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【第三十節/対岸の少年】

 調子良く「努力する」などと言ったものの、何もせずにじっとしているのは、イスラにとって苦痛だった。


 元々、そんなに落ち着きがあるわけでも、気長なわけでもない。止まっているとすぐに天火が消えてしまいそうなので、しばらく野原をぶらぶらと歩いたり、型の練習をしたり、岩を踏み台にして何度も宙返りを繰り返した。


 頭の中を空っぽにして、無心で身体を動かしていると、細剣を包んだ炎は少しも弱まらなかった。


 ふと、一人で過ごしていた時のことを思い出した。ほんの一月ほど前まで、自分は孤独な旅をしてきたのだ。


 それが今は、遠い昔のことに思える。


 一人旅をしていた時のことは、よく憶えていない。記憶に残るような出来事は滅多に起きなかった。時間の感覚すらあいまいで、起きているのか寝ているのか、満腹なのか餓えているのか、そういう身体的な欲求にのみ従って生きてきた。


 まるで、獣の生き方だ。自嘲気味にそう思う。


 実際、そんな風に生きられたらどんなに楽だろうと、幾度となく考えたことがある。きっとその思考のみが、一人で過ごしていた時の唯一の精神活動だったのではないだろうか。


 数少ない明確な記憶の一つに、虎と遭遇した時のことがある。


 一人きりで暮らし始めてから、ちょうど一年が経った頃だ。森の中を歩いていたイスラは虎に襲われた。左の頬につけられた爪痕もその時のものだ。もっとも、一撃目で首の骨を折られなかったのは幸運というほかない。


 反撃することなど思いつかなかったし、戦おうとしていれば、恐らくイスラは生きていなかっただろう。


 荷物を全て投げ捨てて、虎がそれに気を取られている間に、猿より素早く樹に登った。三ミトラ程度では安心出来ないので、周囲にあった中で一番高い樹に場所を移し、羽織っていた外套を脱いで、それでしっかりと身体を固定した。


 虎は、三日三晩樹の下を歩き回っていた。その間イスラは、わずかな樹液や露を啜って何とか生きながらえた。


 空腹、渇き、疲労、寒さ、貧血……ありとあらゆる苦難が、彼に「降りて行って楽になれ」と囁き掛けた。何度その誘惑に負けそうになったか知れない。舌が口腔に張り付き、動かすたびにパリパリと乾いた音を立てた。わずかな唾を呑み込むと、喉の奥であざみの蔦を転がしたような痛みが走った。


 イスラはその為す術の無い状態のなかで、食物連鎖の真理を悟った。


 食えないということ、飲めないということ。そして強者との戦いに敗れれば、食われるほかないということを。


 だから、絶対に虎に勝つと決めた。食われないことがイスラの勝利だった。よしんば樹の上で干からびるとしても、自分の肉の一片たりともくれてやる気は無い。


 そう覚悟を決めた時、茂みが揺れて、一頭の大きな猪が現れた。迂闊なその猪は、金縛りに遭ったように身を固めて、あっさり虎の餌食になった。虎は獲物を引きずりながら、森の中へ消えていった。


 あの時、自分を踏みとどまらせたのは、人間としての精神に他ならない。


 だが、それが無ければ苦しむことも無かったし、虎の後に出会った様々なものからも逃れられたかもしれない。


 リダの町で袋叩きにされそうになった時、自分の心境は、あの不運な猪に近かったのではないか。抵抗せず、おとなしく運命を受け入れる気になっていた。


 喰らい喰らわれ、時至れば自然の力によってねじ伏せられる、その最期を受け容れること。それが獣たちの見ている世界なのだろうな、と思う。


 だが、カナンと出会ったせいで、もうそんな考え方は出来そうにない。彼女がさせてくれないだろう。


 きっと、折れそうになった時、彼女は「諦めるな」と言ってくれるはずだ。


 イスラには、そんな確信があった。


「……虎だ何だと考えてたら、腹減ったな」


 イスラはかぶりを振った。歩いたり剣を振ったりするより、考え事をしている方がよほど空腹を感じる。


 だが抜き身の、しかも天火をまとった剣を持ったまま、里の中に入るのも気が引ける。


「どうしたもんかな」


 ため息をつきながら独りごちた時、里の方から籠を手に持ったトビアが歩いてきた。


 イスラの視線に気づいたトビアは、びくりと肩をすくめたものの、小動物のように小さな歩幅で歩み寄ってくる。


「何か用か?」


「あ、あの、カナンさんから何か差し入れを持って行ってほしいって頼まれて……」


「そりゃあ助かる。あいつはもう出掛けたのか?」


「はい。父さんと一緒に出られました」


「そうか。悪いな、手間かけさせて」


「いえ、気にしないでください」


 そう言って、トビアは少しだけ笑って見せた。


 この里に来て一週間近く経つが、トビアの二人に接する態度は少しずつ柔らかくなっている。まだイスラに対しては固さが残っているものの、風呂場でビクついていたことを思えば、ずいぶん接しやすくなったと言えるだろう。


 だから、籠の中に二人分の杯が入っていても、あまり驚かなかった。


「実は、僕もお昼はまだなんです。ご一緒しても良いですか?」


「ああ、構わねえ」


 イスラはかしたイモにかぶりつきながら言った。トビアは地面から顔を出した岩の上に座って、乳酒を二人分注いだ。


「何か用があって来たんだろう?」


 受け取った酒をおもむろに飲み干し、イスラは訊ねた。


「や……用ってほどのことじゃ、ないんですけど……」


 トビアはもじもじと両手を合わせた。じれったくなったイスラはため息をつく。


「言いたいことはハッキリ言え。口達者のアロン曰く、言葉は矢のように真っ直ぐ飛ばせ、だ」


「はい……その……外のことを聞かせてほしいな、って思って……」


「外か」


 つい先ほどまで、そのことを考えていたイスラは、取り立てて面白い噺が無いことに悩んだ。どうにも、とりとめの無い地味な話しか浮かんでこない。


 請われた以上、何か実りのあることを言うべきなのだろうな、と思うのだが、イスラはお世辞にも喋り上手とは言えない。それは本人が一番良く理解していた。第一、「外のこと」という漠然とした要求自体に非があるぞ、と責任転嫁したくなった。


「色々あり過ぎてな。お前はどういうことを聞きたいんだよ」


「はい。煌都のこととか、海とか、火山とか、街道とか……ともかく、イスラさんの見てきた場所のことを知りたいんです」


「どうして知りたいって思うんだ?」


「どうしてって……行ったことが無いからです。僕は、この里のことしか知りませんから……」


「ここ以外、どこにも行ったことがないのか」


「はい」


 イスラは少し驚いた。そうではないかと察してはいたが、実際にトビア本人の口から聞かされると、彼を見る目を変えざるを得なかった。


 イスラは、カナンに倣ってこの少年の立場を想像してみた。生まれてこのかた小さな里と老人以外の人を見たことがない。最も若い女性は、死別した母親のみ。カナンに対して赤面するわけだ。自分に対して過剰なほど恐れ、それでいて差別心を見せない心理も理解出来る。


 だが、こんな閉じられた空間に居ながらも、トビアは里の人間や父親を憎んでいるようには見えない。ここ以外の場所を知らないとはいえ、居心地の良さを確かに感じているのだろう。


 窮屈だが、善良さと愛情によって育てられた純粋な少年。トビアは、そんな人間なのではないか。



 自分とは正反対だ。



 生まれながらの難民であるイスラは、家族も含めて、生活に余裕など無かった。常に食料や安全を求めて彷徨わなければならなかったから、娼婦である母はいつも自分を突き放していた。父親については、そもそも誰であったのか定かでない。


(あのおっさん、だったのかな)


 思い当たる節が無いではない。


 だがそれとて、母親の立場を考えると確実ではない。



 結局、自分とは何者なのだろう? イスラは自問する。



 孤独と背中合わせの自由の中で生きてきた自分。常に危険にさらされ、町に入れば悪意をもって迎えられる。カナンに出会うまで、自分は世界に対し絶望していた。それはつまり、何事をも期待していなかったということだ。だからこそ強くなれたと思うし、それを否定しようとも思わない。


 ただ、自分とトビアとの間に横たわる差異を意識すると、自分がとても奇妙な人間に思えた。


「俺とお前と、どっちの方が良いんだろうな……」


「え?」


「独り言だ。気にするな……よし。話してやる。ただ、色々ありすぎて、上手くまとめきれないからな……長くなるし、あんまり楽しい話はしてやれないが、それでも良いか?」


「はい、お願いします」


 トビアはまっすぐイスラを見て言った。「こいつは、本当に偏見を持っていないんだな」と思った。これから話すことが、その純粋さにどんな影響を与えるのか、少し興味がある。世間というものに対して不快感を示すのか、それともなお興味を持ち続けるのか。


 ふと、何故カナンではなくトビアに話す気になったのか、疑問を持った。


 そしてすぐに、自分の過去の話は、あんまり綺麗なものではないから、他人であるトビアには話せても、カナンには言いたくないのかもしれないな、と思った。


 そんな卑怯な自分を自覚しながら、イスラは過去を語り始めた。

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