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【第四十節/夜の国の夜】

 案内されたペトラの家は、家というよりも戸のついた岩蔵といった方が近かった。樽の蓋を転用した戸を潜ると、釜や机といった生活道具がひとしきり置かれた部屋が現れた。


 一人暮らしだからか、それとも本人がずぼらなのか、机と言わず床と言わず、あらゆる生活道具が散乱している。


 そんななかでカナンの目を引いたのが、開いたまま放置された無数の魔術書だった。大半は土と同じ色の表紙で、題名は古代の文言で書かれている。


「『ゴーレムの生成と使役について』……」


「うちに代々伝わる魔術書さ。ま、中身はほとんど憶えたから、もう必要はないんなけどね。読みたきゃ読んでもいいよ」


 ポッドから茶を注ぎながらペトラが言った。


「ただし、何があったか聞いてからさね」


 机の上の物を乱暴に払い落とし、ペトラは二人に座るよう促す。カナンはそれに従ったが、トビアはふらふらと揺らめき、席についた瞬間に俯き倒れ伏した。


 カナンは慌てて彼を抱き起こすが、少年の口からは小さく寝息が漏れている。


「だいぶ疲れてるみたいだね」


「はい……風読みの里を出て……」


 カナンはハッとした。正確な時間は分からないが、里を飛び立ってからまだ丸一日も経っていないだろう。その間にいったいどれほどのことがあっただろう?


 魔の雲海の突破と六つ首の竜との闘い、ウルク軍の攻撃と風読みの全滅、挙げ句の果てに仮面の兵士たちに襲われ、抵抗勢力に助けられてウルクの地下にいる……。


「運命というのは……」


 彼女らしからぬ皮肉げな笑みが浮かんだ。そうやって斜に構えている自分も、心身両面でかなり消耗していると自覚していたが、今は皮肉の一つも言わなければ不安に押し潰されてしまいそうだ。


 そんなカナンの疲れを察してか、ペトラは「やっぱり明日にする?」と言った。だが、カナンは即座に「大丈夫です」と答えた。今横になれば、しばらく寝たままになってしまうだろう。だが、ペトラに状況を伝えておけば、寝ている間に今後の動き方を考えてくれるかもしれない。


 今の自分には情報が不足していて、それを聞き出し吟味する余裕も、ましてや戦略を立てる元気も無かった。


 たまには、他人に丸投げしたくなる時もある。


 カナンはなるべく整合性をつけながら、これまでに起こったことをペトラに伝えた。風読みのトビトに利用された件は伏せたが、感情の乱れが顔に出ることまでは、どうしても抑えられなかった。


 それを察しもペトラは何も言わず、風貌に似合わない落ち着きで何度もカナンの話に相槌を打った。


 話が現在に近付くにつれて、どうしてもイスラのことを思い出さずにはいられなかった。彼のことだから、自分がどんな状況に陥っても「心配するな」と言うだろう。だが、待つ方からすれば辛すぎる。


「……イスラのこと、何か分かりませんか?」


「あたしン所に情報が来てないってことは、誰も知らないんだろうね。明日になったら、地上の連絡員から何か情報が来るかもしれない。それまでは、まあ狭い家だけど、ゆっくり休んでよ」


「はい……」


 ペトラに促されて、カナンは穴蔵の奥へと通された。独房のような狭い空間だが、寝台や衣装箪笥、火酒の入った瓶と杯が置かれている。ただし、床には台所同様に本や紙の束、衣服や下着まで落ちていた。


「まいったな、寝床があたしの身体に合わせてるから……布団敷くから、悪いけど床で寝てくれる?」


「ええ、ありがとうございます」


 ペトラは床に散らばった服や下着を蹴飛ばし、空いた場所に寝台からおろした布団を敷いた。カナンは装備の入った袋から自前の毛布と着替えを取り出して、汚れた衣装を脱いだ。


 下着だけの姿になったカナンは、ペトラがしげしげと自分の身体を見ていることに気付いた。彼女の方を向いて少し首をかしげると、ペトラは慌てて「ごめんごめん!」と誤った。


「あんたみたいに綺麗な人って、見たこと無かったからさ。……へえ、案外胸もあるんだ」


「ど、どこ見てるんですか!?」


 カナンは両腕で胸を隠すが、ペトラは小さな部屋の中をくるくると回りながら、カナンの裸体をしげしげと眺めている。


「過酷な旅をしてきたってわりに、髪とか肌とか、綺麗だよねえ」


 挙句の果てに、むき出しになったカナンの背中をぺたぺたと触ってくる。岩堀族の小さな手に触れられると、その微妙にごつごつとした感触も相まって、くすぐったいような痛いような、奇妙な感覚に陥った。


「すべすべだあ」


「な、撫でないで、くすぐったいから……!」


 背中に張り付かれたカナンは、床に落ちていたペトラの服に足を取られ、布団の上に押し倒される。潰される形になった彼女は「ぐえっ」と声を出すが、相変わらずペトラはカナンの肌を撫でまわしている。


 それどころか、


「か、カナンさん!? ……カナンさん?」


 音と悲鳴を聞きつけて飛び起きてきたトビアが、床でもぞもぞと動くカナンとペトラを見て、顔に疑問符を浮かべる。本来ならカナンのあられもない姿に赤面して逃げ出すところだが、衣服や毛布の散らばった部屋の中で虫のように蠢いている彼女を見ると、色気とか艶とか、そういったものは全く感じられなかった。


「失礼しました」


「トビアさん!?」


 そっと扉を閉じたトビアは台所に戻ると、机にうつ伏せになって再び眠りについた。意識の閉じる直前、イスラなら一体どんな反応をしたのだろうか、と思った。




◇◇◇




 列柱の立ち並ぶ広間を一人の男が歩いている。柱にはそれぞれ松明がつけられ、この地下を照らす天火アトルと同じ、黒い焔を宿していた。天井は岩盤をそのまま転用しているため、針のような岩が無数に生え出ている。


 広間の奥には巨大な両開きの扉がある。両側には仮面をつけた兵士が二人、無言のまま微動だにせず立っている。彼が姿を見せると、兵士たちは即座に扉を開けた。


 仄暗い部屋の中には無数の彫像が林立している。いずれも金銀財宝を惜しみなく投じて作られたもので、そのうちのどれか一つだけであっても、一人の人間が身代を築くに足るだろう。不可思議な匂いの香が焚かれ、彫像の間を縫って男の鼻孔へと漂ってきた。


 継火手でもない男は、長いローブの裾で鼻を覆った。常人が長い間吸っていれば、精神に異常をきたし、恒常的に薬を欲するようになるだろう。


 彫像の間を抜けると祭壇が現れた。真紅の絨毯が敷かれ、今はもう忘れられた神や怪物の彫刻が金糸によって縫い込まれている。階段の両側には黒い花が咲き乱れていて、棘の生えた蔦をくねらせている。


 だがそれ以上に祭壇を飾り付けているのは、純白のトーガを着せられた美しい少年少女だ。各々が杯や盆を捧げ持っているが、何人かは煙にあてられてくずおれている。しかし、それを咎める者も、引き起こそうとする者もいない。



 そして、人と花と黄金の祭壇の上に、一人の女が君臨していた。



 闇のように黒い髪を波立たせ、日に焼けた黒い裸身に張り付かせている。片膝を立てて座っているが、それでも女が長身であることや、その手足の異様なまでの長さに気付くのは、難しくない。全身のあちこちに純金で出来た装身具を着けており、彼女がけだるげに煙管に手を伸ばすたびに、ジャラジャラと鈴のような音を立てた。


「ベイベル様。ネルグリッサル、御前に」


 ベイベルと呼ばれた女は、もったいぶるように煙を吸い込み、紫煙を僅かずつ漏らしながらネルグリッサルを見やった。そのおもては寒気がするほどに美しく、全ての部品が完全にあるべき場所へと収まっている。しかし、その美しい顔が異形めいた身体と合わさると、これ以上ないほど倒錯的で、悪魔的な印象を与えるのだった。


「珍しいの。に出ている貴様が余を訪ねてくるとは。何事かあったか?」


「は……夢見のトトゥが討たれました」


「いかにして」


「例の、風読みの残党を狩りに出向いたところで、逆に討ち取られたようです。相手が誰であったかまでは、まだ……」


「ふうん」


 ベイベルは無関心そうに煙管を回転させた。


「それは残念であった。この香はあやつにしか調合出来ん。これが吸えなくなるのは、ちと惜しいな」


 つまるところ、夢見のトトゥなど、ベイベルにとってはその程度の存在に過ぎないのだ。


 ベイベルは手元の呼び鈴を鳴らした。ほどなくして、柱の陰から酒瓶を抱えた従僕が駆けつけてくる。その顔にも銀色の仮面がはめられていた。


 ベイベルは無言で杯を差し出す。従僕は震える手で真紅の酒を注ぐが、その動きはいかにも不慣れだった。傍から見ていたネルグリッサルはいささか不審に思ったが、それだけだった。


「トトゥの冥福に……」


 ベイベルが杯の淵に唇をつける。喉元が動いた時、酒を持ってきた従僕が肩を硬直させたのを、ネルグリッサルは見逃さなかった。


 そして、無論ベイベルも。


「毒、か」


「……は?」


 従僕は頓狂な声を出して逃げようとするが、そんな浅はかな考えの通じる相手ではなかった。


 ベイベルは従僕を装った男が逃げるよりも早く、その長い腕で男をしっかと捕まえていた。


「余に恨みのある者か。ふふ、愚かな……余が毒では殺せぬことを知らなんだか」


 ベイベルは片手で男の首を締めあげ、もう片方の手で杯に残った酒を飲みほした。それでも彼女の顔色はいささかも変わらない。どころか、獲物を手中に捕らえた猛獣同様、その顔は喜悦で輝いている。


「何の新味も無い暗殺者よ。始末するのが唯一の楽しみだ」


 そう呟いた次の瞬間、暗殺者の全身は黒い炎によって覆われていた。猛火は一瞬で肌を焼き、肉を溶かしていく。炭化した首をベイベルがへし折るのに、さほどの時間を有さなかった。


 暗殺者は一言も言い残すことなく、完全にこの世から消滅してしまった。今やわずかな炭の山がその痕跡をとどめるが、ベイベルは足元に転がっている少女を蹴飛ばし、炭の小山を下敷きにしてしまった。


「つまらぬ。何か面白いことの起きる予兆かと思うたが」


「そう仰せにならないでください。抵抗勢力とやらが、今回の一件で活発になるのは目に見えております。連中が動き出すまで、しばしのご辛抱を」


「……そうか? 楽しみがあるというのなら、待つのもやぶさかでないの。もうよい、下がれ」


 ベイベルは煩わし気に片手を振り、また煙管に口をつけた。何事かが、トトゥの作った香や煙草が切れる前に起きてほしいと思いながら。

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