鳥の鳴き声が聞こえる。軽やかな音色に誘われて、イスラは微睡みの中から抜け出した。
「っ……」
真っ白な光が彼の目を焼いた。片手で瞼を押さえながら、ゆっくりと光に慣らしていく。背中に感じる布団の柔らかさは、まるで雲にでも乗っているかのようで、これまで彼が使ってきた自然の寝台とは比べものにならなかった。
ようやく目が慣れてくると、まず最初に見えたのは白い天井と黒い夜空だった。どうやら部屋というよりも東屋のような場所に居るらしく、半分は屋内、半分は野外となっている。空が見えたのはそのためだ。
重たい身を起こすと、小さな箱庭の傍に寝かされていたのだと分かった。噴水付きの泉があり、その傍には色とりどりの花が咲いた木が植わっている。
枕元には華奢な造りの水差しがあり、輪切りになった柑橘やハーブが浮かんでいる。すぐ近くにはザクロやブドウ、リンゴの盛られた籠が置かれていた。
イスラはザクロを手に取り、皮も剥かずにかぶりついた。焼けつくような飢えを訴える胃袋が彼の自制心を完全に沈黙させていた。実はほどよく熟していて、甘い果肉を噛み砕くたびに力が蘇ってくるようだった。
ブドウの房に手を伸ばしながら、もう片方の手で水差しを手に取り浴びるように飲んだ。カラカラに乾いていた喉に酸い水が染み込み、砂漠に降った雨のように彼の細胞を潤していく。
濡れた口元を乱暴に拭うと、自分が真っ白な寝間着のようなものを着ていることに気付いた。絹で出来ているのか、手触りはこれ以上無いほど滑らかで、ともすれば服を着ている感触さえ見失ってしまいそうだ。
この扱いを見る限り、どうやらそれほど危険な状況にいるわけではないらしい。
立ち上がろうとしたその時、東屋の扉が開き、平服姿のギデオンが入ってきた。
「良く眠れたか?」
「……ああ。お陰様で」
「不服そうだな」
ギデオンの言う通り、イスラは渋面を浮かべていた。負けん気の強い彼としては、一度完膚なきまでに叩きのめされた相手に助けられるのは、どうにも釈然としない。
「まあ、でも……助かった。礼を言う」
「礼ならユディト様に言うのだな。妹の守火手だからと言って、貴様を匿われたのだ。……本来なら鞭打ち十回に相当する非礼を働いているのだぞ。それを忘れるなよ」
「謝るさ、そりゃあ……」
さすがのイスラも、状況が状況とはいえあの仕打ちは酷かったと反省している。その上恩までかけられたとあっては、しばらく頭が上がりそうにない。
「ユディト様も貴様に会いたがっている。これまでの旅の経緯や、カナン様がどうしておられるか、朝食の席で聞きたいそうだ」
ギデオンは手に持っていた服を投げ渡した。麻製の質素な服だがざらざらとした質感は絹よりも馴染みがある。それに、果物だけでは到底腹を満たせないから、食事にありつけるのはありがたかった。パンや肉のためならいくらでも話を提供出来る。
さっさと着替えを済ませたイスラは、ギデオンとともに東屋を出た。東屋と本館をつなぐ通路の両側には庭が広がっており、草木の間には小規模な演劇のための広場が設けられている。通路の下を小川が流れていて、広場を囲む水路を常に水で満たしている。
右手の方を見ると、ウルクの大燈台の威容が目に入った。ウルクの燈台は小高い丘の上に建てられており、その丘の斜面に祭司――ウルク風の言い方ならば神官――や軍人たちの家が軒を連ねている。それらは規模の差こそあれ、必ず木々の植わった庭が設けられている。逆に、丘の下の庶民の家は穀倉地帯と一体化しており、各々の家の屋根では必ず野菜や穀物が育てられている。
イスラの歩いている場所からでも、煌都ウルクの街並みは十分見ることが出来た。こうして燈台の近くから都を見下ろすことなど、闇渡りの身分ではそうそう無いことだろう。
「あっちもこっちも庭ばかりだな」
「ウルクでは庭の大きさが権勢や地位を現している。もっとも、この百花宮ほどの屋敷はそうそう無いだろうな」
「買ったのか?」
「まさか。ウルクの行政府が所有している迎賓館だ。ユディト様はお気に召したようだが……」
庭ばかりの家を見て、ギデオンは小さく嘆息した。「気に入らないことでもあるのか?」イスラが訊くと、ギデオンは真顔のまま、
「昼寝向きの木陰が無くて、困っている」
「……昼寝?」
このいかにも生真面目そうな男から、予想外の言葉が出てきたせいで、イスラは間抜けにも聞き返してしまった。
「都市での楽しみといったら、剣のほかには昼寝と酒くらいしか思いつかなくてな。私もあまり器用ではないから、ユディト様のように音楽だとか詩だとか、多方面に趣味を持つことが出来んのだ。そうなると、わずかばかりの趣味にはとことんこだわりたくもなる」
この男、ひょっとすると結構抜けているのかもしれない。イスラはそう思い始めた。翻ってカナンのことを思い起こすと、彼女にも似たようにすっ呆けたところがある。知恵があり頭の回転も速いはずなのに、どこか間が抜けている……その特質は、案外この男から受け継がれたのかもしれない。
「どうした。私の顔に何かついているか?」
「いや、あんたがカナンの師匠ってこと、腑に落ちたよ」
「うん?」
ギデオンは肩をすくめ、両開きの扉を開いた。イスラは彼のあとに続いて広間に入った。
部屋の中心には大きな食卓が置かれ、数人の侍女が忙しそうに駆け回っている。彼らが入ってくると、侍女たちはギデオンに向かって礼をしたが、イスラには怯えた表情を見せた。
寝ている間に着替えさせてくれたのはここの侍女たちだろうが、お陰でずいぶん不愉快な思いをしたのではないか、とイスラは思った。もともと傷だらけではあったが、最近新たに出来たものも多い。生々しい傷跡など、都市に住まう娘には刺激が強かっただろう。
だから、イスラはなるべく彼女らとは視線を合わさずに席についた。それが双方にとって最も良い接し方だろうと思った。ギデオンも彼女らの恐怖には気付いていたが、何も言わずに反対側の席についた。
やがて、簡素な祭司服を着たユディトが入ってきた。
彼女はイスラの姿を認めると、胸元に片手を当てて小さく柳腰を折った。
「初めまして。私はエルシャの大祭司エルアザルの娘、継火手カナンの姉、名をユディトと言います。貴方が、妹の守火手ですね?」
「ああ、カナンの守火手をやらせてもらってる。闇渡りの子のイスラだ。……昨日はすまなかった」
ユディトは苦笑しながら手を振った。薬で朦朧としていたからだと、彼女も割り切っている。
席についたユディトは、イスラの金色の瞳を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「イスラ……打ち勝つ者、という意味の名前ですね」
「そうなのか?」
思わず聞き返してしまった。これまで、自分の名前の意味など考えたこともなかったので、他人からそれを告げられるのは不思議な気分だった。
「ええ。闇渡りの間では、今はもう都市では使われなくなった名詞が数多く生き残っていると聞いています。貴方の名前も、おそらくはそこから来たのでしょうね」
ユディトが鈴を鳴らすと、侍女たちが次々とパンや野菜、スープを運び込んできた。イスラが期待していたような肉料理は、さすがに朝早いこともあって無かったが、それでも焼きたてのパンは食欲を誘うには十分だった。
「食べながらで結構ですから、これまであったことを私たちに教えていただけませんか?」
「口下手だから、あんまり上手くしゃべれないけど、それでも良いか?」
「もちろん」
イスラは頬張っていたパンをスープで流し込んだ。パンとスープを見ていると、一番最初にエルシャでカナンと出会った時のことを思い出した。
「……最初は、あいつに飯に誘われたのが切っ掛けだった」