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【第三十四節/魔空翔破 下】

 闇の中から急速に浮上してきたそれは、通常のティアマトに比べて格段に大きな胴体を持っていた。壮年の豚のように肥え太っていて、それを宙に浮かせている翼は帆船の帆よりも広い。全身、重油のように真っ黒だが、所々緑色の管が浮き出ている。胴体から下には二本の腕――人間のそれとよく似た――が生えていた。


 だが何よりも特徴的なのは、その巨体から伸びている六本の首だろう。それぞれが意思を持っているのか、自由に方々を向いては酸の弾丸を吐きかけてくる。口からは砕けた岩石のような、不揃いで不細工な歯がいくつものぞいていた。


 その首の一つが一羽のシムルグを捉えた。翼を噛み千切られたシムルグは、乗り手の悲鳴とともに雲の下へと落ちていった。


 最初の死者、そして圧倒的な恐怖を前に、それまで保たれていた陣形はあっさりと崩壊した。


「撃て、撃てェ!」


「カレブの敵じゃ、奴を狙え!」


 仲間を殺されたことに我を失った老人たちが、六つ首のティアマトを追いかけようとする。が、「危ない!」カナンからすれば良い迷惑だった。風読みたちが「智天使の輪」の軌道を突っ切ろうとしたばかりに、彼女は慌てて術を解除する羽目になった。


 そうなると、これまで近寄れなかったティアマトたちが一斉に襲い掛かってくる。


「くっ……我が蒼炎よ、ほむらの翼となり災厄をはらえ、飛べよ霊鳥! 翼天使の鳩アラエルズ・ダヴズ!」


 カナンの杖の先端から、蒼い炎で作られた鳥が次々と飛び出した。ともすると奇術のようであり、実際に攻撃用の技としては心もとないものだが、それでも無謀な追撃を食い止め、接近する夜魔を怯ませる程度の役には立った。


 その間にトビトは隊列の真上に移動し、あらんかぎりの声で警告する。


「全員、籠を中心に密集しろ! 散り散りになると、奴らの思うツボだぞ!」


「集まれーッ!!」


 トビトの指令をディボンが補完し、それでようやく追いかけていた者たちも落ち着きを取り戻す。


 だが、危機に瀕している事実は隠しようもない。六つ首の夜魔がいる以上、密集隊形など砂山のように簡単に崩されてしまうだろう。


 その六つ首の夜魔は大きく隊列の周囲を旋回し、再び攻撃を仕掛けようとしている。大柄な分、普通のティアマトよりもさらに小回りが利きにくいようだが、巨体はそれだけで武器になる。加えて、首が六つあるということは、砲門が六つあるのと同義なのだ。


 夜魔の六つの口が同時に開き、そこから一斉に酸の弾丸が吐き出される。「上下回避!」トビトが叫ぶ。「止めて!」カナンは呼び出していた豹天使を射線上に集結させるが、止められたのは四つまでだった。


 防ぎ損ねた二つのうち一発は、よたよたと回避行動をとっていた籠吊りのシムルグに直撃した。


 シムルグは悲鳴を上げることさえ出来ず四散する。同時に、吊り下げられていた籠が大きく傾き、担架に乗せられていた老人が掴まることも出来ず滑り落ちていった。


 阿鼻叫喚を極めた隊列に、六つ首のティアマトがその巨体を割り込ませてくる。直撃した者は一人もいなかったが、その通った後に巻き起こった暴風によって隊列は再び掻き乱された。先ほどシムルグを失った籠が、均衡を崩してその隣の籠にぶつかる。木製の壁板が砕け、ぼろぼろと家財が零れ落ちていく。


 災厄はまだ終わらない。「翼天使の鳩」に怯んでいたティアマトたちが一斉に襲い掛かってきた。


「皆、反撃じゃ! せめて雑魚だけでも足止めせんと、風読みの名折れじゃて!」


 ディボンの激励に里人たちは「応」と答え射返すが、その声からは最初ほどの威勢は感じられなかった。むべなるかな、とディボンもトビトも思っているほどなのだ。あんな空飛ぶ絶望そのもののような存在を見せつけられて、なお威勢を保っていられる人間は少ないだろう。



 だが、カナンは怯まなかった。



 とりあえず雑魚は放置し、カナンは六つ首にのみ狙いを定めた。「回れ炎の剣! 智天使の輪ケルディムズ・リープ!」制御に注力するため、戦輪の数は二つに減らした。そして、敵を左右から挟み込むような形で飛ばす。


 ティアマトは急上昇して回避しようとするが、無論、カナンは許さない。


「斬り裂け!」


 軌道を変えた戦輪が、夜魔の首のうち二つを刎ねる。


 大気さえ掻き乱すほどの禍々しい絶叫が暗黒の空に響き渡った。


「効いた……!」


 手応えを感じて、カナンは強く杖を握り締める。


「今だ、撃ちまくれ!」


 トビトの号令の下、四つ首になったティアマトに矢が浴びせかけられる。瞬く間に竜の身体は針山と化すが、見た目ほどの損傷でないのは、誰の目にも明らかだった。


「やはり天火でないと駄目か……カナン様!」


「分かっています! 我が蒼炎よ、咎人を阻」


 詠唱が中断させられる。四つ首のティアマトが吐き出した酸の弾丸が、二人の乗るシムルグをかすめていった。


 それも一発だけではない、二発、三発と、間をおかずに連射してくる。何ということはない、一つの頭が撃った後に次の頭が撃つということを繰り返しているだけだ。


 単純だが、それ故に厄介だった。トビトは回避に忙殺され、上下左右に揺れるシムルグの上では、カナンも満足に詠唱が出来ない。


 そして、二人の動きが封じられるということは、隊列が無防備になることと同義だった。


「行かせるか!」


 隊列に群がろうとするティアマトの前に、トビアとザバーニヤは立ち塞がった。


「空に踊る者たち、風の眷属よ! 契約に従い、刃となれ!」


 手の甲に刻まれた紋章が輝き、その上に緑色の旋風が巻き起こる。それがばらばらと解けたかと思うと、刃の形をとって一斉に襲いかかった。


 だが、彼の力では、夜魔を怯ませる程度の鎌鼬かまいたちしか作れない。ティアマトにしてみれば、せいぜい猫か何かに引っ掻かれた程度にしか感じない。


 風の刃など意に介さず、一頭のティアマトが防衛網を突破した。


「しまった!」


 ティアマトは口を開き、唯一無傷な籠を運んでいるシムルグに噛みつこうとする。


「往生しろ!」


 だが、その大口を縫い付けるかのように、シムルグの上から飛び降りたイスラが伐剣を突き立てた。


「い、イスラさん!?」


 いつの間に籠から出ていたのか、シムルグの上に陣取っていたのか、加えて高度二千ミトラス以上の空で飛び降りる気になったのか、色々と突っ込みたいことはあったが、ともかくイスラの蛮勇はティアマトの攻撃を防いだ。


 伐剣の切っ先はティアマトの頭蓋を貫通し、舌と下顎をまとめて貫いている。だが、当のイスラはティアマトの首に振り回されて、片手で何とか剣の柄を握り締めているような状態だ。


「って、頭って夜魔の弱点なんじゃ……」


 トビアがそう思った瞬間、ティアマトの身体が灰と化し霧散する。



 当然、イスラは宙に投げ出された。



「わ、わああっ!?」


 慌てふためきながら、トビアはザバーニヤを急降下させる。


 イスラは、バタバタとはためく外套に包まれながら、憮然とした表情で墜落していた。


「イスラさん、手!」


「悪い!」


 相対速度を調整し、ザバーニヤの上からイスラに向かって手を差し出す。

 イスラはその手を掴み、トビアが落ちそうになるほどの力で鞍の上に乗り込んだ。


「しくじった。首あたりに当てておけば、落ちなかっただろうな……」


 そういう問題ではないだろう、と言いたかったが、最早イスラが何をしでかしても驚かない自信がトビアには出来ていた。


「ちょうど良い、足が欲しかったんだ」


「どこに行くつもりですか!?」


 イスラは剣の切っ先で上空を指した。そこでは、トビトのシムルグと四つ首のティアマトとが激戦を繰り広げている。上位法術を使えないカナンは、仕方なく詠唱の短い小技で反撃しているが、それでさえまるで蛍火のように宙を舞っている。


 イスラは舌打ちした。


「あんな風にチマチマやってたら、こっちが消耗するだけだ。おい、あそこまで連れて行ってくれ」


「あ、あんなところに……!」


 トビアは手綱を握る力を強めた。カナンが攻撃するたびに、ティアマトも応射を繰り返す。火球と酸の弾丸が衝突し、飛び散った蒼い火の粉がパラパラと降りかかってきた。


 だが、これを延々と繰り返しているわけにはいかない。今は余裕を残しているとはいえ、カナンはいずれ限界を迎える。この一体を倒すことにかかずらっていたら、ウルクにたどり着くことも出来なくなってしまう。


「……分かりました、行きます!」


「ああ、頼む」


 ザバーニヤの首を上空に向けさせる。彼のシムルグは大きく羽ばたき、猛然と空中の戦場を目指して上昇していく。


 その動きに気付いたティアマトたちが、八方から襲い掛かってきた。酸の弾丸がかすめていくたびに、心臓が縮み上がるようだった。回避出来ているのは、トビアの腕前というより、ザバーニヤの反応のおかげだ。


 イスラには、トビアの恐怖が手に取るように分かった。それでもなお責務を果たそうとするトビアを見て、律儀な奴だな、と思った。


「おい、トビア」


「何ですか!?」


「闇渡りの格言を一つ教えてやる」


 こんな時に何を言い出すのかと、思わず振り返ってしまった。イスラは真顔だった。


「……難題に対してはイノシ……いや、象だな。象のように泰然とし、獅子……よりも虎か。そう、虎のように果敢であれ、だ」


「……」


 手探りで言うような格言に、今ひとつ説得力を見出せなかったが、ともかくイスラが発破をかけてくれているのは分かった。




 ――本当に、不思議な人だな。




 トビアの偽らざる本音だった。


 今となっては怖いとは思わない。だが、単純に親しみを感じるかというとそうでもない。


 イスラは、いつもどこか自分と異なる場所に立っていて、自分の知らない言葉や考えを突きつけてくる。


 きっと人によっては、それはとても恐ろしいことと感じられるのかもしれない。だが、トビアはもう恐ろしさを感じてはいなかった。イスラという他者の存在を受け入れつつあった。


 四つ首のティアマトの巨体が、すぐ目の前に迫っている。「このまま突っ切れ!」「はい!」掴みかかってくる手を避けながら、トビアは垂直にザバーニヤを上昇させる。


「カナン、寄越せ!」


 イスラとカナンには、その一言だけで十分だった。


 すれ違いざま、剣と杖が触れ合い、闇を晴らすような清廉な音が響き渡る。


「よし」


 イスラは、手を離した。視界がぐるぐると回転する。


「天火が、俺の思い通りになるのなら……」


 四本の首が口を開く。岩石のような歯が、彼を噛み砕こうと待ち構えている。


 だがイスラは、迫ってくる鼻面を蹴りつけて、夜魔の背中側に躍り出た。


 伐剣を脇構えに構え、強く念じる。




 ――燃えろ、燃えろ、何よりも強く!




「伸びろッ!!」




 その意志に応え、天火は巨大な剣と化す。右半身を炎に覆われたイスラは、渾身の力でそれを振り切った。


 蒼い炎の剣はティアマトの首を残らず斬り飛ばし、群がる雑魚さえまとめて焼き払った。


「今だ、全速で進め!」


 トビトが言うまでもなく、空中に出来た間隙をシムルグたちが駆け抜けていく。


 落下しながら、脱出が成功したことに安堵したイスラは、小さくため息をついた。この後のことは心配していなかった。


 落ちていく彼を追いかけてきたトビアが、さっきと同じように手を伸ばす。「出迎えご苦労」と、イスラはその手を掴んだ。

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