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【第二十一節/石の褥】

 大発着場の端までたどり着いたカナンの前に、無数の夜魔が立ち塞がった。すでに炎の戦輪は消失している。カナンは残った天火アトルを掻き集め、か細い声で詠唱を始めた。


「……我が蒼炎よ……円環を模り、咎人の……」


 足元に展開した魔法陣から蒼い炎が噴き上がる。それは空中で輪となって展開するが、たった一つ、それも先ほどよりずっと小さな戦輪にしかならなかった。しかも形状は不安定で、気を抜けば今にも消えてしまいそうだ。


「行く手を……阻め!」


 カナンは途切れそうになる意識を必死に繋ぎ止めていた。天火アトルの使用限界はすぐそこまで迫っている。この法術を完成させたとして、あともう一回だけ秘蹟サクラメントを使うのが限界だろう。


 ふらつく脚に力を込めて、カナンは術を完成させた。


「回れ、炎の剣!」


 放たれた戦輪が群がる夜魔を薙ぎ倒していく。夜魔の上体を両断し、あるいは貫通しながら、次々と灰の山に変えていく。


 皮肉なことに、形成出来る数が減ったお陰で返って制御は簡単になっていた。やはり三つ同時に展開するのは難しいのだ。それでも強行したのは、焦っていたからに他ならない。


 自分は迷惑を掛けっぱなしだな、と思う。


 大口を叩いておきながら、実際には簡単に取り乱してしまう弱さがある。


 それでもここまで来られたのは、自分の守火手がイスラだからだ。彼の知識や経験を信じるからこそ、自分はアラルトの大発着場の突破に踏み切った。その判断がいかなる結果に繋がるかはまだ分からない。ただ、失敗するとは極力思わないようにしていた。


 瘴土の中で、心を暗くするな。とイスラは言う。その通りにしていれば夜魔は現れない。現に、あの騎士たちが踏み込んでくるまで、大発着場の中は静まり返っていた。


(それなら、どうして私は夜魔に襲われているの……? )


 そう自問するが、答えは簡単だ。つまるところ、イスラが追いかけてくることを信じ切れていないのだ。


 彼に死んでほしくない、まだ一緒に旅を続けたい。それは偽らざる想いだし、心の底から彼の無事を祈っている。だが、頭の片隅では「本当に来てくれるの?」と囁きかけてくる声がする。そこから隙間風のように不安や恐怖が入り込んでくる。


 どうしてこの空間が瘴土と呼ばれるのか、合点がいった。


 この粘つくような闇の中では、心の間隙をついて恐怖が入り込んでくる。気体の毒さながらに。


 それに負けてはいけない。濁流を受けて脆くなった堤防が鉄砲水に破られるように、心が壊れる時も一瞬でそうなるのだ。


 だが、頭でそのように考えていても、負の感情は自ずと湧いてきてしまう。それはカナンが悪いのではなく、人間の心が備えている根源的な弱さなのだ。先の見えない暗闇、人ならざるおぞましき者ども、孤独でいる不安……それら全てを踏み越えられる人間は、そう多くはない。


 カナンは杖を頼りに、戦輪の切り開いた道を歩いていく。夜魔のしかばねは即座に塵芥と成り果て、彼女の両脇に灰の山が出来上がった。その臭気はどこか生臭さを含んでいて、彼女の嗅覚に生理的な不快感を抱かせる。


 崩れた灰を踏みしめ、カナンは待機所にたどり着いた。反対側の待機所と同じく四隅に巨大な像が建っている。夜魔の姿は無い。カナンは大きく息を吐き、二人分の荷物をどさりとその場に落とした。


 役目を終えた炎の戦輪が消滅する。明かりの代わりだった権杖の天火アトルも小さく明滅している。まだ油断出来る情況ではないが、一息つかなければろくに動くことも出来ない。


 身体が重かった。指先まで力が入らない。頭がくらくらする。まるで血液を燃料替わりに燃やしたかのようだ。天火アトルを極限まで使用するといつもこうなる。おのずと彼女の意識は「休みたい」という方向に流れていった。


 疲れ果てると、人間は否応なく隙を曝す。だから常に自分の限界を意識し、決して追い込まれず、余裕をもって立ち回ること……彼女たちはギデオンから常々そう教えられてきた。このような極限状態にあること自体、その教えに反している。彼の言葉を軽んじていたわけではないが、いつでもそれを守れるほど、カナンは完璧な人間ではなかった。


 だから、背後からレヴィンが近寄っていたことにも気づかなかったし、押し倒されないよう抵抗することも出来なかった。


 背中が石の床に押し付けられる。カナンの口から空気が漏れ出た。権杖が手から離れる。


「ハハ、良かった……ご無事なようで何よりです」


「あなたは……!?」


 カナンはもがくが、彼女の細い腕では鍛えられた軍人の身体を撥ねのけることは出来ない。ただでさえ力が尽きかけている上に、四肢をくまなく押さえ付けられていては打つ手が無かった。


 何より、追いついてきたのがイスラではなくレヴィンであったという事実が、カナンの心の支柱に致命的な打撃を与えた。薄暗闇の中ではよく見えないが、彼女の青褪めた表情は、残忍な想像力の持ち主であるレヴィンには容易に思い浮かべることが出来た。


「ご安心を、カナン様……あの闇渡りは手にかけておりません」


 レヴィンは仄かに輝きを発している杖を引き寄せ、彼女の顔を照らした。「夜魔が始末致しました」自分の言葉など端から信じてはいないだろうが、それでも小指の爪ほどの希望は感じたはずだ。その望みの絶たれた顔が見たかったから、こうした。


「なんてことを……!」


「貴女がいけないのですよ。煌都の慣例に反して、好き勝手に振る舞った報いを受けておられるのです」


「あなたから説教を受ける謂れはありません」


 怒気を交えたカナンの反論に対して、レヴィンはけたたましい嘲笑で応じた。


「どこまでも気の強いお方ですなあ。そうでなければ……!」


 レヴィンの手が胸元に伸びる。「や……!」悪寒を感じた時には、すでに彼女の服は引き千切られ、下着が露わになっていた。薄くなった絹ごしにレヴィンの吐く息を感じた。


 レヴィンの舌が首の肌の上を滑る。全身の肌が総毛立った。ざらざらとし感触は否応なしに嫌悪感を催させる。レヴィンも、わざと下品な音を立てて彼女の神経を逆撫でした。


「ハ、アハハ……! 継火手の肉体は良い物ですなあ! 森の中を汗だくで歩き回っても、ちっとも髪が傷んでいない。肌も、まるで玉のように滑らかだ……」


 首筋に鼻を寄せられる。レヴィンは「良い……っ、実に良い!」と繰り返し呟いている。カナンは無言のまま顔を背ける。レヴィンは無理やり前を向かせた。頬を舐めるが、カナンは嫌悪の表情を浮かべるものの、恐怖はしていない。


 そのことが一層レヴィンの支配欲を刺激した。この調子で辱めたところで、カナンの覚悟は崩せない。身構えている相手は、力技ではなかなか屈服させられないことをレヴィンはよく心得ていた。


 だから、カナンのような女は、まずは言葉で嬲るに限る。


「私は……いや。我々は、ずっと貴女を欲していた」


「……」


「その顔だと、自覚はあったようですなあ。クク、そりゃあそうか、あんたは頭だけは良いですからね。自分の何を見られているか気付かないはずがない」



 あんたは雌鶏と同じだ、とレヴィンは囁いた。



「それもただの雌鶏じゃない、宝物で作られた雌鶏だ。おまけに金の卵を産むときた」


 カナンの強張った身体によこしまな言葉を染み込ませるように、レヴィンは彼女の耳元に唇を寄せた。


「あんたのはらは権力の源だ。あんたの母親や、そのさらに母親がそうしてきたように、結婚が今日の煌都を創り上げた。その聖なる天使の血脈に、俺の物を注いでやろうって寸法さ」


 レヴィンは彼女の下腹に手を伸ばし、そこにある「権力の源」を愛おしげに撫でた。疲れ果てていながらも、カナンは怒りに任せてレヴィンを押しのけようとする。力尽くで抱きすくめておきながら、その箇所だけを愛撫するというのは、女性に対する最大の侮辱だった。


 無論、足掻いたところで状況が覆ることはない。カナンは己の無力さに歯噛みするしかなかった。その悔しげな表情を見て、レヴィンはますます喜悦を強める。


「あんたさえ手に入れれば、俺は大燈台ジグラットの頂きに登り詰めることも出来た。何もかも俺の物になった! 大人しくしてさえいれば、あんただって石のしとねに寝かされるようなことにはならなかったさ!」


「……そう簡単にいくとでも?」


「もちろん、武芸会で勝たなきゃいけない。だが二位になれればそれで良い。誰もユディトの方を欲しがっちゃいないさ、絶対に手に入らないからな! 誰があの男に……剣匠に勝てるものか」


「情けない……それでも男ですか」


「女のあんたには分からんだろうさ。俺たちにとって、唯一あんたの身体を手に入れることだけが栄達への道だったんだ! それ以外に登り詰める方法は無い……それを、横から掻っ攫われた屈辱! 


 しかも! 


 薄汚い闇渡りなぞに!」


 レヴィンはカナンの首に手を伸ばし、強く握りしめた。カナンの口から息が漏れ出る。


「クク……締めながらやると、具合が良くなるんだ。この地の底では最早何も望むことなど出来ないが、せいぜい楽しませてくれよ……?」


 酸欠で意識が遠のく。視界の霞んでいくなかで、カナンは思った。旅に出たことは、間違いだっただろうか、と。


(そんなことは……ないっ!)


 カナンは、これが因果応報だとは少しも思っていない。そう思った瞬間に、自分はこの男に対して完全に屈服することになるからだ。


 自分は何も間違っていない。旅に出たことも、イスラを守火手に選んだことも、何もかも納得のいく行動を己で選んできた。


 レヴィンの言う通り、煌都に居れば、こんな地の底で辱められるような事態にもならなかっただろう。だが結局のところ、煌都に居ても事態は何も変わらない。石の上で汚されるか、布団の上で犯されるか、その程度の違いしかないのだ。


 これは自分の人生だ。誰かに縛られることなく生きたかった。誰かと結ばれるなら、その相手は自分で選びたかった。


 今や出来ることと言えば、死に方を選ぶくらいだ。残った天火アトルを暴走させて、レヴィンもろとも焼け死ぬことも出来る。それしか、無いのなら…………。




「諦めるな、カナン」




 言葉が、カナンの心に光となって射し込んだ。


 瘴土の闇を駆け抜けて、闇渡りのイスラは伐剣を振るった。

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