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【第三十六節/英霊の大水門】

 暗い森の中を進むごとに、少しずつ背後の狂騒は遠のいていった。時折、木々の間に天火アトルの閃光が見えたりもしたが、どれも火花のように小さく、自分たちに向けられているものでないことは明らかだった。


 かといって、イスラもカナンも、決して胸中は穏やかではない。むしろ怒りや悔恨、焦燥感といった感情の方が強かった。


 仮に見つかったとして、自分たちだけなら無関係を装えるかもしれない。彼らは単に森の中を歩いていただけで、風読みたちとは何の関係も無いと言い張ることも出来ただろう。


 背中に、風読みの一族の、最後の生き残りを背負っていなければ。


 トビアは呆然としたままで、身体からは力が抜け切っている。埒が明かないので、イスラは彼を背負って走っているが、自分から掴まってくれないため、時々真後ろを走るカナンに押してもらわなければならなかった。


 無理もない、と思う。


 これまで平和な環境の中で、他人から愛されて育ってきた彼には、あの光景はあまりに受け入れがたいものだったのだ。イスラは内心、トビアの心が完全に粉砕されてしまったのではないかと疑ってさえいた。自分のように無神経ならともかく、彼は繊細すぎるし、それ以上に幼い。


 もっとも、そんな風に同情心を寄せていること自体、イスラの内面の変化を示すものだった。以前なら誰がどんな風に殺されようが、いささかも心に留めなかっただろう。「足手まといだ!」と怒鳴って、放り捨てていたかもしれない。


 ただ、今は、そんな内心の変化に意識を寄せているだけの余裕は無かった。彼は闇渡りとして、守火手として、道を切り開く義務があるのだから。


 そうした役割の無いカナンの方が、この場合は辛かったかもしれない。何しろ、ただイスラの後ろにくっついて走るだけでは、色々なことが浮かび上がってきて彼女を責め苛むのだ。



 何故見抜けなかった、何故助けられなかった、何故示せなかったのか、と。



 この無能者、とカナンは自らを罵った。そうして傷を抉る方がいくらか心地良かったが、卑劣な現実逃避とのそしりを免れられないだろう。


 人間は追い詰められたり、挫折するたびに自らの本性をさらけ出す生き物だ。カナンという少女の場合、あまりに責任感が強すぎて、自意識過剰になってしまうという欠点があった。


 この一件は、もとよりどうにもならなかった。里がティアマトに滅ぼされなくとも、いずれトビトはこの計画を実行に移しただろう。彼の願いは、最初からトビアを自由な世界に解き放つことだった。放り投げると言っても良い。そのためには、里という共同体や、長の一族という肩書は重荷以外の何物でもない。こうするよりほかに、それらを取っ払う方法も無い。


 カナンがその計画の材料として利用されたのは、運が悪かったとしか言いようがなかった。そして、そのことは彼女自身よく理解している。こんな事態を予見出来る人間がいれば、それは神か悪魔のいずれかだ。


 それでも、何かやりようがあったのではないかと思ってしまうのが、カナンの難儀なところだった。考えても仕方のないことを延々と考えてしまう。今さら考えたところで何かが変わるわけもなく、死んだ人間が蘇ることも無い。ただの精神的な自傷行為に過ぎないにも関わらず、カナンは、自分に何かが出来たはずだと思わずにはいられなかった。


 例えば、最初からトビアを外に連れていくと宣言して、イスラとともに瘴土を突破する、とか。


 どう考えても実現不可能ということは分かっている。だが、そんな埒も無いことを考えずにはいられなかった。


「おい!」


 だから、イスラが声をかけてくれたのは、良い契機になった。非生産的な思考活動が一旦途切れた。


「え、ええ……どうかしましたか?」


「……」


 立ち止まったイスラは、まじまじと彼女の顔を覗き込んでいる。周囲に明かりなどないため、顔色は全く分からないが、本人の醸し出す雰囲気から読み取れるものは案外多い。


「気にし過ぎるなよ」


 カナンは目を丸くした。彼の口から、こんな率直な励ましの言葉を聞かされるとは思っていなかった。


「あ、あはは……!」


「何笑ってるんだよ、こんな時に」


 イスラが呆れたような声で言う。それでも、カナンはしばらく能天気な笑い声を止められなかった。


「ごめんなさい、だって……」


 あなたがどんどん優しくなってるから、と言いかけたが、カナンは口をつぐんだ。ほとんど物怖じすることのない彼女でも、さすがにそんな言葉を吐くのは気恥ずかしかった。きっと、言われたらイスラも照れるだろう。


 旅を始めた最初のころから、イスラの優しさの片りんは、いろんなところで見え隠れしていた。些細なことであっても、彼のそういう面を見るたびに信頼は厚くなっていった。彼を守火手に選んで良かったと再確認した。


 ただ、今みたく気弱になっている時にこんな言葉をかけられると、いかにカナンといえど戸惑ってしまう。もちろん苦々しさや不快さとはかけ離れた、甘い困惑だ。


「……ううん、場違いだな、って思っちゃって」


「そりゃそうだ。修羅場の真っただ中なんだぜ?」


「ええ、そうですね。早く安全なところに逃げないと」


 おかげで気持ちが切り替えられた。カナンは両手で頬を叩くと、先行するイスラに続いて木々の間を走った。




◇◇◇




 しばらくすると、木々の丈が少しずつ低くなってきた。かわりに旧時代の遺跡と思しき、石造りの廃墟が視覚を占めるようになった。


 遺跡は時間の経過によって完全に風化しており、足場はヒビや雑草だらけ、天井は抜け落ち、壁には血管のように植物のつたが張っている。ふとカナンが顔を上げると、金色の月が光を降らせ、迷い込んだ三人を照らし出していた。


 数歩前を慎重に進んでいたイスラが、ぴたりと足を止めた。片手を上げて、指をクイクイと折り曲げる。


 イスラが立っている場所から先には、地面が無かった。真下には巨大な湖が広がっており、彼らの立っている廃墟から流れた水が、音を立てて降り注いでいる。水面は黒々としていて、一切の光を飲み込んでいる。高さは、およそ五○ミトラ(約50メートル)。


 廃墟は巨大な絶壁の上に建てられていた。壁の両端には、それに匹敵するほどの石像が建てられており、どちらも煌都ウルクの大燈台に視線を向けている。石壁にせよ像にせよ、あちこち植物によって浸食されているが、それでもかつての時代の栄華を偲ばせるだけの雄大さは、いまだ保ち続けていた。


「英霊の大水門……」


 カナンは呟いた。知識として知ってはいたが、実際に目の当たりにすると、その迫力は想像以上のものがあった。


 だが、所詮はただの廃墟だ。今となっては水門としての機能を果たしておらず、無制限に水を吐き出すだけのトンネルと化している。遺跡としては雄大であっても、遺産として重視されていないことは、内部の荒れようを見れば一目瞭然だった。


 ここなら、休息がとれるだろうか? カナンはふと考えた。いい加減に緊張を解きたかった。



 だが、そういう時ほど敵はやってくるものだ。



「カナン」


 イスラが声を掛けるのとほぼ同時に、カナンも襲撃者の存在を嗅ぎ付けていた。


 柱の裏。天井の影、石畳の裏……あちこちから気配を感じる。カナンは荷物をその場に落とし、細剣の柄に手をかけた。イスラは、地面におろしたトビアを守るような位置に立って、伐剣を構えている。


「一難去ってまた一難、か?」


「もう慣れましたよ」


「俺もだ」


 イスラがため息交じりに言うのと同時に、隠れていた影の群れが襲い掛かってきた。

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