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【断章/ユディトの恋歌2 下】

 畢竟、心配するだけ無駄だった。


 ギデオンの強さは本物だった。東西南北、ありとあらゆる煌都から集まってきた戦士たちも、ギデオンには敵わなかった。


 ギデオンと十手以上剣を交わした者は、片手で数える程しかいない。他の戦士たちの戦いでは流血が当たり前だったのに、ギデオンは自分にも敵にも、ほとんど傷を負わせなかった。


「卑怯者め! 武人の心を辱めるか!」


 無傷で倒された一人の戦士が、立ち去ろうとするギデオンを罵った。彼は振り返って「そのような意図は無い」と答えた。


「たばかるなよ、貴様はそうやって良い気になっているだけだ」


「小生は無闇に血を流すことが正しいとは思わない。その信念に従ったまでだが……小生の価値観と、貴公の価値観が噛み合わなかった。それだけのことだ」


「何だとっ……!」


「不満があるなら、後日また来られよ。その度に小生は、可能な限り信念を貫かせていただく」


 ギデオンは、血を流すことを好まない。その必要がある時は躊躇わずに剣を振るうけれど、試合のような場では可能な限り剣を弾くようにしている。


 私がギデオンと出会う以前……彼が煌都の外で巡察隊として活動していた時に、大規模な討伐作戦に参加したらしい。その経験が、彼に血を流すことを忌避させているのだろうな、と思う。


 ところで、カナンが守火手に選んだ闇渡り……聞くところによると、結構出来たらしい。少なくとも、八年間傷を負わなかったギデオンにかすり傷を負わせたのだから、よほど強かったのだろう。殴って気絶させるというのも、あまりギデオンらしくないやり方だ。それほど食らい付いたということだろうか。


 それに、あの日のギデオンは何だか嬉しそうだった。退屈を忘れられたとでもいいたげで……その闇渡りが、ちょっと妬ましい。焼いてしまいそう。


 ……閑話休題。


 そんなこんなで、あっという間に最後の試合になった。


 相手は煌都ラヴェンナの騎士、オーディス・シャティオン。当時で確か二二歳くらいだったと思う。貴公子然とした人物で、長く伸ばした金髪といい、品のある立ち居振る舞いといい、本当に華のある人だった。


 ラヴェンナのあるエミリア地方はエルツ地方と文化が異なっていて、王侯貴族を中心とした王権政治を採っている。私たちエルツ人は漠然と騎士という言葉を使うけれど、彼らにとって騎士がすなわち守火手のことで、安易に名乗ることは決して許されない。逆に言えば、彼らにとって騎士になることはそれだけ名誉なことなのだ。


 だから、二人が闘技場の中心で並び立った次の瞬間、シャティオン卿が砂を蹴って目潰しを狙ったのは、誰にとっても衝撃的だった。



 ただ一人、ギデオンを除いては。



 シャティオン卿が不意打ちをかけるよりも先にギデオンは動き出していた。左腕で目を覆い、右手で剣を握ったと見えた次の瞬間、鉄と鉄の衝突するけたたましい音が響いた。ギデオンがたびたび使う搦め手……柄打ちが、シャティオン卿の剣に弾かれた音だった。


 最初に会った時にも感じたけれど、ギデオンの抜刀速度は目で捉えられない。たぶん、シャティオン卿も見てから反応したのではなくて、あらかじめ来ると予測していたのだろう。だからこそ、目潰しという卑怯な手を使ってでも、ギデオンの動きを制限しようと測ったのだ。


 観客……特にエルシャの人間は一斉に罵声を浴びせかけた。この時、この場であんな手を使うなんて、無礼にも程がある。正直なところ、私にも憤る気持ちはあった。


 けれども、闘技場の中心で剣を交える二人にはそんな雑音なんてまるで聞こえていなかった。むしろ、彼らの気迫に飲まれて、罵声は徐々に沈黙へと変わっていった。


 ギデオンがあれほど激しく戦ったところは、後にも先にも一度きりだ。少なくとも、私の知っている範囲では。


 互いに抜刀した両者は、ほとんど声も立てずに刃を交わらせた。幾度も幾度も、目で追えないほど激しく速く。剣と剣の触れ合う音は常に上書きされて、止むことがない。私は呼吸することさえ忘れて、彼の戦いに見入っていた。


 ぶつけ合うのは剣だけじゃない。二人は勝つために手段を選ばなかった。剣撃の合間に殴打や蹴りを織り交ぜ、時には不可思議な技をも使った。ギデオンが相手の腕を掴んだ次の瞬間、シャティオン卿の両足が地面から離れていた。まるで自分から滑りにいったかのように。


 シャティオン卿が倒れる。ギデオンの勝ちだ!


 と思ったら、今度はギデオンが転ばされた。単純に足払いを掛けられただけなのだけれど、その判断の早さは尋常ではない。もし私が同じ技をかけられたら、混乱のあまり立ち上がれないだろう。ましてや反撃なんて思いつくことすら出来ない。


 二人は転がるように距離をとって、またぶつかり合った。先ほどと同じ激しい剣撃の応酬が繰り広げられる。斬ったのか、突いたのか、それとも殴ったのか、ほとんど分からない。二人の戦いがあまりに目まぐるしく展開するので、誰もが声を失ってその光景に見入っていた。


 その時の私は、彼に勝ってほしいとも負けてほしいとも思っていなかった。ただ無事で戻ってきてほしかった。それなのに、ギデオンは彼らしくもなく夢中になって剣を振るっている。


 そう、夢中になっているように見えた。だって……剣閃の合間に見えた彼の横顔は、これ以上ないほど楽しそうだったのだから。


 ふと、彼がもう戻ってこないのではないかと思った。同じ人間のはずなのに、それまで私が見てきた彼と、その時の彼は、まったくの別人のように思えた。その別人格になったまま、戦い続けるのではないか……。



 私が好きになったのは、戦っている時の彼ではない。



 けれど、本当の彼がどれなのか、決めることは出来ないし、命令することも変えることも出来ない。



「ギデオン……」


 やがて、ギデオンの攻撃が、少しずつシャティオン卿を押し始めた。縦横無尽に剣を操り、技と力とを織り交ぜ相手を追い詰めていく。シャティオン卿も一流の腕を持った戦士で、勝利のために手段を択ばなかったけれど、ギデオンはその一切を完全に封じていた。技術も、力も、あるいは狡知さえも、すべての点でシャティオン卿の上を行っていた。


 上……と言うのだろうか。そんな言葉を超越した何かが、ギデオンの剣閃に込められていた。


 それでも、シャティオン卿はギデオンの猛攻を防ぎ続けた。ただ、彼の剣はそうはいかなかった。刀身が中ほどから砕け散り、シャティオン卿の動きが一瞬だけ止まった。ギデオンの剣がその首筋にぴたりと添えられる。


 勝敗は決した。




◇◇◇




 ギデオンが勝利した後、私は一目散に彼のもとへと向かった。


 先ほどの彼の横顔が私の瞼に焼き付いて離れなかった。それは、今でも変わらない。戦いに夢中になった彼の姿は、後にも先にも一度きりだ。それだけに、決して忘れられないほどの衝撃があった。


「ギデオン!」


 私は何も考えずに控え室へ飛び込んだ。例えば、試合を終えた選手が着替えているかもしれない……なんてことは、少しも思い浮かばなかった。さすがに浅はかだったと思う。


 ギデオンが、汚れた軍服を脱ぎ捨てる場面に出くわしてしまった。


 上半身だけとはいえ、男性の裸体を間近に見る機会なんて滅多にない。ましてや相手がギデオンだったばかりに、私はすっかり赤くなってしまった。


 服を着ていると分からないけれど、一見細身の彼の肉体は、一片の無駄なく鍛え上げられていた。長い腕は決して太くないけれど、引き締められた筋肉の中に、大男さえ弾き飛ばすほどの力が込められている。


 なにより、ギデオンの身体には無数の傷跡が刻まれていた。さっきの戦いでつけられたものもあるけれど、それより以前に負った傷も多い。まるで、闇渡りのように。


「…………」


 私は声も出さず彼の姿に見入っていた。さっきとはまた別の意味で、彼から目が離せない。


 ギデオンは、どこか尋常でない雰囲気を発していた。それが私の五感を圧倒して、口を閉ざしたのだ。……赤裸々だけれど、今思えば、その時の彼の姿に、私は性的な感覚を抱いていたのかもしれない。


 でも、その空気はすぐに消えて無くなった。私が入ってきたことに気付いたギデオンが、素早く上着を羽織った。


「ユディト様……? 失礼、お見苦しいところを見せてしまいました」


「え、いや、そんなっ。私の方こそ、扉を叩きもしないで開けてしまって……」


 わたわたと、落ち着きのない言葉が出てしまった。まさか、彼の姿に見入っていたなんて言えるはずがない。


「……その、おめでとう、ギデオン」


「……?」


「ギデオン?」


 私がおめでとうと言うと、彼は小さく首を傾げた。どうしてそんなことを言われたのか分からない、といった風だ。戦いに勝ったことも、剣匠の称号を与えられることも、まるで眼中に無いようだった。


 やがて「……ああ」と呟いたギデオンは、鉄面皮を少しだけ動かして、笑いかけてくれた。


 それは、私の知っているギデオンの顔……無表情で、無感動に見えて、本当は深い優しさを湛えたそれに他ならなかった。


 彼は、確かにそこにいるのだ。


 そう思うと、途端に安堵感が湧き上がってきた。私はギデオンの腰に縋り付いて肩を震わせた。彼がそこにいる、その事実が嬉しくてたまらなかった。


 でも、彼の中には優しさ以外のものも潜んでいる。戦いに対する渇望もまた、ギデオンの一側面なのだ。


 私が彼を愛するということは、その飢餓感もまとめて愛することだ。それを私が満たしてあげられるかは分からないけれど……。

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