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【第十九節/「奴らにはやれない」】

 二人は橋の上を一心不乱に駆け抜けた。


 夜魔の大群は背後だけでなく上や下からも迫ってくる。橋の縁に手を掛けて這い上がってくもの、上から飛び降りて来るもの、それらを紙一重のところで避けながら、入り組んだ道を進んでいく。


 夜魔の数は刻一刻と増え続けている。どれほど進んでも次から次へと夜魔の影が浮かび上がり、壁のように二人の前に立ち塞がる。


 戦うしかなかった。


「カナン!」


「はい!」


 勢いよくカナンが答え、詠唱を始める。


「聖別されし者に我が祝福を授けん、秘蹟サクラメント!」


 互いの杖と伐剣が触れ合う。以前と同じ鐘の鳴るような音が、巨大な廃墟の空洞に響いた。


 イスラの剣が蒼い炎に包まれ、手足の先に至るまで活力が漲る。疲労で重くなっていた身体が羽のように軽くなった。


「オォッ!」


 イスラは、飛び込む。


 目の前に現れた夜魔を一刀のもとに斬り捨てる。無論、焼石に水だ。だが一瞬だけでも道は開ける。二人はその間隙に飛び込んだ。


 真横から夜魔の爪が伸びる。「そこ!」イスラが振り返るより先に、カナンの杖がその腕を弾いていた。夜魔の腕は打撃を受けた箇所から焼け落ち、灰に変わる。


「ええいっ!」


 すかさずカナンは細剣を突き立てた。今度こそ夜魔の身体は溶けて崩れ落ちる。


「夜魔が相手なら、俺よりあんたの方が良いかもな!」


 別の夜魔を相手どりながらイスラが言う。「そうでもないですよ!」別の敵をいなしながらカナンが答えた。


天火アトルが切れるまでです! もう秘蹟サクラメントを一度使ったから、あと三回が限界です!」


「……ッ!」


 無言のままイスラは夜魔を斬り伏せる。グレゴリを斬った時ほどではないが、剣に宿った蒼い炎は僅かに弱まった。斬る際の抵抗も大きくなっている。


 カナンの言う通り、天火アトルは無尽蔵の力ではない。使えば消耗するし、常人のイスラは火勢を取り戻すことも出来ない。彼女が限界を迎えた時点で二人の命運も尽きるだろう。


 だが、それで焦燥感を覚えれば余計に夜魔が寄って来る。瘴土の中で最も大切なことは、恐怖を覚えず、ただ気丈に振る舞うことなのだ。


 だからイスラは、カナンに対してあまり気を遣わないようにした。無関心でも、必死になっているのでもない、純粋に彼女を信じているからこそ背中を預けるのだ。



 ——隣で戦ってくれるヤツがいる。



 その実感があるだけで、イスラの剣は強く鋭く、速くなる。我ながら現金だと思わないでもないが、この頼もしさはこれまで感じたことの無かったものだ。


 決して悪くない。イスラはほくそ笑んだ。


「……フッ」


 夜魔の懐に飛び込み、その腹を一閃する。黒い体液が飛び散りイスラの顔に墨のように張り付いた。


 まだ、止まらない。


 崩れ落ちる夜魔の身体をすり抜け、その後ろの敵を流れるような手捌きで斬っていく。いつもより身体が軽い。「良い調子だ……!」イスラは歓声を上げた。


 一方、カナンも負けてはいない。杖と細剣の両方を巧みに操り、洗練された動きで夜魔を片付けていく。間合いの長い杖で攻撃を受け流し、一瞬で懐に飛び込んで刺す。基本的にはこの繰り返しだが、剣匠直々に手ほどきを受けただけあって動きに全く無駄が無い。その上、彼女は常に天火アトルの加護を受けている。夜魔との相性は抜群だ。


 だが、安心出来ないことは誰よりもカナン自身が分かっている。自分にはイスラのような持久力が備わっていない。筋肉疲労は天火アトルの力で軽減出来るが、すこぶる燃費が悪い。考えなしに使っていればすぐに息切れを起こすだろう。


 故に、カナンの戦い方はイスラよりも勢いと思い切りに欠けたものとなった。優位点が少ないイスラの方が、彼女よりも前に立って戦っている。それが少し悔しい。瘴土という環境に慣れていないこともあって、じりじりと焦燥感が胸を焦がした。


 しかも、二人の敵は夜魔ばかりではなかった。


「がっ……!」


「イスラ!?」


 夜魔を薙ぎ払い振り向くと、そこには肩に刺さった矢を抜こうとしているイスラがいた。


「大丈夫だ、骨で止まってる……!」


 引き抜かれた矢を投げ捨て、階下を見る。矢をつがえた騎士たちがイスラに狙いを定めていた。


「撃ってくるかよ、カナンもいるのに……いや、そういうことか」


 もうその辺りの判断もつかなくなっているのか。


 恐慌状態。備えも気構えもなく瘴土に入った者の末路だ。俗物的な欲望だけを理由に入ってきた彼らは、簡単に心を呑まれてしまった。もう救いようがない。


 もちろん、もとより救う気は無い。そんな余裕を見せていられる状況ではなかった。


 矢傷はすぐに塞がった。イスラは舌打ちする。今の一瞬で、確かに天火アトルが消費されたのを感じた。


 それに動きも止まった。橋の中程まで進みはしたが、対岸はまだまだ遠い。その細い道も、這い上がってきた夜魔で溢れそうになっている。


 先に痺れを切らしたのはカナンだった。


「イスラ、少し時間を稼いでください。上位法術を使います」


「待て、まだ……!」


 制止しようとするが、すでにカナンは詠唱を始めていた。「っ、やれ!」イスラは矢に注意を向けず、ただカナンに爪を伸ばす夜魔だけを迎撃する。


 カナンは細剣を納め、両手で杖をしっかりと握り締めた。


「天を去られし神よ、が力を振るうことを許し給え。我に御怒りの代行者たる権威を与えよ」


 彼女の言葉とともに、足元に円形の魔法陣が現れる。不可思議な文字がいくつも浮かび、そこから蒼い炎が噴き出した。イスラは腕で顔を庇う。熱が皮膚を焼くのを感じた。炎は橋の表面を焦がし、夜魔たちでさえたじろいでいる。彼女の立っている一箇所だけが燈台のように輝いていた。


「我が蒼炎よ、車輪をかたどり咎人の行く手を阻め、回れ炎の剣! 智天使の輪ケルディム・リープ!」


 カナンが杖を振るう。猛り狂っていた炎が三つに分裂し、空中で輪の形をとってカナンの周囲に浮遊した。それぞれの直径はおよそ二ミトラ程度で、標準型の夜魔を縦に両断するだけの長さがある。


「行け!」


 彼女の命令と同時に、三つの炎の戦輪が夜魔たちに襲い掛かる。その蒼い刃が触れただけで夜魔の肉体は飴細工のように溶け崩れた。夜魔だけでは飽き足らず、発着場の橋や階段や舞台まで見境なく破壊する。石で出来た床にはわだちのような焦げ目がつき、細い場所ともなると完全に焼き切ってしまった。


 カナンは必死に操ろうとするが、戦輪は彼女の意図を外れて方々を飛び回る。何度か階下にいる騎士たちを斬りそうになって、その度に必死で軌道を逸らせた。


 やはり、まだ上位法術を完全に扱うだけの力は自分には無い。顕現させて好き勝手に飛ばすだけで精一杯だ。一つだけなら完璧に操る自信があるが、それでは威力が足りない。


 確実性よりも目先の効力を選んでしまったのは、彼女の焦り故だった。


 だが古代の遺跡を滅茶苦茶にする代償に、二人の周囲の夜魔は確実に減っている。突破口が開けた。


「今のうちに……!」


「おい!」


 カナンは走り出す。その背中を守るようにイスラが飛び出し、黒い外套を大きく翻した。そこに騎士たちの放った矢が殺到する。ほとんどは巻き込むか向きを逸らせたが、二本の矢がイスラの身体に突き立った。


「糞っ!」


 カナンの戦輪はある程度の夜魔を屠りはしたが、それが裏目に出た。夜魔相手に苦戦していた騎士たちが一斉にこちらへ向かって来ている。


 ここまでの戦闘で人数は半分に減っていたが、全員が血走った目でイスラを見据えていた。口元には気色の悪い薄笑いを浮かべ、各々の武器を引き摺りながら階段を登ってくる。


「ったく、どういう風に見えてんだか……」


 俺が金の彫像とでも見えているのか。まったく、ますますお笑い種だ。


「イスラ、傷が……!」


「これくらい気にするな。すぐ治る」


「でも!」


「先に行けよ、カナン。あいつらは俺がなんとかする。代わりにあんたは、俺のために道を作っておいてくれ。すぐに追いつく」


 そんな言葉で素直に首肯するようなカナンではない。だが、理屈の裏に隠されたイスラの気遣いも理解出来る。この後に及んでまだ相手を憐れむカナンに、手を汚させたくないのだ。


 それに片方が道を作るという案は、この際合理的に思えた。夜魔に対して圧倒的な殲滅力を持つカナンなら、後でイスラが駆け抜けるだけの道を作れる。イスラの脚ならば、夜魔の間を縫って行ける。


 騎士たちを斬ることに、イスラは躊躇しない。


 自分が居残っても、戦輪の制御に追われるだけだ。それで力を消費するくらいなら、一体でも多くの夜魔を倒しておいた方が良い。


「……分かりました。先に行きます」


「ああ」


「絶対に追いついてくださいね」


「当然だ」


 カナンが駆け出す。その足音を背中に受けながら、顔色一つ変えず身体に刺さった矢を引き抜いた。秘蹟サクラメントの力で傷口が塞がるが、完全ではない。伐剣を包んでいた蒼い炎が消えていく。


 五人の騎士たちが、歪んだ喜悦に満ちた顔で近寄ってくる。各々武器を引っ提げ、それでイスラを引き裂くことを望んでいる。そうすればカナンが手に入り、地位や名誉や富さえ得られる。彼らは文字通り欲望に身を任せ、ここまで来てしまった。



 ——こんな奴らにカナンはやれない。



 イスラは凶暴な笑みを浮かべた。あれだけ守火手になることに懐疑的だったのに、いつの間にか、自分もこの有様だ。


 カナンの言う楽園エデンのことは、俄かには信じ難い。だが、彼女は必ず何かをやる。些事さじなどではない、とても大きなことを。その行く末を隣で見てみたいという気持ちは、イスラにもあった。


 伐剣を握り直す。左手で短剣を抜く。夜魔たちの不快な鳴き声が響き渡る中、イスラは唇を吊り上げた。



「潰してやる……!」



 こんな殺意に満ちた顔は、そうそうカナンの前では出せないな……戦いの瞬間ときを迎えても、イスラの頭の片隅にはカナンの姿が見えていた。

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