アラルト山脈の絶壁は森の侵食を防ぐかのように立ちふさがっている。遠方からは青みを帯びた色に見えるので「岩の海原」とも呼ばれてきたが、この時代の人々は海と青を結びつけることが出来ないため、その呼び方は廃れつつある。
山脈はエルツ地方の北部を覆うように広がり、その向こう側のアナトール地方とを区切る存在でもある。標高は最も高いところで四ミトラス(約四キロメートル)、頂上付近は常に雪に覆われ、人が踏み入ることを許さない。
だが、ここを越えることはすなわち、煌都エルシャの影響圏から抜け出すということだ。イスラとカナンにとっては文字通り乗り越えるべき壁である。
「で、どうするんだ?」
馬のたてがみにしがみついたまま、イスラは訊ねた。
「いくら何でも、この装備で山を越えるのは不可能だ。あんただってそれは分かってると思う。何か腹案があるんだろ?」
「腹案、というほどではないですけど、どうするかは決めています」
森が途切れた。目の前に巨大な岩の壁が現れる。伝え聞く通り、確かに岩肌は青みがかって見えた。
その一部に、ぽっかりと大きな空洞が開いている。悪魔の口腔のように真っ暗で、奥に何があるのかイスラでも判別出来ない。長大な坂道がそこまで伸びており、カナンは迷わずその上に乗った。
「あれは?」
「アラルトの大発着場……旧時代、爛熟したら転移魔法で人や物を移動させていた拠点の、成れの果てです」
かつて
わけても転移魔法の需要は、他の何にも増して大きかった。
人々は際限なく速度を求め、魔導師たちは全知を尽くしてそれに答えた。結果、転移魔法の技術だけが際限なく大きくなり、やがてその知恵が戦争に使われるようになると、地上のあちこちが破壊の炎に晒されるようになった。
神が世界を閉ざした理由は、人々の愚かな争いに依るところが大きい。煌都の学院ではそういう風に教えられている。カナンもその考えには賛同していた。
「先鋭化した転移魔法は世界を狭くしたと言われています。当然ですね……いつでも、どこにでも行けるのであれば、まだ見ぬ土地に
……神の嘆きは、人が世界に敬意を払わなくなったからです。今から向かう場所は、そういう過去の罪業の詰まった所です」
怖くなりましたか? カナンは訊ねる。イスラは首を横に振った。
「よく分からないな。魔法が世界を小さくした……って? 何も悪いことじゃないだろ」
「距離が短くなることは、良いことばかりじゃないですよ。距離の長さは時間の長さ。想像してみてください、もしエルシャからここまで一瞬で来れたとしたら、私とあなたの関係もずいぶん変わっていたと思いますよ」
「そりゃそうかもしれないがな……まあ、いいや。俺はあんたの言う場所ならどこにだって行くよ」
イスラの言葉に、カナンはクスクスと笑った。
「ありがとう、イスラ」
◇◇◇
アラルト大発着場の入り口で、イスラとカナンは馬から降りた。
馬の背中には騎士の持っていた荷物がそのまま残っていた。寝袋や鍋などは不要だが、大量に残った食料や飲み物は何よりもありがたい。二人は思わず顔を見合わせた。
「これだけあれば、山越えも出来そうですね」
「楽観は出来ないけどな……」
荷物をまとめながらイスラは呟く。
大発着場の巨大な門から生暖かい風が流れている。中には重油のような粘度を持った闇が溜まっていた。この生暖かさも光景も、つい昨日見たばかりだ。
「カナン、
「……今の体力だと、ぎりぎり四度が限界です」
「そうか」
瘴土の中を突っ切っていくにはいささか不安になる答えだった。だが、イスラはすぐに気持ちを切り替える。臆病さや恐れこそ、夜魔を呼び寄せる餌になるからだ。
カナンも臆してはいなかった。さすがに緊張してはいるものの、いつものように前を真っ直ぐに見据えている。
頼もしいな、とイスラは思った。
「……よし、行くか」
「はい……!」
不気味な風音を吐き出す大門をくぐり、二人は大発着場の中へと踏み込んだ。
数百年前に見捨てられた施設は、案の定荒廃し切っていた。かつては人を迎えるための玄関の役目を持っていたようだが、今はあちこちに落石が転がっている。天井も相当脆くなっているのだろう。手を加えられずに山の重みを支え続けている分、旧時代の建築技術に敬意を表するべきかもしれない。
壁には巨大な彫像が立ち並んでいる。いずれもローブを纏っていることから、かつて名を馳せた大魔導士たちに違いない。その輝かしい業績も、今や埃と塵と闇に埋まりつつある。
「イスラ、見てください」
カナンが壁に松明を寄せる。茶色の外套で拭くと、下から案内板が現れた。
「上に行く道と、下に行く道で分かれてますね。上に行けば第一発着場、下に行けば第二発着場に着きます」
案内板を信じるなら、それぞれの発着場には待機所が設けられている。発着場を越えると反対側の玄関に繋がる仕組みだ。かなり大雑把な案内なので分かりにくいが、さし当り上に行くか下に行くか決めなければならない。
「とは言っても……上には行けそうにないな」
玄関の右奥にある通路は、落石によって完全に塞がれていた。
「じゃあ、左ですね」
通路の傾斜は緩やかだが、松明で照らしても底が全く見えない。かなり長い距離を歩かなければならないだろう。
騎士の馬から回収したパンを頬張りながら、二人はゆっくりと通路を降りていく。床はひび割れていて歩き難く、カナンは何度か足を取られてつまづいた。イスラは彼女と歩調を合わせながら、ひび割れがあるたびに警告し、時には手を取って引っ張った。
だが、障害は悪路だけではない。瘴土特有のじめじめとした空気も二人から体力を奪った。体内の水分はすぐに汗へと変わり、たっぷり入っていたはずの水筒もどんどん軽くなっていく。まだまだ余裕はあるが、精神的な重圧が掛かると、それを嗅ぎつけて夜魔が寄ってくる。瘴土においてそうした悪循環こそ最も恐るべきものなのだ。
「イスラ」
「何だ?」
「お話をしましょう」
イスラはピタリと立ち止まって、ムッツリとした表情で振り返った。いささか苛立ち混じりの声になっていた。
「無駄口叩いてる場合じゃないんだ。喉も乾く。こんな時に……」
「こんな時だからですよ。瘴土のなかこそ、面白い話をしないと」
額に汗を浮かべながらもカナンはにっこりと笑った。よくそんな能天気な顔が出来るな、と思う。
「へえ、そんなネタがあるんだ」
「ありますよ」
コツン。カナンの杖が音を立てた。
「この旅の目的です」