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【第三十四節/魔空翔破 中】

 シムルグが地面から飛び立った瞬間、イスラは「おおっ!?」と間抜けな声を出してしまった。


 普段から飛んだり跳ねたりしている彼だが、空に舞い上がる際の衝撃は予想以上に強かった。内臓がグンと押さえつけられたかと思うと、次の瞬間にはふわりと浮かんだような感じがした。


「気持ち悪っ!」


 イスラは籠から身を乗り出した。風に当たらなければ吐いてしまいそうだ。


「ひっひっ、初めての子に籠乗りは厳しかったかねえ」


「慣れるまでの辛抱だよ」


 同じ籠に乗り込んだ老婆たちは、ケタケタと笑いながら弩に矢を込めている。その逞しさに呆れ半分、尊敬半分の気持ちを抱きながら、こんなことなら陸路を行くのだったと後悔した。


 籠は四羽の雌のシムルグに括られ宙吊りになっている。非戦闘員は三つの籠にそれぞれ五人ずつ乗せて、その周囲を囲むような形で若いシムルグによる直掩を形成。何かあっても守れるように展開している。


 カナンはトビトと相乗りしており、編隊の先頭で天火を輝かせている。本当なら護衛につきたいところだが、あいにくシムルグは二人乗りで、接近戦しか取り柄の無いイスラは完全に足手まといだった。


「ほれほれ、落ち着いたらお前さんも手伝いな。弩を巻き上げるのは、結構な力仕事なんだよ!」


「分かってるっての……ったく、せっかく伐剣作ったのにな……」


 ぼやきたくもなるというものだ。




◇◇◇




 イスラはひどい体たらくだが、カナンは違っていた。彼とは反対に、シムルグの羽ばたきや風の冷たさを存分に楽しんでいた。


 ここ数日トビトに相乗りさせてもらっていたが、高高度を高速で飛ぶのは初めてだった。その爽快感ときたら、天火アトルの過剰保持で感じている疲労感さえ吹き飛ばすほどだ。


 満天の星が空に輝き、対する地上は墨で満たされた皿のように黒々としている。アラルトの青い山々は、黒い海に浮かんだ岩礁のようだ。


 月の光を浴びたシムルグたちは、翼を金色に輝かせている。彼らが猛禽の王と呼ばれる理由は、何もその体躯や気性だけではないのだ。


「いかがです、壮観なものでしょう!!」


「はいっ!!」


 風音に負けないよう二人は怒鳴りあった。轟々と吹き付ける風は冷たく、防寒具を着けていなかったら、身体の末端などあっという間に凍傷になってしまうだろう。


 そんな強風でさえ、シムルグたちはまるで意に介しておらず、きっちりと間隔を保って飛行している。


「貴女には感謝しています! 貴方がたが来なかったら、私もこんな提案はしなかったでしょう!」


「そう言ってもらえると嬉しいです! ウルクに着いたらどうするんですか!?」


「何も考えていません!!」


 それで良いのか、とカナンは思ったが、こうする以外に道は無かったのだから仕方がない。実際、自分がトビトと同じ立場なら、この道を選んだことだろう。


 トビトも里人も犠牲を覚悟している。カナンも、ティアマトの襲撃を完全に防ぎきれるとは思っていない。それでも、自分の力で、犠牲を抑えることくらいは出来るはずだ。継火手の力はこういう時のためにあるのだとカナンは確信している。


「見えてきました!」


 トビトが指さす方を見ると、夜空の一部に黒い煙のようなものが漂っていた。だが雲のように流されることもなく、わずかに形を変えながら同じ場所に停滞している。両端が見えないほど広く、明々と輝く月光ですらその内側を照らすことはかなわない。カナンは強く杖を握りしめた。


「頼みます!」


「はい!」


 杖の先端を天に向けて掲げ、花火のように青い光球を打ち上げる。それを合図にシムルグに乗った風読みたちが陣形を変化させる。籠を中心として、その周囲に菱形に展開。先頭はトビトとカナンが勤め、後方は人の乗っていない身軽なシムルグたちに守らせる。ザバーニヤに乗ったトビアは右翼についていた。


「突入!!」


 集団は一斉に黒い雲のなかへと飛び込んだ。まるで粉塵の中を進んでいるようで、カナンの打ち上げる光球がなければあっという間に遭難者が続出したことだろう。


 山よりも高い場所を飛んでいるというのに、肌には生暖かさを感じる。独特な臭気も瘴土に特有のものだ。ここは紛れもなく敵地なのだと、誰もが思わずにはいられなかった。


 そして、耳をつんざくような咆哮が響き渡る。カナンが音の聞こえた方を見ると、いつの間にか、雲の幕の向こうに無数の影が泳いでいた。


 ふと、何がティアマト達を呼び寄せているのだろうか、と思った。彼らも夜魔の一種である以上、イスラの言う「人間の負の感情」に引き寄せられているはずだ。


 あるいは小さな子供が幽霊に怯えるように、意思や理性の及ばない範囲で抱いている根源的な恐怖がこの怪物たちを呼び寄せているのかもしれない。カナン自身も、イスラも、トビトも、夜魔に対する生理的な恐怖感には抗えない。


 何十という数のティアマトが隊列を取り囲み、牙を見せびらかすように咆哮を上げる。すでに酸の弾丸を装填し終えている個体もいた。


「でも……!」


 夜魔と正面を切って戦うのが、継火手たる自分の役目だ。


 そして何より、今の自分は最大限にまで天火を溜め込んでいる。


「今日の私は、一味違いますよ!」


 カナンの杖の先端から炎が燃え上がり、空中に巨大な魔法陣を描き出す。不可思議な文字と図形を組み合わせたそれは高速で回転を始め、外延部から五つの輪が浮かび上がる。


「我が蒼炎よ、車輪をかたどり咎人の行く手を阻め、回れ炎の剣! 智天使の輪ケルディムズ・リープ!」


 詠唱の完了とともに、炎の輪がトビトのシムルグを守るように展開する。カナンの「行け!」という命令に応じ、まるで鎖を外された獅子のように、猛然とティアマトたちへと襲い掛かった。


 回る炎の剣はティアマトたちの首や翼を切り落とし次々と灰に変えていく。しかし無軌道なわけではなく、カナンは隊列を球状に包むような形で操っていた。


 以前にアラルト山脈で使った時は、様々な要因が重なって冷静な操作が出来なかった。今でも五つを同時に精密操作することは出来ない。なので、あらかじめそれぞれの通る軌道を思い浮かべておくことで操作を簡略化していた。


 精神的に余裕があるということもあるが、それ以上に天火を出し惜しみしなくても良いという安心感がある。というよりも、さっさと消費しなければ疲労はいやますばかりだ。


 一人の継火手が保持出来る天火の総量は、個人によって異なるが、いずれにせよ限界が存在する。


 カナンは他の継火手に比べて格段に高い資質を持っているが、それでも一つの里を支えていた天火を吸収したとなると、疲労感や発熱が圧し掛かってくる。


 この数日間、我慢して溜め込んでいた分、手加減しなくて良い相手に容赦無く上位法術を連射出来るのは爽快だった。


「我が蒼炎よ、愚者を引き裂く爪となれ、馳せよ神獣! 豹天使の爪カマエルズ・ネイル!」


 続いて繰り出した法術は、「智天使の輪」よりもさらに苛烈な技だった。


 カナンの前方に四つの光球が一列に現れ、それが弾けたかと思うと、豹の形をした蒼炎が一斉に宙を走った。


 炎の豹は手あたり次第にティアマトに食らいつき、あるいは引き裂いていく。「智天使の輪」と異なるのは、四頭の豹がそれぞれ自我を備えている点だ。継火手の敵を屠ることしか考えられず、様々な法術の中で最も加減の利かない技だが、この際はとても頼りになる。


 近寄ろうとする夜魔は炎の輪に切り裂かれ、遠巻きに攻撃しようとする個体は爪と牙の餌食になった。


 まるで蚊トンボのように叩き落されていくティアマトに、トビトも里人たちも皆唖然となっていた。


「凄まじいな、継火手の力というのは……」


 トビトの呟きは誰にも聞こえなかったが、誰もが共有する感想だった。


 もちろん、彼らもカナンに任せきりにしていたわけではない。防空網をすり抜けようとするティアマトに対して牽制射撃を加え、酸の球を撃ってくる個体に対しては、積極的に囮として立ちふさがった。


 シムルグたちも果敢に戦い、爪や嘴でティアマトの赤い目玉を抉り抜く。ティアマトは長い首をめぐらせて噛みつこうとするが、空中の機動性においてはシムルグの方が遥かに上だった。


「行けるんじゃないのか……!?」


 ザバーニヤの鞍の上でトビアは、矢をつがえながら呟いた。


 カナンの法術とシムルグたちの献身が合わさり、今のところ人間は一人も墜とされていない。


 あるいは誰一人欠けないまま、ウルクにたどり着けるのでは……少なからぬ人間がそう思い始めていた。


 だが、瘴土の闇は楽観論者にこそ牙を向く。


 そのことを誰よりも理解しているイスラは、弩に装填しながらも、背中に悪寒が駆け上るのを感じた。


 即座に矢を投げ捨て、左側のシムルグに繋がれたロープを全力で引っ張った。鳥は姿勢を崩し、籠が大きく揺れる。「何すんだい!」と老婆が怒鳴るが、それどころではなかった。直後、先ほどまでシムルグが飛んでいた位置を、巨大な酸の弾丸が通り過ぎていった。


「下からだ!」


 イスラは叫んだ。


 そして、籠から身を乗り出すと同時に、眼下から一際巨大な、六つ首の竜が姿を現した。

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