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【第三十二節/破られた平穏】

 上空から降り注いだそれが、夜魔の咆哮だと気付くのに時間は掛からなかった。


 里の小さな天火アトルが照らす範囲内に黒い影がいくつも踊っている。竜の夜魔たちは旋回しながら、逃げ惑う人間たちを嘲笑っているかのようだ。


「ティアマト……!? なんでこんな所まで!」


「うだうだ言ってる場合かよ、来るぞ!」


 夜魔の一体が二人に狙いを定め、急降下してきた。二人は転がるように回避する。


 イスラは即座に飛び起きて反撃しようとするが、すでに夜魔は上昇を終えた後だった。


「クソっ、せめて足場があれば……!」


 イスラは手元に視線を落とす。いくら天火をまとった剣があっても、届かないのでは意味が無い。


「待ってください!」


 トビアは首に下げていた小さな笛を取り出し吹いた。シムルグの鳴き声に似たそれが、夜魔の咆哮を貫き響き渡る。里の方からも、同じ音がいくつも聞こえてきた。


 だが、シムルグを呼び寄せたとしても、彼らが到着するまで持ちこたえなければならない。そのためにも、こんな見晴らしの良い場所で戦うわけにはいかなかった。


「里の方まで走るぞ!」


「はい!」


 再び急降下してきた夜魔の爪を避けながら、二人は全速力で駆け出した。


 背後から黒い翼が迫ってくる。かき乱された空気に押されるようにして二人は走るが、夜魔がゴボゴボと水音を発した時は、さすがに振り返ってしまった。


 ティアマトの長い首に、緑色の血管のようなものが浮き出ている。扁平な頭部は風船のように膨らんでいた。


「チィっ!」


 本能的に危険を感じたイスラは、横を並走するトビアに体当たりして、もろとも地面を転がった。直後、彼らのいた地点に、夜魔の吐き出した液状の物体が降り注いだ。緑色の泥のようなそれは地面を抉り、石を溶かした。「あんな手もあるのか!」イスラはひそかに戦慄した。上をとられた状態であれを連射されたら、なす術も無く殺される。


 だが、幸いにも連射はきかないようだった。二人はその隙に里の敷地内に飛び込んだ。


 里の中は騒然としていたが、混乱からは立ち直りつつあった。それどころか、老人たちは弓や弩に矢をつがえて反撃に転じている。


「空に踊る者たち、風の眷属よ! 契約に従い、道を拓け!」


 呪文とともに旋風が矢を包み、放たれたそれを更に加速させる。飛行しているティアマトは確かに速いが、敏捷というわけではない。未来位置を予測すれば、図体も相まって簡単に矢を当てることが出来る。


 だが、それはほとんど意味をなさなかった。すでに十本も矢を食らった個体もいるが、それでさえ平然と飛びながら酸の泥を吐きかけてくる。二人は近くの家に転がり込んだ。


 なかには、二人以外にも逃げ込んだ老人たちがいた。


「おお、ぼん! 無事じゃったか!」


「ディボン爺さんこそ、良かった……僕にも弓を!」


「そこに放ってあるわい」


「ありがとう!」


 トビアは矢筒を背負い、弓の弦を軽く弾いた。イスラはその肩をつかむ。


「やめておけ、お前は隠れてろ。爺さんたちもだ」


「イスラさん!?」


「あいつら、里の中にまでは降りてこねえよ。ずっと高い場所からヘドを吐くだけだ。そんなのに当たって死んだらつまらねえだろ」


 二人を追いかけていた夜魔も、天火に近づいた途端高度を上げた。やはり小さいとはいえ天火は天火、夜魔にとっては脅威なのだ。


 このままカナンやシムルグが到着するのを待ったほうが良い。どの道、今の装備では手も足も出ないのだ。


 だが、トビアは首を横に振った。


「ここは僕の故郷です。好き勝手にされるのを、黙って見てるわけにはいきません!」


「死んだら何にもならねえだろ!」


「でも……!」


 トビアはイスラの手を振り払い、外に向かって駆け出した。「馬鹿野郎!」イスラの手の中で、カナンの天火が燃え上がった。


「若いの、すまんが……」


「分かってる! せめて爺さんたちは大人しくしといてくれ!」


 外に飛び出した瞬間、目の前に緑色の泥が降ってきた。とっさに外套で身体をおおったが、布はあっさりと穴だらけになってしまった。


 ティアマトの吐き出す酸の泥は、里のあちこちに無差別に降り注いでいる。屋根が抜け、家畜を焼き、石垣を崩す。常に何かが倒される音が響いてくる。一方的な蹂躙だった。


「クソ、一方的にやりたい放題されるってのは、腹立つな!」


 毒づいたところで状況が良くなるわけでもないが、カナンが居ないことが恨めしかった。彼女の法術さえあれば、ティアマトの跳梁を許すこともなかっただろう。


 手元にあるのは、彼女から分けてもらったわずかな天火のみ。ティアマトを地上に引きずりおろせたとして、せいぜい一体か二体倒すのが関の山だ。


 だから、せめてトビアは守りきらなければならない。それさえ達成出来れば良いとイスラは考えた。


「トビア…………あいつ!」


 そのトビアは、集会所の屋根に登って弓を引いていた。天火に最も近い場所なので直接攻撃はされないが、安全とはとても言えない。


「無茶するな! 降りろ!」


「嫌です!」


「言うこと聞け!」


「あんな奴ら、全部落としてやるんだ!」


 イスラは頭を掻きむしりたくなった。はたから見れば線の細い少年だが、内面は意外と頑固なのだと、この時初めて気づいた。


 ただ、その頑固さが良い方向にばかり働くとは限らない。


 ティアマトの放った酸の泥が、トビアのすぐ近くに着弾した。それは屋根を溶かし、その下にあった梁までも浸食する。


 もし、屋根の上に飛び乗ったイスラが腕をつかんでいなければ、トビアは足場ごと階下に落ちていたことだろう。


「イスラさ……」


 イスラは彼の頭に拳骨を振り下ろした。ゴツンと鈍い音が響き、トビアはその場にうずくまった。意外と石頭で、イスラはぷらぷらと手を振る。


「……何で、そうまでして戦いたがる。今は手も足も出ねえって、お前も分かるだろ」


 イスラには、何がトビアをここまで駆り立てているのか理解出来なかった。カッと頭に血が上る性質とも思えないし、はたから見れば怒りよりも焦りを強く感じる。そもそも、消極的な面の方が強い少年なのだ。


 そんな彼を、一体何がここまで駆り立てているのか、イスラには分からない。


「戦わないわけにはいきません。これ以上メチャクチャにされたら、僕たちの居場所が無くなってしまいます」


「……居場所がそんなに大事か? 死んだらそんな心配も出来ねえだろ」


 イスラには理解出来ないが、トビアもまた、イスラがどうしてそんなことを言えるのか分からなかった。だが、すぐに彼から聞かされた話を思い出した。


 イスラは場所に縛られずに生きてきた人間だ。自分とは違う立場に立って物事を見ている。


 酸の泥が降り注ぐ状況下であるにも関わらず、トビアはある種の悟りのようなものを覚えていた。異邦人、余所者という言葉に込められた意味が、理解出来た。


 それは見た目の問題などではなく、何に価値をおいているかということなのだ。ある者にとっては宝物でも、別の価値観を持つ者にとってはガラクタということがある。その感じ方、考え方の差異こそが、相互理解を難しくするものの正体なのだ。


 だからといって、トビアはイスラのことを拒絶したくはなかった。「あなたが理解出来ない」と突っぱねるには、あまりに多くのことを知り過ぎた。何故彼が居場所を大切だと思えないのか、居場所にこだわる理由を理解してもらえないのか、ということを理解している。


「でも……それでも、僕にとっては大切なものなんだ! 諦めたくないんですよ!」


「……だとしても」


 論争はそこで途切れた。


 一頭の夜魔が家屋の屋根をかすめながら向かってくる。喉には緑の管が浮かび上がっていた。


「クソッたれ!」


 毒づきながらイスラは剣を逆手に持ち替え、全力で投擲した。力任せに飛ばされた刀身は、蒼炎をまとったままティアマトの頭に深々と突き刺さる。


 だが、その攻撃が夜魔の照準をずらした。灰になる寸前に吐き出された泥は、集会所の上に建てられた小さな燈台に張り付いた。


 ヤバい、と二人が思った時には、すでに燈台は崩れ始めている。天火を戴いたまま。


 叫んだのは、トビアだっただろうか。もちろんそんなもので物理法則を変えられるわけもなく、燈台はあえなく倒壊した。頂上に置かれていた天火は四散し、里を闇が覆った。

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