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【第四十一節/百花宮の朝 下】

 行く先々でこれまでの旅の経緯を聞かれるのは面倒だが、今回はカナンの縁者が相手なので無碍には出来なかった。負い目もあるし、助けられた恩もある。話した程度でそれを返せるとは思わないが、イスラはなるべくまとまりをもって話そうとした。


 それでもイスラの話は今一つ要点を絞り切れていなかったが、ユディトとギデオンは皿が空になった後も辛抱強く彼の話に聞き入っていた。剣匠は鉄面皮を一切崩さなかったが、ユディトはカナンの動向を知るたびに感情を波立たせ、時には笑い、時には不安げな表情を浮かべた。


「あの子はまだ、エデンなどという場所にたどり着こうとしているのですか?」


「でなきゃ、俺はとっくにあいつから離れてるよ」


「……分かりません。カナンはともかく、貴方がどうしてエデンに行きたがっているのか……」


「別にエデンなんてどうでも良いさ。住みたいとも思わない。でも、カナンがそこに行くまでにどんな風に立ち回るのかは興味がある。……正直、俺もまだ、あいつのことを良く分かっちゃいないんだ。それを見極めたいって気持ちもあるのかもな」


 ユディトは「理解できない」とでも言いたげに小さく首を振った。カナンの理屈は理解出来ても、その情熱までは理解し切れない。ましてや妹の幻想に乗せられているわけでもないのに、個人的な興味だけで付き従っているこの闇渡りなど、ユディトの秤には重すぎる存在だ。


 ただ、そんな彼女を見ているイスラにしても、姉と妹の差異を意識せずにはいられなかった。


 煌びやかだが、常識と型にはまったユディト。泥にまみれることも厭わないくせに、理想だけは決して曲げようとしないカナン。同じ親を持ち、同じ顔を持っていながら、これほどまでに違いが生じるのは奇妙だと思った。


「……ただ、俺だってこの旅の間に何も考えなかったわけじゃない。俺は最初から一人きりだから良いけど、世の中には固まっていても迫害される連中だって大勢いる。そういう人間が逃げ込める場所が必要だって考えは、今なら理解出来るよ」


 あんたはそう思わないのか、とイスラは訊ねてみる。


 ユディトは困ったような表情を浮かべた。


「風読みの一件のことを言っているのですね……確かに由々しき事態だとは思います。でも、それなら新たな煌都などでなくとも、いくらでも共同体は構築出来ます。むしろ、既存の権力を用いた方が、難民や棄民の保護は容易になります」


「そう難しい言い方をされると困るんだけど。まあ、何となく分かるよ。あんたの言ってることの方がずっと賢いんだろうな。でも、あんたの言うそれだって、本当に実行出来ると思うのか?」


 痛いところを突くな、とユディトは思った。そして、カナンが守火手に選んだこの男が、学は無くとも決して暗愚ではないと結論付けた。


 イスラの言っていることは、つまり都市の為政者が本腰を入れて難民や棄民を救済するのかということだ。この数百年間、都市の人間はそれをしてこなかった。だからこそカナンはエデンを目指そうとしたのであり、単なる公約ではもはや改革など出来ないと見切りをつけたからである。


「……確かに、これまでの煌都の為政者たちが、貧しい人々の救済に意識を割いてこなかったのは事実です。


 でも、全部が全部そうだったわけではない。煌都の秩序を尊重しながら、その傘の中に一人でも多くの人間を集めようとした政治家たちは幾人もいます。


 そして、実際に成果を上げた救民政策はいくつもあります。私は姉として、一人の継火手として、妹はそうした先人の道を選ぶべきだったと思っています」


 それでも、ユディトはカナンの急進的な行動を認める気にはなれなかった。このあたり、自分でもやや感情的になってしまっていると自覚しているが、カナンに対するモヤモヤとした感情は簡単に晴れるものではない。


「そもそも、あの子は昔からずっと夢見勝ちな子でした。無いと言われても在ると信じて、挙句の果てには煌都を飛び出して楽園探しの旅に出てしまった……とんだ放蕩娘ですよ」


 ユディトは杯を置いて立ち上がった。もうしばらく妹の悪口を吐き出していたいが、この後は仕事が待っている。


「ともあれ、エルシャからここまで、あの子に付き合ってくれてありがとう。もうしばらく身体を休めながら、今後の予定を立ててください」


「ああ、悪いが厄介になる。どこかで借りを返させてもらうから、それまでは辛抱してくれ」


 では、と言い残してユディトは広間を出ていった。


 売り言葉に買い言葉で盾ついてしまった、とイスラは頭を掻いた。自分でもこれほど熱心にカナンのことを弁護したのは意外だった。


 案外、自分もエデンがどういう場所なのか見てみたいと思い始めているのかもしれない。


「貴様も案外、カナン様の思想に感化されているようだな」


 リンゴを切り分けながらギデオンが言う。鉄面皮は相変わらずだが、口調にはからかうような色が混ざっている。


「……俺が振り回されてるってか?」


「恥じることじゃない、カナン様はそういう御仁だ。自然と人を惹きつけ、動かす力がある。現に風読みの長が脱出を決意したのも、あの方が現れたからだろう?」


 ギデオンが切り分けたリンゴを齧る。パキリと瑞々しい音が響いた。


「そりゃあ、瘴土を抜けるのに継火手は不可欠だ。でも、何もあいつである必要は無い」


「だが、その状況で里人を助けようとする人間は、どの程度いると思う?」


「……」


「根がお人好しというのは、良く知っている。行倒れがいたら手を差し伸べずにはいられない方だ。そして、実際に助けられるだけの力も持っている」


「あんたはカナンのこと、どう思ってるんだ? どうも、あの姉ちゃんとは違う見方をしてるようだけど」


「……様々な可能性を持った人物だと思っている。この世界の構造に変革を促すかもしれないし、どこかで失敗して惨めな最期を遂げるかもしれない。師であった私としては、そう派手なことをせず穏やかに過ごしてほしいと思っていたが……あの気質から考えれば、無理だろうな」


 ギデオンは口元を布で拭うと立ち上がった。


「私としても、あの方にむざむざと死んで欲しくはない。あの方を守れるのは貴様だけだ」


「守火手ってのは、そういうもんだろ? 俺はあいつを守ると決めた、だから出来るだけのことはしてきたし、これからもしていくつもりだ」


「それが不十分だとしたらどうする」


「何だと?」


「正統な剣術を習わなかった人間では不安だと言っている……いつまでパンを齧っているつもりだ。ついて来い、エルシャの剣匠が直々に稽古をつけてやる」




◇◇◇




 略服から正式な祭司服に着替えたユディトは、ウルクの法官を待たせている応接間へ向かった。


 他の煌都から来る使節のために建てられた百花宮は、そのまま外交の舞台としても機能する。庭が多く造られている理由も、使節同士の親密さを演出したり、盗聴の可能性のある室内では出来ない話をするためだ。


 今回の派遣は、元々新しく継火手となったユディトを外部に披露することにある。同時に、使節としての仕事を果たしたという実績作りの側面もあった。他にも何人か候補はいたものの、結局彼女が選ばれたのは、大祭司エルアザルの働きに他ならない。


 もっとも、能力面においても、ユディトの代わりとなる人材はいなかった。


 元々、今回の派遣はエルシャが急激に勢力を伸ばすウルクに探りを入れるためのものだった。遺産の都として名高いウルクは、かねてより古代の遺物の宝庫として力を伸ばしてきた。現在では再現不可能な技術を駆使し、都市を強化することで、ウルクは主要な都市としての地位を維持し続けてきたのだ。


 ところが、この二十年ほど、ウルクの力はかつてないほど大きくなっている。遺産の発見情報は流れるが、市場には出回らない。たまに出てきた際は、都市と都市とがこぞって落札を目指し、ウルクは悠々と漁夫の利をせしめる。そんな状況は、他国人にとっては全く好ましくない。


 勢力拡大の秘密が奈辺にあるのか、そして蓄えた力で何をするつもりなのか、それを見極めなければならない。無論、強圧的な詰問などすれば、ウルクはその都市に対して二度と遺物を売ろうとはしないだろう。


 故に、今回は名目上「茶会」ということで人を集めている。自然な会話の中でヒントを見つけるか、あるいは喋るよう誘導するのか。いずれにせよ、決して楽な仕事ではない。


 それに、イスラの話を聞いた後では、当初以上に重要性が増していると考えざるを得ない。ユディトも感覚的には察知していた。この街は普通でなはく、尋常でないことが人知れず進行していると。


 それを見つけ出してエルシャに持ち帰るのが、彼女の仕事だ。


「……其は蛇の巣か、あるいは獅子の寝ぐらか……」


 そう呟き、ユディトは応接室の扉を開いた。

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