八年前、ギデオンと出会い、私は恋を知った。
その走り出しは思った以上に快調で、彼を私たち姉妹の指南役にするどころか、同居まで可能となった。広い屋敷だから、彼の私室とはずいぶん距離があったけれど、食事の時は同じ食卓に座ったし、鍛練の時間は手ずから武術を教えてもらえた。
鍛錬は家の一角に作られた訓練場で行われた。広さは民家を四つつなげた程度で、壁には父の用意した様々な武器が掛けられている。
ギデオンの教え方は丁寧だった。初日に一体何を教えられるのかと胸を高鳴らせていたら、おもむろに鉄剣を抜いてそれぞれの部位の説明をし始めた。それから子供向けの小剣を渡してくれたのだけど、その刀身は刃こぼれだらけだった。「まずは、剣の手入れから始めましょう」それがギデオンからの最初の授業内容だった。
小剣の刃渡りは短かったけれども、それまで剣なんてほとんど触ったことのない私たちは、四苦八苦しながら砥石で剣を磨いた。最初にギデオンが手本を見せてくれたけど、彼の手際を真似しようとすると、かえって手が滑ってうまくいかなかった。
「焦らなくても結構です。ゆっくりと、怪我をしないように気を付けてやってください」
そういうギデオンは、自分の砥いだ短刀で林檎の皮を剥いていた。私たちの作業が一段落つくと、切り分けた林檎をおやつ替わりに出してくれた。
一本仕上がると、ギデオンはまた別の剣を持ってきて砥ぐように命じた。私もカナンもおとなしく従った。私はギデオンと一緒にいられるだけで良かったのだけれど、カナンは少し退屈そうにしていた。
最近はそれほどでもなくなったけど、基本的にあの子は落ち着きがない。じっとしているより動いている方が性に合っているのだろう。詩句や経典の暗記なら難なく出来るのに、こういう単純な作業となると途端に集中力を切らせてしまう。
この時も、その悪い癖が出てしまった。なまくらと侮っていたのか、刀身の根元の部分で指を切ってしまったのだ。「いたいっ!」ギデオンはさっと立ち上がって、カナンの手を取った。うらやましい、と思った。だって、別にカナンの心配をする必要なんてないのだから。
「傷が……なるほど、これも
カナンの指の傷は、ギデオンが手当をするより早く消えてしまっていた。
私たちの身体に宿った
「ふむ……これは良くない」
「え?」
「いえ、独り言です。ユディト様の方はいかがですか?」
「え、あ、その……まだ……」
「慌てなくても良いのですよ。肝心なのは、剣に長く触れていることです」
「剣に、長く……?」
「はい。例えば、書家が筆について知らないということはないでしょう。大工も道具箱の中に何が入っているか把握しています。武人もそれと同じで、まずは剣の重みや手触り、そしてその鋭さと脆さを知ることが何よりも肝要です」
ギデオンはちらりとカナンを見やった。またさぼりかけていたカナンはピョンと背中を伸ばした。「素振りをするのは……そうですな、五十本ほど砥いでからにしましょうか」
「ちと気長過ぎはせんかね」
訓練場の扉を開いて、父が入ってきた。ギデオンは頭を垂れる。
「娘たちが剣を抜く機会など、そう多くはないのだ。儂は武人を育てろとはいっておらんよ」
「承知しております、猊下。しかし、お二人が剣を持たずとも、お二人のために剣を持つ者はいます。小生がお教えしたいのは、まさにその点であります」
「ふむ。と言うと?」
「お二人はいずれ継火手になられる方々です。当然、守火手を選ぶことになるでしょうし、その守火手に剣を振るえと命じなければなりません。しかし、それは所詮言葉であって、実際に骨肉を断つ手応えなど感じない。また、傷を負う痛みが分からなければ、暴力への忌避感は薄れてしまいます」
「なるほど、剣を持つ前にまず道徳から鍛えようというわけか」
「左様でございます」
「ふむ……」
父は長いあご髭を撫でた。考え事をしている時の癖だ。何気ない動作ではあるのだけれど、他人の言葉をあまり
「結構……ちと迂遠ではあるが、君の思慮深さは嫌いではない」
「恐縮であります」
「しかしな、目に見える成果を出してくれんことには、儂としても人前に出し辛い。肌はそのうち焼けていくだろうが、今の君には……言ってみれば、実績が無い。一介の、無名の剣士に過ぎんのだよ」
「ハッ、承知しております」
「しかし、娘たちを一朝一夕で強くすることも出来まいて。そこで、一つ提案があるのだがな……」
「提案、でありますか」
「うむ。近々、煌都対抗の武芸会が開かれることは知っておろう? その大会のエルシャ代表の一人に、君を選ばせてもらった」
「ぶげいかい!」
カナンが飛び上がった。妹ほどではないけれど、私も内心では驚いていた。煌都同士で武芸会が開かれることなんて滅多にない。
煌都はそれぞれ街道でつながれているけれど、武芸会で各所から人が集まれば、その分交易網を圧迫してしまう。そうなると、結局は武芸会で得られる収益よりも、経済的な損失の方が勝ってしまう。だから、基本的にはどこの煌都も武芸会は自分のところだけで完結させてしまう。
そういう事情を知っていたから、父がさらりと言った言葉は、結構な衝撃だった。
「……小生、でありますか」
「不服かね?」
「いえ、身に余る光栄です。しかし、そのような晴れ舞台に小生などが見合いますか」
「気を悪くせんでほしいが、現状ではまるで見合っておらん……しかし、君の腕前ならばすぐにでもそれに見合った称号を得られることだろう」
「称号……つまり、
父はうなずいた。私もギデオンの口から出た単語を聞いて、どうして煌都間の合同武芸会が開かれることになったのか得心がいった。
全世界に、エルシャと同規模の煌都は十か所しか存在しない。そして、その煌都にはそれぞれ剣匠と称される人物が一人ずつ存在する。
この時のエルシャにも当然剣匠はいたのだけれど、相当な高齢だった。後から聞いた話では、その称号に見合うだけの活躍を出来なくなったので、後進に譲ることにしたらしい。
その新しい剣匠を決めるために、武芸会が開かれることになった。
「ギデオン……」
煌都間の武芸会は、単独開催のそれよりも遥かに激しい。死人が出ることも珍しくないそうで、前回の大会の時でも、全五十名の参加者中、六人が死亡している。
その中に、ギデオンが含まれる可能性は、否定しきれない。
「どうだ。出てはくれんか」
本音を言うと、出てほしくはなかった。
「謹んでお受けします」
けれども、その時の私はただの教え子に過ぎなくて……戦いに行く彼を引き留めることなんて、とても出来なかった。