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【第四十四節/煙の先】

「むうぅー……」


 応接間の大きなソファに倒れこんだユディトは、水煙草シーシャの吸口を咥えながら、服の裾が捲れるのも構わずゴロゴロと転げ回った。


 ミントの香りのついた煙をくゆらせながら、気だるげに枕を抱き締めて、硬くなっていた身体がほどけるのを待った。


 植物の栽培可能な土地が限られている現在、煙草は最高級の娯楽品である。食料ならいざ知らず、燃やして煙にする葉のために、わざわざ耕地面積を確保し、育てていく手間を考えれば、相場が高くなるのも道理というものだ。


 従ってユディトのような超一流の身分に属している者しか口にすることは出来ず、そんな彼女でさえ、気軽に嗜むことは出来ない貴重品なのだ。


 逆に言えば、今はとっておきの煙草を吸ってでも気分を落ち着かせたい状況だった。


 深く煙を吸おうとした時、侍女が扉を叩いた。


「ユディト様、お二人がお見えです」


 ユディトはサッと起き上がり、居住まいを正した。あんなだらけきった姿は誰にも見せたくない。ギデオンに見られでもしたら幻滅されること間違い無しだ、と彼女は思い込んでいた。髪や服の乱れを整えてから、ユディトは二人を通すように言った。


 入ってくるなり、ギデオンはユディトに先んじて「御用ですか」と訊ねた。


「はい、二人にお願いしたいことがあります」


 本題を切り出す前にユディトはもう一口煙を吸った。


 イスラは、カナンと同じ顔をした女性が煙草を吸っている光景に違和感を感じた。相手がカナンではないのだから当然だが、それでも、カナンが煙草を吸う姿というのはどうしても想像出来ない。だが、ユディトの気だるげな姿には、ゆらりと揺れる煙がよく似合っていた。


 何が違うんだろうな? とイスラは考えた。髪や服のようにあちこちに差異があるのだが、もっと根本的な部分、目に見えない部分がそもそも異なっているように思える。


 分かっている人間なら一目瞭然だろうが、イスラは愛情と程遠い場所で生きてきた人間だ。今の彼では、どれだけ頭を捻っても、その差異の正体は見抜けない。


 ただ、自分がこんなどうでも良いことを考えるのは妙だな、と思った。先程まで動き回っていたというのに、今は微睡みに似たもやが脳を覆っている。それもまた、不可解だった。


「今朝、ウルクの官僚に探りを入れてみましたが、具体的な情報は何も手に入りませんでした」


「やはり漏らしませんか」


 二人の声が妙に遠くに感じる。何を話しているのか良く分からない。


 ただ、イスラの視点はユディトに合わせられている。


「公然の秘密、といった態度ですね。糾弾されない限り彼らはウルクの勢力を拡大し続けるでしょうし、表立って争えば遺物の取り引きを停止するでしょう」


「昨夜の、例の男については?」


「……ただの野盗と切り捨てられました。そこから何か追及出来ないかと思ったのですが……」


 昨夜の男、と言うと、あの麻薬使いのことか。そう言えば奴も煙草を……その記憶にたどり着いた瞬間、ぼやけていたイスラの視界が急速に晴れ渡った。


 イスラはユディトの水煙草シーシャを掴むと、思い切り床に叩きつけた。


 ガラスの砕ける音が響き渡った。


「ああっ!?」


 もう一口吸おうとしていたユディトが悲鳴を上げる。ギデオンも何事かと目を丸くしている。それに一瞥もくれず、イスラは炭を蹴り飛ばし、床に落ちた煙草を踏みにじった。


「な、何するんですか!」


「野郎の薬だ! あいつも同じ臭いのを吸っていた!」


 夢見のトトゥに遭遇した際、彼はキセルを加えていた。忘れようもない。そこから立ち上っていた煙と、今までユディトが吸っていたものは、ほとんど同じものだった。


「道理で頭がぼやけるはずだ。おい姉ちゃん、あんたが吸ってたやつは麻薬だぞ」


 水煙草シーシャを砕かれた衝撃に加えて、新たな事実を叩きつけられたユディトは、床に散らばったガラス片と右手の吸口を交互に見やった。


 ギデオンは膝をつき、踏み潰された煙草の欠片を摘んだ。普通、水煙草の草は糖蜜によって琥珀状に固められているが、そこに混ぜられた物が何であるかギデオンには見分けがついた。


「成程、闇渡りの言う通りです」


「ギデオンまで……」


「ハッシシ、大麻の一種です。樹脂を糖蜜の中に溶かし込んであります」


 ユディトは両腕で肩を抱いた。その様子を見たギデオンは「心配はいりません」と慰めた。


「含まれているのはごく少量です。長期間ならばいざ知らず、この程度の量では即座に影響は出ません。それにユディト様は継火手であります。天火アトルの自浄作用で毒の影響も消え去るでしょう」


「で、でも……私の天火はカナンのように強くありません……」


「ふむ」


 ギデオンは小さく唸ると、手に持った小さな琥珀の欠片を、まるで飴のような気安さで口に放り込んだ。


「この通りです。常人の小生が口に含んでも、どうということはありません」


「ギデオン……」


 彼は無表情のまま麻薬と煙草と糖蜜の塊を噛み砕いているが、それを見上げるユディトの表情はうっとりとしている。


「本当だ。結構イケるな」


 それだけに、ボリボリと無神経に煙草を噛んでいるイスラに対して、焼き殺してやりたいという仄暗い情念が揺らりと立ち上った。


「ともかく、これで一つ手がかりが出来ました。ユディト様、この煙草はどこで買い求められましたか?」


大燈台ジグラットの真下にある専門店で買いました。そこに出入りしている卸売商を探れば……」


「麻薬の出先を突き止めることが出来ます。もしかすると、芋づる式に様々な真実が分かるかもしれません。命令というのは、そのことですな?」


「……当初と予定は異なりましたけど、そうです。このまま消極的な手段で探り続けていても、良い結果は得られないでしょう。だったら、多少強引な手段を採ってでも情報を集めるべきです。彼らが例の男の所属を認めなかった以上、公に出来ないような後ろめたい真実があるはず……」


「承知しました、準備をします」


「気を付けてください。発覚すればこちらが危険に晒されます。貴方だから、命の心配をする必要はないでしょうけど……万が一ということもありますから……」


 ユディトとしては、これはあまり採りたくない手であった。命令一つでギデオンを死地に送り込むことになる。継火手としての権力をこういう形で振るいたくは無かった。そういう潔癖さは、姉妹で共通しているのだが、ユディトは気付いていなかった。


 出来ることなら自分もついていきたいが、使節の最重要人物である自分が一時とはいえ姿をくらますわけにはいかない。ギデオンを送り込むことも相応の危険性を孕んでいるが、彼女が姿を見せ続けていれば、それなりに誤魔化すことは出来る。


 そして幸運にも、もう一人守火手が手中にある。存在が露見しておらず、しがらみもほとんど抱えていない、自由に動かせる駒だ。


「闇渡りのイスラ、ギデオンについて行動してもらえますか?」


「……なるほど、それで俺を呼んだわけか」


「あまり考える時間はあげられません。この場で決めてください」


 イスラは二、三度軽く頭を叩いた。


 今の彼にとっての最重要事項は、カナンとトビアと合流することだ。だが、二人がどこに行ったのかについての情報は全く無い。少なくとも処刑されたことはないだろうが、ウルクを離れ、森の中に潜んで気を窺っているかもしれない。


「なあ、姉ちゃん。カナンの奴、こういう場合どう動くと思う? あんたならよく知ってるだろ?」


「そうですね。まあ、ジッとしているということはないでしょう。動き回って、貴方を探していると思います」


「森に向かった可能性は?」


「ありません。一時的に退避したとして、今頃は貴方を探すために奔走しているはずです。人を放ったままにしておけない性格ですもの。ましてや、貴方はあの子の守火手。そう簡単にあきらめたり、手放したりはしないと思いますよ」


 ユディトの言うことは、イスラの考えとほぼ合致していた。カナンは彼を探すために、ウルク内のどこかで動き回っているはずだ。ただ、それがどこかは分からないし、会いに行く手段も思い浮かばない。


「だったら……人情人のシモン曰く、受けた恩には即座に報いよ。さすればより大きな実りとならん。あんたに助けてもらった借り、そのお願いとやらでチャラにさせてもらうぜ」


「ええ、構いません。十分過ぎる報恩です。……では二人とも、任せましたよ?」

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