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【第二十三節/剣と蒼炎】

 蛇百足の夜魔が身をよじらせる。全身の鱗の擦れ合う音が、閉じられた空間の中で幾重にも反響した。


「くるぞ!」


 夜魔が鎌首をもたげ襲い掛かってくる。二人は同時に飛び退いた。蛇体の激突と同時に石の床が削れ、大小様々な瓦礫が顔の横をかすめていった。


 もちろん、避けただけでは終わらない。


 蛇体の側面についた無数の脚が二人を轢き殺しにかかる。ガタガタと音をたてて突き立てられるそれを、二人はすんでのところで回避した。


「カナン、明かり! 何か無いか!?」


「ありますっ!」


 杖の石突で床を打つと同時に、花火のように光が天井めがけて昇っていった。石の地図に吸い込まれ、宝石から放たれる七色の光が部屋全体を照らし出した。


「上等……っ!」


 イスラは百足の脚に伐剣を叩き付ける。が、わずかに刀身が埋まっただけで、脚を切断するどころかかえって武器ごと身体を引きずられそうになった。


 蛇百足の夜魔は、待機所のなかを壁と言わず天井と言わず縦横無尽に這い回る。それ自体が夜魔の攻撃方法だった。


 単純だが有効な手だ。これほどの巨体であれば、ただ動くだけで攻撃になる。


「糞っ」


「イスラ、これを!」


 夜魔の突進をやり過ごしながら、カナンが腰に帯びていた細剣を投げ渡してきた。イスラはそれを掴み抜き放つ。刀身が仄かに蒼く輝いていた。


「その剣は特殊な金属で作られています! 私の天火アトルも」「上!」「っとと……! ともかく、気休めにはなりますよ!」「分かった!」


 夜魔の頭がイスラに向けられる。粘着性の液体で塗れた口を開き、イスラを呑み込もうと覆い被さってくる。「イスラ!」もちろんそんな大振りな攻撃に当たるほど間抜けではない、むしろ好機だと思った。


 苦も無く攻撃を躱すと、夜魔の鱗を足掛かりに身体の上へと駆け上がり、鱗と鱗の間隙に細剣を突き立てた。


 刀身は容易く夜魔の身体に埋まった。すかさず左手に持ち替えた伐剣を差し込み、梃子の容量で鱗をめくり上げる。黒い体液が顔に吹き付けられた。


 ベリベリと音を立てて鱗が剥がれる。民家の窓程度の面積はあるが、それとてこの夜魔にとっては軽傷に過ぎないだろう。それでも、何もしないよりはずっとマシだ。


 夜魔がイスラを振り落としにかかる。上体を起こし、地面目掛けて倒れ込んだ。イスラは慌てずに剣を引き抜き、脚を木の枝に見立てて易々と飛び降りた。


「よっ、と」


「……イスラ。時々、あなたが人間じゃないように思えますよ」


 尊敬半分、呆れ半分といった口調でカナンが言った。


「慣れだよ、慣れ。そのうちあんたも出来るようになる」


「いや、多分無」


 尾が叩きつけられる。二人は難なくそれを回避した。


「まあそれは置いといて、これだけ大振りな攻撃ばかりなら、見切るのだって難しくはない。あんたもそう思うだろ?」


 カナンは頷く。確かに、恐ろしくはあるものの、避けられないほどではない。


「でも、いつまでも……!」


 夜魔の長大な身体が二人の間を横切っていく。


 壮麗な七色の光の下では、夜魔のおぞましい姿があますところなく鮮明に浮かび上がる。蛇百足の夜魔は、可視化された死そのものだった。


「……」


 イスラは答えなかった。カナンに言われずとも分かっている。


 この調子で避けていられるのは今のうちだけだ。ただでさえぼろぼろな上に、ろくに休息すらとっていない。身体はとっくに限界を迎えているが、精神力だけで何とか持ち堪えている状態だ。カナンと行くのだという決意が、彼の身体に力を与えていた。



 ――この夜魔を倒せば、向こう側に行ける。



 単に通路を脱けるだけではない。山脈を脱け、地方を越え、これまでとは違う生活に身を置くことになる。カナンの守火手として、共にエデンを目指す旅に出るのだ。


 そこがどんな所か、イスラには想像もつかない。正直なところ、これまでの生活だけでイスラは十分満足している。いや、していた、と言うべきだろうか。


 今のイスラは一人ではない。隣にはカナンが居て、一緒に戦ってくれる。あらゆる物をかなぐり捨てて煌都を飛び出した型破りな女が。


 世界に祝福された彼女が、全てを投げ打ってでもたどり着きたいと願う場所。そこはどんな場所なのだろう? 何故カナンはそうまでしてエデンを求めるのだろう?


 もっと、カナンという人間のことを知りたいと思った。


「だから……!」


 イスラは待機所の隅に向かって走った。引き付けられた夜魔が猛追する。

「イスラ!?」カナンの目には、イスラが自ら逃げ場を無くしたように見えた。だがそうではなかった。


 カナンの細剣を咥える。全速力で走った勢いを殺さず、屹立する巨大な彫像に足を掛け、そのまま駆け上がる。まるで重力の影響を受けていないかのような動きだった。僅かな手がかり、足がかりを頼りに、瞬く間に彫像を登っていく。


「今っ!」


 夜魔の頭が像に激突する瞬間を見計らって、イスラは飛び降りた。床から六ミトラほどの位置だろうか。二階建ての家屋ぐらいの高さだが、イスラは転がることで衝撃を分散させ、平然と立ちあがった。


 軌道を変えられなかった夜魔はそのまま巨像と衝突した。轟音とともに像が崩れ、天井の宝石もいくらか零れ落ちた。巨大な石の塊が夜魔の上に圧し掛かる。粉塵が巻き上がり、その姿を覆い隠した。


 イスラは咥えていた細剣を手の中に落とす。油断など微塵もしていなかった。この程度であの夜魔を倒せるのなら苦労はしない。


 案の定、粉塵の向こうで蛇体が蠢いた。


 また突進かと思ったが、違った。黒い縄のようなものが飛んでくる。「はっ!?」予想外の攻撃に反応が遅れた。何とか顔は守るが、伐剣の護拳が砕かれ、腹にもいくつか直撃を貰った。


 瓦礫を押しのけ、夜魔が身体を持ち上げる。黒い触手は開かれた口腔より伸びていた。イスラはむせながら立ち上がる。「気色悪ぃ……!」イスラの感想に反応するように、夜魔は吐き出す触手の量を増やした。十本以上の触手が一斉にイスラに襲い掛かる。


「このっ!」


 飛び出したカナンが天火アトルをまとわせた杖を振り上げ触手を薙ぎ払った。


「イスラ、大丈夫ですか!」


「ああ……あんたはどうだ。法術は使えるか?」


「……あと一回だけなら」


「そうか」


 敵に遠距離択があると分かった以上、もたもたしていられなくなった。一発逆転を狙うしかない。


「一番威力のあるやつで頼む。時間は俺が稼ぐ」


「分かりました……イスラ、剣を」


「あん?」


 イスラが「聞いていたのか?」というような声を出したが、カナンは構わずに杖で伐剣を叩いた。かすかだが、鐘の鳴る音が響いた。伐剣の表面が蒼い炎に包まれ、全身の傷が少しずつ塞がっていく。


「ちょっとだけ、お裾分けですよ。法術を使うだけの力は残っています」


「……ま、あんたがそう言うのなら、そうなんだろうな」


「イスラ、無茶はしないで」


「そりゃ無理だ」


 イスラは駆け出した。夜魔の触手を巧みに回避し、あるいは切り払いながら前へ前へと進んでいく。後ろでカナンが「天を去られし神よ……」と詠唱する声が聞こえた。


 力を分けてもらったお陰か、身体が少しだけ軽い。剣の切れ味も上がっている。これなら多少は攻められる。そう思ったイスラは、頭の中で「傷よ、治るな」と念じた。


 身体のことなど後回しで良い。血は流れるままにしておけば良いし、傷は開いたままで十分だ。骨が折れていようが、筋肉さえ切れていなければ剣は振るえるし、走れる。


 真横から百足の尾が迫る。イスラは縄跳びでもするようにそれを飛び越えるが、今度は上から夜魔の口腔が迫った。レヴィンの上体が両腕を広げる。その醜悪な姿に、イスラは生理的な嫌悪感を催した。そして、その嫌悪感がそのまま言葉となって迸った。



「往生しろっ!!」



 イスラは伐剣を突き上げ、レヴィンの額に切っ先を埋めた。蒼い炎が夜魔と化した男の肉体を焼いていく。レヴィンは両腕で頭を抱え、悲鳴を上げながらもがき苦しんだ。その苦痛が蛇体にまで伝わったのか、イスラを抱き込んだまま渦のように身悶えする。


 カナンは思わず詠唱を止めそうになった。だが、喉まで出かかった彼の名前を押しとどめ、言葉を紡ぎ続ける。


「汝が力を振るうことを許し給え。我に裁きの力と権威を与えよ」


 蛇体の中から蒼炎を纏ったイスラが姿を現した。脚を蹴って夜魔の身体の上に跳び乗り、振り落とされることなく走っていく。上から降り注いでくる触手を切り払いながら、先ほどこじ開けた箇所にたどり着く。


「食らえよ……!」


 渾身の力を込めて、イスラは逆手に持ち替えた二刀を突き立てた。


 刀身が深々と埋まり、黒い体液とともに蒼い炎が噴き上がる。レヴィンの口から苦痛の絶叫が迸った。イスラは剣を捻じって傷口を広げるが、走り出した夜魔の動きに振り落とされそうになる。


 蛇百足の夜魔は痛みに猛り狂い、床といわず壁といわず走り続ける。効いているのは良いが、カナンがちゃんと詠唱を続けていられるか心配だった。


 だが即座に、彼女よりも自分の方が危険であることを思い出した。


 ふと顔を上げると、目の前の壁に大きな亀裂が走っていた。まさかと思ったが、この夜魔にとって壁を破るくらいどうということはない。先ほどと違い、飛び降りることの出来る高さでもない。


 イスラは両手に力を込めた。もう覚悟は出来ていた。


 夜魔が頭から亀裂の中に潜り込んだ。


 猛烈な勢いで壁が迫る。


 イスラは夜魔の身体から両足を離して、壁面に着地・・した。



 そして、激突。



「があああ……ッ!!」


 靴の裏が触れた瞬間の衝撃は、筆舌に尽くしがたい。骨が砕けたかと思った。実際に粉々になっているかもしれない。分からない。分からないが、イスラは剣を握る力を緩めなかった。この手は絶対に離さない。そう決めていた。


 蒼炎に包まれた剣は、夜魔の鱗と肉を易々と斬り裂いた。傷口は夜魔が勝手に広げてくれる。自分は力を緩めさえしなければ良い。今すぐにでも持っていかれそうだし、両肘が腹に埋め込まれているが、それも大したことではない。


 勝てるのなら、この先へ行けるのなら。


 だが、天火アトルはどんどん磨耗していく。頼むからまだ消えないでくれ、とイスラは願うが、押しとどめることは彼には出来ない。


 炎が消えた瞬間、イスラの伐剣が根元から折れた。


「ッ!」


 舌打ちした瞬間、百足の尾が彼の背を叩いた。


 今度こそイスラは弾き飛ばされ、その拍子にカナンの剣も夜魔の身体から抜けた。


 壁に叩きつけられる。息が詰まったが、それでも受け身をとることは忘れなかった。


「……ッ!」


 壁に手を掛けながら、地面に向かって滑り降りる。が、途中で力が抜けた。今度は受け身も出来ないまま、地面に激突する。


 身体が動かない。全身の痛みは無視出来る範疇を超えている。物理的に動かなくなっている箇所もあるだろう。


 これ以上は何も出来ない。それが歯痒くて仕方がなかった。まだ戦いは終わっていないというのに。


 ただ、その名を呼ぶことしか出来ないとは。


「……カナン!!」


 石の地図が砕けた。待機所は暗闇に包まれ、唯一、カナンの魔法陣のみが蒼い光を放っている。闇の中で、カナンの清明な声が響いた。



「我が蒼炎よ、御怒りの奔流となり悪を滅せよ、出でよ断罪の光! 能天使の閃光エクシアス・ブレイズ!」



 カナンが杖を真上に向ける。その先端から彼女の蒼い天火アトルが溢れ出し、一本の光線となって放たれた。


 大仰な口上と裏腹に、光線は人間の胴回りほどの太さしか無い。


 だが、光は今まさに彼女を呑み込もうとしていた夜魔を貫通し、そのまま天井までも穿った。


 光の奔流に貫かれた夜魔は、ただちにその蛇体を灰へと変えていく。二人の上に灰の雨が降り注いだ。光線は砕けた石の地図の残骸に反射し、一瞬間だけ、地下空間に星空を現出させる。


 イスラは、灰の雨と宝石の破片の煌めきに包まれたカナンが、自分に向けて微笑んだように見えた。だが、天火アトルは輝きを失い、ふらつき倒れる彼女の姿も闇の中に隠されてしまった。

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