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【第三十八節/分離 下】

 おぼろげな視界の向こうにカナンの顔が見えた。赤い・・天火が逆光になっていて、顔の半分は影になっているが、その輪郭は見慣れたものと相違無い。何度も「大丈夫ですか?」と呼び掛ける声も、紛れもなくカナンのものだ。


 イスラは疲れ果てた腕を彼女に向けて伸ばした。カナンは慈しみに満ちた表情で彼を見下ろしている。


「疲れたでしょう、ゆっくりと休」


「ふんッ!」


 ゴッ。


 腹筋と背筋のバネを活用して、イスラは余力の全てを費やした頭突きを放った。カナンが「うぎゃっ!」と可愛くない悲鳴を上げる。



「このっ、馬鹿がっ、心配っ、するなとっ、言ったっ、だろうがああああ!!」



 ゴッ、ゴッ、ゴッ、ゴッ、ゴッ、ゴッ。


 全部で六連発の頭突きは、全弾が彼女の額に命中した。それでも怒りの収まらないイスラは頭突きを繰り返そうとするが、襟首を何者かに掴まれて引き離された。


「きゅうっ」と目を回して倒れたカナンに、数人の従者がバタバタと駆け寄る。


 従者? そんなのいたっけ? 頭突きの結果か、かえって意識のはっきりとしてきたイスラは、地面に大の字になって気絶している人物がカナンと良く似た別人であることに気付いた。ようやく。


「馬鹿め、貴様の目は節穴か」


 すぐ後ろから険しい声が聞こえてきた。振り返ったイスラは驚愕に目を見開く。まさか、こんな場所で再会するとは思わなかった。


「エルシャの、剣匠……」


「久しいな、闇渡り」


 銀色の髪と目、鍛え抜かれた長躯、圧倒的な剣気。忘れようはずもない。エルシャの剣匠ギデオンは、半ば呆れたような表情でイスラを見下ろしていた。


 ギデオンが手を放す。踵が地面についた瞬間、膝の裏から力が抜けて、イスラはその場にしゃがみ込んだ。だが、今は身体の疲労よりも気になることがある。


「じゃあこいつは……」


 カナンと思い込んで頭突きを叩き込んでいた相手を見てみる。冷静になってみると、色々と相違点がある。まず髪が長い。カナンよりも丁寧に手入れをしているためか、艶やかで非常に美しい。着ている衣装も伝統的な祭司服だが、白地に所々金色の刺繍が施されていて、一目で地位の高さを感じさせる。


 顔も、カナンとまるで異なっていた。


 確かに眉目の位置や輪郭は同じなのだが、受ける印象がまるで違う。丹念に化粧をしているためか、いつもどこかしら汚れているカナンに比べて遥かに華やかだ。


 もっとも、そんな美貌も、白目を剥いて倒れているので台無しになっていたが。


「カナン様の姉君、継火手のユディト様だ」


 たらり、と嫌な汗が背中を流れた。


 助けてもらってこの仕打ち。彼女が起きたら、ギデオンに命じて「首を刎ねよ!」と言い出すかもしれない。そうなった場合、ギデオンに勝てるだろうか?



 ――いや、そもそも助けられたって。誰が、誰から?



 気を失う直前の情景が、次々と蘇ってくる。風読みの全滅、不死隊との戦闘、麻薬使い……。


 そして、夢見のトトゥを道連れに、自分は湖へと飛び込んだのだ。


 幸い、腕に絡まっていた蔦のお陰で落下速度が殺され、着水時の衝撃が和らいだ。でなければ、到底岸までたどり着くことは出来なかっただろう。人間、死ぬ気になれば案外何でも出来るものだ。


 だが、そうなると気がかりは一つ。


「奴は……!」


 イスラは腰に手を伸ばすが、そこにあるべき伐剣は、今はもう湖の底だ。


「奴、とは?」


「俺らを襲ってきた奴だ。派手な服を着てて、麻薬を使う……」


 そう言って振り返った瞬間、ギデオンの背後、十ミトラほどの位置にある藪に殺気を覚えた。夜闇に慣れたイスラの目には、そこからわずかにのぞいた筒先が見えていた。その先端は確かに自分を狙っている。


 それが分かっていながら、動けない。


(避けられねえ!)


 確信したイスラはせめて腕で顔を守ろうとする。


 だが、吹き矢が彼に届くことはなかった。


 イスラのすぐ目の前で、針のような矢がピタリと静止している。


 ギデオンの手が、矢を完全に捉えていた。


「フッ……!」


 ギデオンは即座にそれを投げ返す。藪の奥から「ギャッ!」という悲鳴が上がり、禍々しい形状の刀剣を携えたトトゥが駆け出してくる。


「く、クソ……ク」


 トトゥが言い切らないうちに、その首は胴体から離れて宙を舞っていた。


 ギデオンがどう動いたのか、イスラでさえ捉えられなかった。トトゥが飛び出してきた瞬間、彼が腰の剣に手を掛け、ゆらりと一歩目を踏んだところまでは見えた。


 だが次の瞬間、ギデオンは一気に敵との距離を詰め、すれ違いざまに電光石火の抜刀術を放っていた。曲刀で無いにも関わらず、その加速は常人の目で捉えられるものではなかった。


 最早何も言えなくなったトトゥの頭部が、イスラのすぐ目の前に落ちてきた。その眼球には彼自身の放った矢が突き立っている。首を刎ねられた死体は、まるで頭を取り返そうとするかのようにニ、三歩ほど歩いたが、やがて切り株から血の噴水を上げつつ倒れ伏した。


 それらは全て、ほんの一瞬のことである。だが、その間にギデオンの見せた様々な絶技に、イスラは言葉を失った。


「成程、どうやら只事ではないようだな」


 血を払いつつギデオンが言った。


「我々はこれからウルクに向かう。そこで色々と聞かせてもらおう」


「……俺を、このまま連れて行くつもりか?」


「無論だ。聞きたいことは山ほどあるからな……だが、今は構わんから、寝ておくことだ」

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