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【第二十四節/陽の昇らない暁へ】

 イスラは傷ついた身体を引きずりながらカナンのもとにたどり着いた。


 全身、どこもかしこもズキズキと痛んでいる。足の裏は歩くたびに割れそうで、手の平からは感覚が失せている。背中を打たれた時の衝撃で、まだまともに呼吸出来ない。これまで様々な苦痛を経験してきたが、今回はそのなかでも五指に入るだろう。


 それでも、カナンが二度と起き上がらないという恐怖に比べたら、些細なものだった。


 彼女の傍らにあった荷物から予備の松明を取り出し、火をつけた。彼女の天火アトルに比べれば、その光は比べ物にならないほど儚い。だが、今は彼女の顔色を見ることさえ出来ればそれで良い。


「カナン……おい、カナン……!」


 イスラは松明を寄せた。桃色の唇は血の気を失っていない。顔や手に比べて白い胸も、規則的に上下していた。イスラは大きく息を吐いた。


 すると今度は、下着一枚だけで遮られた彼女の胸が、否応なしに視界に入ってきた。「……」レヴィンが手を出そうとした気持ちも分かる。無残に引き裂かれた衣服と無傷なままの身体の対比は、イスラに背徳的な感情を催させた。


「そういや、こいつって……」



 ――女だったんだな……。



 感情を掻き乱される前に、イスラは外套の残骸を脱いで彼女の胸を隠した。


 カナンが目を覚ますまで、イスラは適当に時間を潰すことにした。


 周囲に夜魔の気配は感じない。待機所は完全に静まり返っている。蛇百足の夜魔が派手に暴れてくれたおかげであちこちが崩れているが、ただちに崩落する心配も無さそうだ。


 まずは傷の手当をする。幸い、完全に折れた箇所は無いようだが、痛みはある。恐らくヒビくらいは入っているだろう。夜魔や騎士たちにつけられた傷は、ほとんどがカナンの天火アトルによって塞がれていた。それよりも血が足りない。イスラは荷物の中からいくつか食料を取り出して食べ始めた。


 パンの残りを噛みながら、イスラは心が落ち着くのを待った。カナンの肢体が網膜に焼き付いている。身体の痛みは無視出来るが、ふつふつと滾ってくる欲望を抑えることの方がよほど難儀だった。


 こんな風に感じるのは、初めてのことだった。イスラは戸惑っていた。こんな気持ちはこれまで感じたことがない。


 カナンの姿を直視出来ない。ちらりと視線を向けるたびに、顔が熱くなった。頭でも打ったかと思ったが、逆に、頭なんて毎日のようにぶつけている。今更それに原因を求めるのは滑稽だ。


「はあぁ…………」


 馬鹿みたいに大きな溜息が漏れた。それが壁に反響して、大発着場の隅々まで響いていく。ふと夜魔を呼んでしまうかもしれないと思ったが、今の心境は夜魔の好むものとまた異なっている。それを表現する言葉をイスラは知らない。


 だから、胸を覆うもやのために、ひたすらもどかしい気持ちを味わわされた。石のように硬いパンが、今日はことさら味気ない。


(おかしいな。俺は、どこか変になったのか……?)


 自分にそう問いかけてみるが、それに答えてくれる者などどこにもいない。




◇◇◇




 二時間ほど経ってから、カナンが目を覚ました。途中からずいぶん心地良さそうな寝息を立てていたので、本当に豪胆な娘だな、と呆れ半分に関心していたが、彼女がその蒼い瞳を向けてくれた時、さっきとは異なる安堵の溜息がイスラの口から漏れた。


「よく眠れたか?」


「はい、お陰様で」


「お陰様って何だよ」


「だって、この布……」


 カナンは彼の外套を持ち上げた。


「……早く着替えろよ」


 イスラはぶっきらぼうに言った。


 カナンの着替えが終わるのを待ってから、二人は荷物をまとめて待機所をあとにした。何もかも血まみれ、灰まみれになっていて、一々拭いていくのに難儀したが、その分出発した時の足取りは軽かった。


 全身に傷を負っている分、イスラの歩みは遅い。それでもカナンの前に立って進んだ。


 カナンはパンと水を交互に含みながらついてくる。空腹は彼女の方が強かった。最後におちついて食事を摂ったのは二日ほど前だ。イスラに比べて、決して楽をしているわけではない。


 それでも、イスラの目に映る彼女は、少しも辛そうではなかった。あんな目に遭った後だというのに、いつもと変わらない微笑みを浮かべている。


「何でそんなに楽しそうなんだよ」


 自分で意識する前に、イスラは訊ねていた。カナンはキョトンとした様子で首を傾げた。「あんたはいつも楽しそうだよな」


「それはもう、楽しいから楽しいんですよ」


「あんなことがあったのに?」


 カナンは胸に手を当て、少しだけ俯いた。


「……ええ。それでも、イスラは助けに来てくれました。諦めるなって、言ってくれた」


「口が滑っただけだ」


「俺はカナンの守火手だ~」


「茶化すなっ!」


「ふふっ」


 むきになって言い返しながらも、イスラは、カナンこいつは歌うように笑うんだな、と思った。


「エデンを探すってのが、あんたにはそんなに楽しいことなのか?」


「もちろん。そうでなければ、旅に出ようとは思いませんよ。誰もが幸せに暮らせる場所を見つけること……それくらいのことをやって、ようやく私は、私自身になれると思うんです」


「どこに居たって、あんたはあんただろ」


「いいえ」


 カナンはきっぱりと否定した。


「煌都に居る限り、私はカナンという名前のついた商品に過ぎません。確かに、どんな物でも手に入ったと思います。食べ物も、お酒も、宝石も、ふわふわの寝台も……でも、私自身の命の意味だけは、決して手に入らない」


 カナンはすべてに恵まれて生まれ育ってきた。才能も、容姿も、出自も、他の人間がどれだけ羨んでも手に入れられないものを、零れ落ちそうなほど沢山。


 だが、それらは「カナンでなければ」手に入らなかったものではない。それらの賜物たまものが、たまたまカナンという名前を与えられた一個人に与えられた。彼女はそう考えている。


 その財宝の重みは、常に彼女の心に圧し掛かってきた。煌都の下町にうずくまる人々を見るたびに、街の外からやってきた旅人たちと話すたびに、その重圧は増していった。



 ――どうして自分は、これほど多くのものを持って生まれてきたのだろう?



 その疑問自体が傲慢であることは、彼女自身承知している。そのうえでなお考えずにはいられなかった。


 自らの体内に蒼い炎が宿っていることは、ただの偶然に過ぎない。その事実に意味を与えるのは、自分の行動以外にあり得ない。だから、恵まれて育ってきた分も含めて、自分は楽園エデンを見つけなければならないのだ。


 だが、それはどこまで行ってもカナン一人の理屈に過ぎない。


「あんたの言うことは、やっぱりよく分からないな」


 イスラにはどうして彼女がそこまで必死になるのか分からない。ただ生きるだけで良いと考えているイスラには、命以上のものを求めるカナンの姿勢が理解出来なかった。どうしても「それって食えるのか?」と思ってしまう。


「俺とあんたって、今一つ噛み合わないよな」


「……そうですね。でも、私は人選を誤ったとは思っていませんよ」


「それだよ。前々から聞きたかったんだが、どうしてあんたは俺を守火手に選んだんだ? 孤独な闇渡りなんて、ほかにいくらでもいるだろ」


「色々ありますよ。でも、決定的だったのは……あなたが言葉を大切にする人だったからです」


「言葉って?」


「闇渡りの掟。あなたと出会う前に、何人かの闇渡りと話したことがあったけど、あなたほど頻繁に引用する人は見たことがなかった」


「それだけかよ……」


「私にとっては、それが大切なことだったんです。だって、掟を守るってことは、あなたたちの先祖の言葉を信じるってことでしょう? それを守れば幸せになれるから、闇渡りたちは掟を残してきたんです。言葉を信じるあなたなら、私の語る楽園エデンの夢も、信じてくれるかもしれない……そう思ったんです」


 イスラは苦笑した。あまりに美しすぎる誤解だ。


「そりゃ買い被りだ。俺は別に、幸せになりたいから引用してるわけじゃない。それ以外に規範が無かったからだよ。家族も友達も仲間も、皆死んじまって……他に、物事を図る基準が無かった。それだけの話だ」


「そうなんですか?」


「そうだよ……残念だったな。今からでもクビにするか?」


「まさか。もう、あなた以外の守火手なんて、考えられませんよ」


 聞くのが怖いけど、とカナンは前置きした。


「私は、あなたの継火手にふさわしいですか?」


 そういえば、まだ選考は続いていたな、とイスラは思った。この数日間があまりに慌ただしくて、すっかり忘れていた。


 ただ、この間自分は何を思ってきただろう? 誰のために行動してきただろう?


 それを思えば、考えるだけ無駄というものだ。


「……まだ、ちゃんと言ってなかったな」


 イスラは腰の剣帯を外し、カナンに向けて両手で捧げ持った。その場に跪き、深くこうべを垂れる。



「武人のサムソン曰く、汝のあるじと認めし者に剣を捧げ、帯を預けよ。


 戦にあってはその帯を腰にまとい、罰はその鞘から抜かれた剣によって与えられなければならない。


 ……カナン。どうか俺に、あんたの守火手をやらせてくれ」



 カナンはイスラの剣帯を手に取り、深々と下げられた頭に杖を触れさせた。



「『あなたが義と認めるのならば、その者が永遠に乾くことのないよう葡萄酒を注ぎ、また餓えることのないよう食物を与えよ。


 宝物庫の鍵を預け、最も鋭いつるぎを持たせなさい』……今の私では、あなたに何も与えられない。


 それでも良ければ、どうか私の守火手でいてください」



 顔を上げたイスラに、カナンは剣帯を返した。互いに、何も言わず見つめあった。継火手と守火手として、また、楽園エデンを目指す旅の仲間として。その意志の確認に、最早言葉は必要無かった。


 イスラは剣帯を付け直し「行こう」と言った。カナンは「はい」といつも通りに答える。


 そして二人は、陽の昇らない暁に向かって、再び歩き始めた。

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