上空から降り注いだそれが、夜魔の咆哮だと気付くのに時間は掛からなかった。
里の小さな
「ティアマト……!? なんでこんな所まで!」
「うだうだ言ってる場合かよ、来るぞ!」
夜魔の一体が二人に狙いを定め、急降下してきた。二人は転がるように回避する。
イスラは即座に飛び起きて反撃しようとするが、すでに夜魔は上昇を終えた後だった。
「クソっ、せめて足場があれば……!」
イスラは手元に視線を落とす。いくら天火をまとった剣があっても、届かないのでは意味が無い。
「待ってください!」
トビアは首に下げていた小さな笛を取り出し吹いた。シムルグの鳴き声に似たそれが、夜魔の咆哮を貫き響き渡る。里の方からも、同じ音がいくつも聞こえてきた。
だが、シムルグを呼び寄せたとしても、彼らが到着するまで持ちこたえなければならない。そのためにも、こんな見晴らしの良い場所で戦うわけにはいかなかった。
「里の方まで走るぞ!」
「はい!」
再び急降下してきた夜魔の爪を避けながら、二人は全速力で駆け出した。
背後から黒い翼が迫ってくる。かき乱された空気に押されるようにして二人は走るが、夜魔がゴボゴボと水音を発した時は、さすがに振り返ってしまった。
ティアマトの長い首に、緑色の血管のようなものが浮き出ている。扁平な頭部は風船のように膨らんでいた。
「チィっ!」
本能的に危険を感じたイスラは、横を並走するトビアに体当たりして、もろとも地面を転がった。直後、彼らのいた地点に、夜魔の吐き出した液状の物体が降り注いだ。緑色の泥のようなそれは地面を抉り、石を溶かした。「あんな手もあるのか!」イスラはひそかに戦慄した。上をとられた状態であれを連射されたら、なす術も無く殺される。
だが、幸いにも連射はきかないようだった。二人はその隙に里の敷地内に飛び込んだ。
里の中は騒然としていたが、混乱からは立ち直りつつあった。それどころか、老人たちは弓や弩に矢をつがえて反撃に転じている。
「空に踊る者たち、風の眷属よ! 契約に従い、道を拓け!」
呪文とともに旋風が矢を包み、放たれたそれを更に加速させる。飛行しているティアマトは確かに速いが、敏捷というわけではない。未来位置を予測すれば、図体も相まって簡単に矢を当てることが出来る。
だが、それはほとんど意味をなさなかった。すでに十本も矢を食らった個体もいるが、それでさえ平然と飛びながら酸の泥を吐きかけてくる。二人は近くの家に転がり込んだ。
なかには、二人以外にも逃げ込んだ老人たちがいた。
「おお、
「ディボン爺さんこそ、良かった……僕にも弓を!」
「そこに放ってあるわい」
「ありがとう!」
トビアは矢筒を背負い、弓の弦を軽く弾いた。イスラはその肩をつかむ。
「やめておけ、お前は隠れてろ。爺さんたちもだ」
「イスラさん!?」
「あいつら、里の中にまでは降りてこねえよ。ずっと高い場所からヘドを吐くだけだ。そんなのに当たって死んだらつまらねえだろ」
二人を追いかけていた夜魔も、天火に近づいた途端高度を上げた。やはり小さいとはいえ天火は天火、夜魔にとっては脅威なのだ。
このままカナンやシムルグが到着するのを待ったほうが良い。どの道、今の装備では手も足も出ないのだ。
だが、トビアは首を横に振った。
「ここは僕の故郷です。好き勝手にされるのを、黙って見てるわけにはいきません!」
「死んだら何にもならねえだろ!」
「でも……!」
トビアはイスラの手を振り払い、外に向かって駆け出した。「馬鹿野郎!」イスラの手の中で、カナンの天火が燃え上がった。
「若いの、すまんが……」
「分かってる! せめて爺さんたちは大人しくしといてくれ!」
外に飛び出した瞬間、目の前に緑色の泥が降ってきた。とっさに外套で身体をおおったが、布はあっさりと穴だらけになってしまった。
ティアマトの吐き出す酸の泥は、里のあちこちに無差別に降り注いでいる。屋根が抜け、家畜を焼き、石垣を崩す。常に何かが倒される音が響いてくる。一方的な蹂躙だった。
「クソ、一方的にやりたい放題されるってのは、腹立つな!」
毒づいたところで状況が良くなるわけでもないが、カナンが居ないことが恨めしかった。彼女の法術さえあれば、ティアマトの跳梁を許すこともなかっただろう。
手元にあるのは、彼女から分けてもらったわずかな天火のみ。ティアマトを地上に引きずりおろせたとして、せいぜい一体か二体倒すのが関の山だ。
だから、せめてトビアは守りきらなければならない。それさえ達成出来れば良いとイスラは考えた。
「トビア…………あいつ!」
そのトビアは、集会所の屋根に登って弓を引いていた。天火に最も近い場所なので直接攻撃はされないが、安全とはとても言えない。
「無茶するな! 降りろ!」
「嫌です!」
「言うこと聞け!」
「あんな奴ら、全部落としてやるんだ!」
イスラは頭を掻きむしりたくなった。はたから見れば線の細い少年だが、内面は意外と頑固なのだと、この時初めて気づいた。
ただ、その頑固さが良い方向にばかり働くとは限らない。
ティアマトの放った酸の泥が、トビアのすぐ近くに着弾した。それは屋根を溶かし、その下にあった梁までも浸食する。
もし、屋根の上に飛び乗ったイスラが腕をつかんでいなければ、トビアは足場ごと階下に落ちていたことだろう。
「イスラさ……」
イスラは彼の頭に拳骨を振り下ろした。ゴツンと鈍い音が響き、トビアはその場にうずくまった。意外と石頭で、イスラはぷらぷらと手を振る。
「……何で、そうまでして戦いたがる。今は手も足も出ねえって、お前も分かるだろ」
イスラには、何がトビアをここまで駆り立てているのか理解出来なかった。カッと頭に血が上る性質とも思えないし、はたから見れば怒りよりも焦りを強く感じる。そもそも、消極的な面の方が強い少年なのだ。
そんな彼を、一体何がここまで駆り立てているのか、イスラには分からない。
「戦わないわけにはいきません。これ以上メチャクチャにされたら、僕たちの居場所が無くなってしまいます」
「……居場所がそんなに大事か? 死んだらそんな心配も出来ねえだろ」
イスラには理解出来ないが、トビアもまた、イスラがどうしてそんなことを言えるのか分からなかった。だが、すぐに彼から聞かされた話を思い出した。
イスラは場所に縛られずに生きてきた人間だ。自分とは違う立場に立って物事を見ている。
酸の泥が降り注ぐ状況下であるにも関わらず、トビアはある種の悟りのようなものを覚えていた。異邦人、余所者という言葉に込められた意味が、理解出来た。
それは見た目の問題などではなく、何に価値をおいているかということなのだ。ある者にとっては宝物でも、別の価値観を持つ者にとってはガラクタということがある。その感じ方、考え方の差異こそが、相互理解を難しくするものの正体なのだ。
だからといって、トビアはイスラのことを拒絶したくはなかった。「あなたが理解出来ない」と突っぱねるには、あまりに多くのことを知り過ぎた。何故彼が居場所を大切だと思えないのか、居場所にこだわる理由を理解してもらえないのか、ということを理解している。
「でも……それでも、僕にとっては大切なものなんだ! 諦めたくないんですよ!」
「……だとしても」
論争はそこで途切れた。
一頭の夜魔が家屋の屋根をかすめながら向かってくる。喉には緑の管が浮かび上がっていた。
「クソッたれ!」
毒づきながらイスラは剣を逆手に持ち替え、全力で投擲した。力任せに飛ばされた刀身は、蒼炎をまとったままティアマトの頭に深々と突き刺さる。
だが、その攻撃が夜魔の照準をずらした。灰になる寸前に吐き出された泥は、集会所の上に建てられた小さな燈台に張り付いた。
ヤバい、と二人が思った時には、すでに燈台は崩れ始めている。天火を戴いたまま。
叫んだのは、トビアだっただろうか。もちろんそんなもので物理法則を変えられるわけもなく、燈台はあえなく倒壊した。頂上に置かれていた天火は四散し、里を闇が覆った。