つでも起動させられれば、あたしらはウルクから脱出出来る。


 心配しなくたって、装置の起動は出来るさ。ただ、そこにたどり着くまでが問題なんだ。あたしらだけじゃ全滅するのがオチ、どうしたって継火手の力が要る。だから……」


「イスラが居ないのに……?」


 カナンは自分でも意識しないうちに、彼の名前を口に出していた。ハッとした。「イスラ?」とペトラは首を傾げている。


「私の守火手です。彼は……」


「残念ながら、消息は分からない。今のところあたしらが分かってるのは、夢見のトトゥが死んだってことぐらいさ。あんたの守火手が仕留めたのかもしれないし、もしそうなら生きている可能性も」




「軽々しく言わないでっ!!」




 ガタンッ! と音を立ててカナンは立ち上がった。


 立ち上がってから、我に返った。


「あ……ちが……違う、私は…………」


「……そうだね、すまない、勝手なことを言った。あんただって、辛いんだよね。あたしらだけ切羽詰まって、無茶を言って。ごめんよ」


 ペトラは心底申し訳なさそうにそう言ったし、実際本心からそう思っていた。相棒の行方が分からない彼女に、いきなり地下探索の手伝いを頼むなど、あまりに急ぎ過ぎている。それを過ちと彼女は認めていた。


 だが、カナンにとって問題であったのはそこではない。


 自分は無意識のうちにイスラの名前を呼んだ。だが、それは本当に意識しなかったことなのか?


 ここで彼の名前を出し、自分もまた被害者であることを訴えておけば、事態を保留出来ると考えたからではないか? ダメ押しに感情を爆発させておけば、それで追及を止められると確信していたのではないか?



 ――私は、イスラの名前を使って、逃げたんだ。



「卑怯者……ッ!!」


 俯いたまま、カナンは強く強く、いっそ砕けろと思うほどに奥歯を食いしばった。それが何かの贖罪になるわけでもなかったが。

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