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【第二十八節/風呂場にて 上】

「おお、来たか若いの!」


 露天風呂は、里の老人で溢れかえっていた。内心で一人きりの朝風呂を楽しみにしていたイスラは、桶を取り落としそうになった。


「むさっくるしい……」


 イスラはボヤきながら湯を汲んだ。


「何じゃ、失敬な奴じゃのう」


「仕方無かろうて。いっつもあんな別嬪さんと一緒におったら、ジジイの釜茹でなんて願い下げじゃろう」


「ガッハッハ、ちげえねえ!」


 二日酔いの頭に、老人の豪快な笑い声はこたえた。イスラは「ゔぁー……」と呻きながら手拭いで身体を洗う。石鹸は手製の物で、猪の脂肪と灰を混ぜて作った。あまり泡立たないが、あると無いとでは全然違う。


「のう、若いの。あの娘さんとはもう済ませたのか?」


「そりゃあヤっとるわい。若い男と女が一緒におったら、そうなるのが道理じゃ」


「ゼブルよお、お前の若い頃の火遊びは、村のモンなら誰だって知っとるわい。誰も彼もがお前と一緒じゃあるまい」


「そういうお前も五十年前の祭りで嫁さんを口説いたクチじゃねえか!」


 そして響き渡る「ガッハッハ!」の大合唱。イスラは黙々と身体を洗い続ける。「で、実際どうなんじゃ」


「抱いてねえ」


「ガッハッハ、そうじゃろそうじゃ……は?」


「だから、抱いてねえって。……あいつには、そういうことはしない」


 風呂の中がしんと静まり返った。イスラの口調から、老人たちもカナンの身に何かがあったのだと悟った。


「あー……ゴホン……悪かったの」


「……年甲斐も無くはしゃぎ過ぎたわい」


 若い人間が訪れるのは数十年ぶりだ。老人たちも、考えてみればこの二人が尋常な関係のはずが無い。と思い直した。


「済まんな、若いの」


「俺は良い。でも、あいつの前では、あんまり話題にしないでやってくれ。怖いだろうからな」


「分かった。皆、ちゃんと聞いたな!?」


 おうよ、と老人たちは口々に答えていく。イスラは鼻から息を吐いた。老人たちが聞き入れてくれたのは良かったが、ある事情から立てないでいた。


 あんな話題になったせいで、イスラも否応無しにあの時のことを思い出してしまった。カナンの姿は、しっかりと網膜に焼き付いたままだ。「……遊女のラハブ曰く、男の脳味噌は股から垂れている、か」


「どうした、具合でも悪いのか」


 俯いたままのイスラに老人の一人が声を掛ける。イスラは「気にするな」と答えて、風呂の方を向いた。老人でぎゅうぎゅう詰めになった浴槽を見ると、一瞬で萎えた。


 最後に頭から湯をかぶって乱暴に髪を洗い、それから湯に浸かった。口から若者とは思えないような声が漏れる。全身から、疲労という名の悪霊が逃げ出していくのが分かる。


 旅をしていると、時々天然の温泉を見つけることがあるが、入れるような場所は存外少ない。全身を湯に浸すのは、実に一年と三か月ぶりだった。身体を拭いたり、川や泉で水浴びをすることはあっても、ゆっくりと入浴する機会は滅多に無いのだ。


 これだけでも、この里にたどり着いた意義がある。


 湯の中で、凝り固まった肩や腰、脚の筋肉を揉み解す。ずいぶん身体を苛めてきたので、たまには手入れをしておきたい。


「全身、すごい傷じゃのお」


「闇渡りの男はどいつもこんな具合だよ。傷口が乾いている時の方が珍しいくらいさ……そういうあんたらも、変な彫り物してるな」


「おおう、これか?」


 老人たちの両腕には、曲線を多用した不思議な模様の刺青いれずみが入っている。緑色の塗料で彫られていて、手の甲には翼のような紋章が入れられていた。


「これこそ、わしらの風読みたる所以じゃよ。大昔の魔法使いは、特別な図形と文字を組み合わせて魔法を使ったそうじゃ。これは、言うてみれば、その秘術の一片じゃよ。風の中に住まう精霊に働きかける、鍵のようなものじゃ」


 そう言われてイスラは、大発着場でカナンが見せた上位法術を思い出していた。あの時も、カナンの呪文に従って魔法陣が展開していた。詳しいことは分からないが、超常の力を使役する際の手続きは、魔術も法術もそう変わらないのかもしれないな、と思った。


「もっとも、わしらの使える技など知れておるわい。秘術のほとんどは忘れられ、今のわしらに出来るのは、せいぜい旋風を起こす程度。煌都の連中はわしらを疎んでおるそうじゃが、そうびくびくされるような事は、何も出来ん」


 老人たちは一様に沈んだ表情を見せた。彼らの記憶には、代々伝えられてきた偉大な魔術師たちの伝承が残っている。空を飛び、雨雲を呼び寄せ、竜巻を解きほぐすような力を、自分たちの祖先は持っていたのだと。


 それが今は、中途半端な力しか使えず、かと言って煌都の人間からは見放されている。まさに、老いて滅んでいく自分たちにふさわしい……そんな感情を、老人たちは共有していた。


「煌都に移住しようとは思わないのか」


「無理じゃ。どの道、煌都に行くことは出来ん。途中にティアマトという、竜のような夜魔どもが待ち構えておる。反対側のエルシャには、アラルトの絶壁を越えねばならん。いくらシムルグとて、あの高度と乱気流を抜けていくのは不可能じゃ」


 それにの、と老人の一人は付け加えた。


「わしらはこの里以外の場所を、ろくに知らん。今更出ていったところで、野垂れ死にするのがオチじゃろうて。ただ……」


「ただ、なんだよ」


「トビアのぼんのことじゃが……」


 その時、当の本人が露天風呂に入ってきた。湯に浸かっているイスラを見て、ギョッとしたような顔になる。


「さあて、わしらは上がるとするかの。のう?」


「おい、話の途中だろ?」


「構わんよ。それより、ぼんに旅の話でもしてやってくれ」


 老人たちは示し合わせたように風呂から出ていく。後に残ったのは、イスラとトビアだけだった。服を脱いで入ってきた手前、トビアも出るに出れなくなっている。そんなおどおどした様子の彼を見て、イスラはため息をつきながら「入れよ」と促した。

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