「遅い!」
そんなはずはないんだけどな、と思った時には、イスラは頭から池の中に突っ込んでいた。
右往左往する観賞魚をかき分けながら木剣を拾い上げ、池の中から這い出る。仁王立ちで待ち構えるギデオンの前に再び立つと、掛け声もかけずにイスラは斬り掛かった。
一合、二合、三合と木剣をぶつけ合う。乾いた音が百花宮の庭に響き渡った。
イスラは火のように苛烈な攻めでギデオンを抑え込もうとするが、その剣閃はことごとく対処された。得意技の突進斬りでさえあっさりと躱される。それどころか、避けた後に即座に反撃に転じてくる。イスラは態勢を立て直す暇も与えられず、庭の隅へと追い詰められていった。
「馬鹿め、そんなイノシシのような突進で私を倒せると思ったか!」
「クッソ、好き放題言いやがって……!」
「防御も甘い、私の攻撃線を意識しろ。どこを剣が通るのかあらかじめ想像し、対処して見せろ!」
そうは言うものの、ギデオンの攻撃はまさに嵐とでも称するべきものだった。様々な角度から均一な重さを持った斬撃が、しかし速度には微妙な変化を加えつつ襲い掛かってくる。攻撃線を予測し、その途中に剣を構えても、まるで風のように軌道を変えてイスラの身体を狙ってくる。何度もあちこちを打撃されたせいで、イスラの全身はあざだらけになっていた。
「遠慮なくボコスカやりやがって……喰らえ!」
ギデオンの突きを叩き落とし、そのまま空いた左手で殴り掛かる。
だが、その手はギデオンによってあっさりと掴まれたどころか、次の瞬間にはイスラの天地は入れ替わっていた。
「っで!」
呆然としたまま星空を見上げる。一体どんな技を掛けられたのか分からなかった。掛けられた力はわずかなもので、ギデオンに引きずり倒されたというより、自分から地面に向かって倒れていったかのようだった。
「……何だ、今の技」
「貴様に欠けている物を応用した技だ」
ギデオンは石段に腰かけ、置いてあった果実水を口に含んだ。
「少し手合わせしてみて分かったが、やはりその体力と打たれ強さには見るべきものがある。瞬発力も悪くない。だが、逆に言えばそれだけだ。貴様は圧倒的に少ない手数で敵と相対しなければならない」
「……」
イスラは返事をしなかったが、頭の中ではアラルト山脈で戦ったエルシャの軍人たちのことを思い出していた。彼らの個々の技量は大したものではなかったが、盾があるという一事だけでずいぶん苦戦させられた記憶がある。
また、先日戦った『夢見のトトゥ』にしても同じだ。向こうは最初から搦め手を使ってきたが、イスラの戦い方は最初から決まり切っている。
「その顔だと覚えがあるようだな。時として、手数の多さは一つに特化された技量を上回ることがある。騎兵の突撃は歩兵の戦列を突き崩すが、そこに横からの攻撃と弓による援護が加われば、たちまち動きを止めてしまう。個人の武術でもそれは同じだ」
「じゃあどうするんだよ。今から新しい武器の使い方を覚えろってか?」
「それが一番確実だろうし、やって損は無いだろう……だが、貴様の場合、その前にやるべきことがある」
「やるべきこと?」
「貴様の強みである速さを、絶対的なものにまで昇華させること。これが肝要だ。実力の上限を引き上げれば、その範囲内で出来ることも、自ずと増えるだろう」
起き上がったイスラは、濡れた髪をかき上げながら鼻で笑った。
「そうそう簡単に足が速くなってたまるか」
「あると言ったらどうする?」
ギデオンは立ち上がり、イスラから距離を取る。再戦の合図ととったイスラは木刀を構え、ギデオンの攻撃に備えた。
「行くぞ」
その言葉を脳が認識した時には、ギデオンは彼の目の前に立っていた。
「なっ……!」
空間を飛び越えてきたかのような超高速の踏み込み……そこから派生する斬撃は、しかし、ギデオンがあえて手を抜いたためにイスラでも受け止められた。
だが、その重みは依然変わらない。イスラは弾き飛ばされるが、何とか倒れないよう姿勢を維持する。
しかし、その背後に現れたギデオンが、木剣の柄でイスラの頭を軽く叩いた。
「……何だ、今の」
「教えてやる」
ギデオンは木剣を置くように命じた。それに従ったイスラの肩を叩き、強張っていた力を抜くように言う。
「貴様は身体的には高い素養を持っているが、それを活かしきれていない。だから踏み込みや振り切りにも一拍の遅れが生じる。戦いによる緊張なのか、あるいは性格の問題かは分からんが、戦っている時は常に脱力を意識することだ」
「脱力? 力抜いてどうすんだよ」
「良いか、力とはある一点に唐突に生じるのではなく、むしろ発生した点から流れていくものだ。その流れを途切れさせないためには脱力が必要になる。鞭は縄を編んだだけの物だが、達人が使えば皮膚を抉り取ることも出来る。それを可能とするのは脱力……同じことは剣術にも言えるな。
ともかく、力を抜くこと。力まないこと。これを徹底すれば、貴様の走り方や振り方も、自然と異なるものになってくるはずだ」
「さっき、あんたがやったようなことも出来るようになるのか?」
「それは貴様次第だ。一朝一夕で身につく技ではない。戦うに際し、心を平静に保って、決して感情任せにならないこと。それが脱力に繋がり、ひいては先の技の体得に繋がる。本来なら付きっ切りで教えるべきだろうが……」
ギデオンは言葉を途切れさせた。宮殿の奥から走ってきた侍女が、ユディトが待っていると二人に告げる。鍛錬の時間は終わった。
「やはり守火手ともなると、剣術ばかりしているわけにはいかんな。ユディト様は貴様も呼んでおられる。着替えたら来るように」