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【第二十六節/風読みの父子】

「酒じゃー! 酒を持ってこーい!」


 白ひげをたっぷりと蓄えた老人が、大声で叫んだ。厨房からぞろぞろと料理を持った老婆が出てくる。


 敷物の上に座らされたカナンは、目の前に次々と料理や酒が運ばれてくるのを、戸惑い半分に眺めていた。


「ど、どうかお気遣いなく……」


 カナンがそう言っても、「いやいや遠慮なさらず! ささ、飲んだ飲んだ」と押し切られ、否応無しに酒杯を重ねることになった。


 ちなみに、隣に座った相棒は「食える時に食っとく」精神に基づいて、遠慮無く羊肉の串焼きに噛り付いていた。


 どうしてこうなったのか。


 アラルト山脈の大発着場を踏破した二人は、山岳特有の濃霧にまかれて方角を見失ってしまった。月の位置さえ判然とせず、イスラの闇抜け針も瘴土の中でなければ使えないため、完全にお手上げ状態だった。ことによると、蛇百足の夜魔を相手にしていた時よりもピンチだったかもしれない。


 そんな時、風の中に夜魔のいななきが聞こえた。二人はとっさに秘蹟サクラメントを使って態勢を整えた。やがて、霧の中を飛ぶ巨大な鳥と、それを追いかける竜のような夜魔が姿を現した……。


 その後の展開は思い起こすまでもない。イスラが夜魔を片付け、助け出した少年から里に寄るよう乞われたのだ。そして集会場に連れてこられたと思ったら、この大宴会である。


 カナンにしてみれば、やって当然のことをやったまでで、ここまで盛大に盛り上げてもらうと逆に申し訳なくなってしまう。第一、夜魔を倒したのはイスラだし、継火手の自分が儀式もしないまま酒を飲んでいることに罪悪感を覚えていた。抜けたところはあれど、根は真面目な娘なのだ。


「何かご不興を買うようなことがありましたかな?」


 老人の一人が心配そうに言った。カナンは首をぶんぶんと横に振る。


「いいえ、滅相も無いです。ただ……私としては、当然のことをしたまでと思っていますので、恐縮です」


「何をおっしゃるやら! あなた方には、それほどのことをしていただいたのです!」


「そうそう。それに、若い娘が遠慮なんてするモンじゃないよ!」


 酒瓶を運んできた、いかにも世話焼きといった老婆が言った。「あっちを見習うぐらいで良いんだよ」とイスラを指さす。


「そうだぞカナン。大食漢のボアズ曰く、出された食事は皿まで食え、だ」


 串焼きを乳酒で流し込んだイスラは、いつものように闇渡りの掟を引用した。その豪快さが気に入られたのか、集まってきた老人たちに「食え食え!」「飲め飲め!」と料理を押し付けられている。しかも、まんざらでもなさそうだった。


「……物は言いようですね」


「そう言うなよ。大体、お前だって腹減ってるだろ?」


「そりゃあ……」


「なら食っとけ。一寸先は闇だって、あんたも良く分かってるだろ?」


 イスラはちらりとカナンを見やった。実感の籠った言葉だった。


 これ以上遠慮を続けるのも失礼だと思いなおして、カナンは酒杯をあおった。


 出された料理の大半は羊肉を使ったものだ。岩塩と香草で味付けをした串焼き、焼いたパンに味付けした肉を挟んだもの、羊の乳で煮込んだシチュー等。彼らの生活が、いかに羊と密着しているか分かる。


 飲み物として供されている乳酒も、羊から作られたものだ。飲んでみると酸味が強く、あまり酒という感じはしなかった。どちらかというとヨーグルトに近い気がする。料理よりもずっと量が多く、居並ぶ老人たちも、食事をするというよりは酒を飲みに来ているようだ。というよりも、この乳酒が食事そのものなのかもしれない。


 慣れない味ではあったが、連日急き立てられるように過ごしてきたカナンには、その癖のある酸味が妙に美味しく感じられた。


 そうして飲んでいると、いかにも酒の肴といった料理が途端に美味しそうに見えてくる。香草の爽やかな香りも彼女の食欲をくすぐった。ごくり、とカナンは喉を鳴らして串焼きに手を伸ばした。


 一本だけのつもりが、二本、三本と増えていく。一度手をつけると止まらなかった。ただでさえすきっ腹を抱えて旅を続けてきたのだ。これまで我慢してきた分の揺り戻しが一気に襲い掛かってきた。


 気が付くと、串が十本、空になった鍋が一つ、右手にパン、左手に杯という恰好になっていた。「食い過ぎだ」とイスラが呟くのが聞こえた。焼いてやろうかな、とカナンは思った。


「楽しんでいただけましたか?」


 集会場の扉が開き、壮年のたくましい男性が入ってきた。それまで老人ばかり見ていただけに、とても若々しく見えた。


 とはいえ、歳は四十の半ばごろだろうか。とび色の髪にはちらほらと白髪が混ざっている。だが、老いよりも落ち着きを感じさせるような容貌だった。髭を生やしているが、あまりむさくるしくは見えない。カナンはふと、ギデオンがもう少し歳をとったら、こういう雰囲気になるのだろうな、と思った。


「はい。ご厚意の数々、痛み入ります。私はエルシャの大祭司の次女、名をカナンと申します」


「この里の長を務めております、風読みのアヒカルの子、名をトビトと言います。おい……トビア、挨拶を!」


 トビトが呼ぶと、扉の影から恐る恐るといった様子で例の少年が出てきた。カナンが首をかしげて微笑むと、水を掛けられた猫のように隠れてしまう。


「……申し訳ありません。外からの客人は、あれには初めてなのです」


「いえ。トビアさん……でしたっけ。先ほどは災難でしたね。お怪我はありませんか?」


 カナンが丁寧に呼びかけると、少年は顔を伏せながら歩み寄ってきて頭を下げた。


「と、とと、トビアですっ! さっきは本当に、ありがとうございました!」


 耳まで赤くなりながら、トビアが言った。その顔を見て、カナンは少しだけ驚いた。


 さらさらとしたとび色の髪、血色の良い頬、中性的な顔立ち……先ほどは気付かなかったが、いざ光の下で見てみると、煌都でも滅多に見かけないような美少年だった。すこしそばかすがあるのも、かえって可愛げがある。


 煌都の支配階級として生まれたカナンは、美形の人間など飽きるほど見てきたが、それでもトビアほどの顔立ちの者はそういない。男性なら、煌都ラヴェンナの騎士オーディス・シャティオンが一番端正だったが、もしかするとこの少年も将来それくらいになるかもしれないな、と思った。


 ちなみに、イスラも精悍な顔をしているとは思うが、人相の悪さが足を引っ張っている……というのがカナンの評価だった。


 ともあれ、こんな山奥の村にいるのは不釣り合いだ。


「この度はせがれを助けていただき、感謝の言葉もありません。見ての通り、貧しい里ではありますが、どうかお寛ぎください」


 トビトにそう言われて、カナンはハッと我に返った。まじまじと見過ぎていたのか、トビアは石のように固まっている。


 それでも、カチコチとイスラの方に向かって歩いて行くと、同じようにイスラに礼を言った。乳酒を飲んでいたイスラはぶっきらぼうに「気にすんな」と答えた。


 そのイスラを見る目が、自分に向けられていた視線と少しだけ異なることに、カナンは気付いていた。


 だが、それについて考えを巡らせる余裕は無かった。次々と運ばれてくる酒と料理に、カナンは、「明日でいっか」と思った。

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