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【第十七節/アラルト山脈へ】

 改めて継火手と守火手の関係を結んで、意気揚々と出発……という具合には、当然いかなかった。


「……腹が減った」


「そうですね……」


 勢い町を飛び出したは良いが、二人は空きっ腹を抱えて前屈みになっていた。


 昨日、瘴土に入ったのは昼食の後だった。その後騒動に巻き込まれ、イスラはカナンを抱えたまま半日以上街道を歩き続けた。カナンがリダの天火アトルに継火を行った時点で遮光壁が全開になっていたので、丸一日何も食べていないことになる。


 二人ともパンやチーズを切らしていた。野イチゴを入れた袋は潰れて真っ赤になっているし、野菜もほとんど残っていない。水筒は無事だが、水では飢えを誤魔化せない。


「参ったな。せめて食物だけでも仕入れたかったけど」


 かぶの葉っぱを噛みながらイスラが言った。


「すみません、完全に勢い任せで出てきちゃいました」


「いや、気づかなかった俺も悪い」


 不毛な譲り合いだった。謝ったところで食料が出るはずもなく、二人は川に沿って歩き続けた。岩が増えれば魚が獲れるし、水を飲みに来た動物も捕まえられる。大切な話は残っているが、腹を空かせて集中力を欠いた状態では締まらない。


 後になってから気づいたことだが、この時の二人は明らかに油断していた。


 カナンにはカナンで認めてもらえたという安堵感があったし、イスラはイスラで、敵意の渦中から逃れたことによる気の緩みがあった。二人揃って、「まあ夕食でも食べながらゆっくり話そう」という共通認識が出来上がっていたのだ。


 ただ、獲物を捕らえる段となると、流石にイスラは手慣れていた。「この辺りだな」と言って、川の側に出来た小さな空き地に荷物を置くと、ブーツと外套を脱いでズボンをたくし上げた。


 ほとんど音を立てずに川に踏み込むイスラを、カナンは興味津々といった様子で見ている。


 月明かりに照らされた川は、流れは速いがとても浅く、ごつごつとした岩が点在している。イスラは音を立てないように岩へと忍び寄り、その下にそっと手を入れた。


「……居ないな」


 同じように二つ、三つと岩の下を探っていき、四つ目の岩でぴたりと動きを止めた。じりじりと手を進めて、パッと引き抜く。月明かりの中を銀色の物が飛んだかと思うと、カナンの目の前に一匹の魚が降ってきた。


「おお……!」


 カナンが唸る。


「まあ、ざっとこんなもんだ」


「私でも出来ますか?」


「そのうち教えてやるよ。今は腹減ってるから、嫌だけど」


 もうちょっと探してくる、と言ってイスラは川を下って言った。ついでに、カナンに「串刺しにして焼いといてくれ」と頼んだ。


 カナンは適当に薪を集めると、指先から天火アトルを出して点火する。すぐに煙が立ち上り、小枝が赤々と燃え始めた。


 魚の首を折って、焦がした気の棒で串刺しにする。最初は骨の折れる音に嫌悪感を抱いたが、どんな仕事にも我慢することが、イスラと交わした約束だ。それに、物を食べることは命を奪うことと同義なのだ。その折り合いをつけなければ、肉はおろか植物さえ食べられなくなってしまう。


 一尾の魚についてさえ、イスラから教えられることは多いのだな。鱗を短剣で剃りながら、カナンはそう思った。




◇◇◇




 魚の潜んでいそうな岩を探して、イスラはどんどん川を下っていく。途中で三尾ほど捕まえ袋に入れたが、大きさはさほどでもないので、せめてあと二匹は欲しい。


 こうしていると、部族の中で過ごしていた時のことを思い出す。川は重要な拠点となるので立ち寄ることが多く、子供たちは大人の目の届く範囲内で食料調達をさせられた。魚獲りは基本中の基本だ。一人きりになってからも、習得した技術は非常に役に立った。


 だが、またこうして、誰かと食事をするために魚を獲るとは思わなかった。


 これまでは全て自分一人でやってきた。食事を得ることも、寝床を確保することも、任せられる人は他にいなかった。


 森の中での厳しい生活は確かにイスラを強くした。一人の闇渡りとして、生存技術を高めることは喜びですらある。


 だが、カナンという旅の仲間が出来たことで、イスラの世界もまた違ったものに変わろうとしていた。


 それまで一人でやっていたことが二人で出来るようになった。片方が水を汲む間に片方が火を起こす、片方が寝ている間に片方が番をする。この一月の間、何気なくやってきたことの数々が、急速に価値あるものとしてイスラの脳裏に浮かび上がって来た。一人でやるよりずっと楽で、急き立てられる感じがしない。


 結構、この状況を楽しんでいる。


「……楽しむ? 俺が?」


 可笑しいな、とイスラはほくそ笑んだ。


 楽しむってなんだったろう? 魚を取ることにせよ、火を起したり薪を集めたり、寝ずの番をしたり……それは生存のためにすることであって、娯楽の要素は含まない、はずだった。これまで、そういうことをする時も特に感情を抱くことなく、淡々と事務的に行ってきた。日々を生き抜くことに必死で、何かを楽しむ余裕など無かったのだ。


 今、自分の中で確実に何かが変わりつつある。それが良いことなのか悪いことなのか分からないが、その変化を悪く受け取らないようにしよう。イスラはそう思った。


「なんて、俺もずいぶん……」


 そう呟いた時、イスラはふと手を止めた。音を立てないよう川から上がる。ブーツはカナンの元に置いたままだが、足裏の皮は鉄のように硬いので、多少のことでは傷つかない。忍歩きにはむしろ好都合だ。


 姿勢を低くして、這うようにイスラは草むらを進む。伐剣ばっけんを抜いたまま息を殺し、そっと目の前の草を掻き分けてみた。


 小さな道がある。リダの狩人やきこりたちが使っているのだろう、森の中だというのに草が生えていない。


 その上を一人の騎士が進んでいる。鎧は着けていないが、蹄鉄や鞍、あぶみの鳴る音は喧しいくらいだ。片手で松明を握っていて、馬上から周囲に視線を巡らせている。色々と隙だらけなのだが、索敵だけ異様に集中していた。


 目をこらすと、闇の中にいくつも松明の火の揺らめきが見える。見えただけでも五つ。等間隔で一列にならび、ゆっくりと前進している。明らかに何かを探している動きだ。


「どう考えても……」


 動きこそ素人だが、着けているだけは装備は一級品だ。彼らがどこから来て、誰を探しているのか、長々と考える必要は無い。


(どうする?)


 森の中であれば、彼らと隠れん坊をしても百年は逃げおおせる自信がある。だが、今はカナンが一緒だ。さすがに逃げ切れない。しかし、彼女を見捨てるという選択肢は論外だ。


 ともかく、敵の接近を知らせる必要がある。イスラは動こうとした。


 ふと自分の言ったことを思い出す。串刺しにして焼いといてくれ。


 カナンの天火アトルは蒼色。


(やばい!)


 そう思ったが手遅れだった。川の上流で一瞬だけ蒼い光が瞬く。過敏になっていた騎士たちはそれを見逃さなかった。狩りに使う角笛を吹き鳴らし、カナンのいる方に向かって動き出す。


 天火アトルを見られた時点でイスラは走り出していた。悪路などものともせず、狐より早く森を駈ける。あっという間に焚き火が見えてくるが、馬鉄の音も近づいている。


「カナン!」


「きゃっ!」


 飛び出した先にカナンがいた。「おっと……!」イスラは彼女の肩を抱いてなんとか均衡をとる。抱き合うような形で、ふらふらと二人はたたらを踏んだ。


「さ、さっきの角笛……!」


「ああ、追手だ。逃げるぞ!」


「で、でも ! お魚……!」


「棄てろ! ……いや、やっぱ食う。寄越せ」


 カナンが所在なさげに持っていた魚を分捕り、猫よろしく口にくわえた。


 ブーツに足を突っ込みながら生焼けの魚を頬張る。無駄とは思うが焚き火を川に向けて蹴飛ばし、大慌てで樹々の間に飛び込んだ。


 抜き放った伐剣で邪魔な枝を叩き斬りながら、可能な限りの速度で走る。最初は取り乱したカナンも落ち着きを取り戻し、ぴったりとイスラの背中についてくる。


「もう一月も経ったのに!」


 走りながらカナンが叫んだ。


「それだけあんたに執着してるんだよ」


 太い木の根から飛び降りながらイスラが言う。後から降りてきたカナンを受け止め、また先に立って走り出す。


「迷惑です! というか、イスラ。私よりあなたの方が危ないんですよ!?」


「何で」


「……継火手は、一人の守火手しか選べないんです。完全な秘蹟サクラメントは正統な守火手にのみ与えられるもの。だから……」


「なるほど。俺を殺して、全部仕切り直したいってことか」


 イスラは苦笑した。煌都の人間にとって何の価値も無かった自分の命が、今は無二の価値を持っている。結構な皮肉だった。


「果報者のヨブ曰く、一握の灰も宝となる、か」


「古人の知恵ですか?」


「ああ。出来れば別の機会に引用したかったけど……!」


 目の前に現れた岩を飛び越える。続くカナンの手を取って引き上げ、背後に視線を巡らせる。十本の松明が等間隔に並んで近づいてくる。森の中ということもあって騎士たちは本来の機動力を発揮できずにいた。だが、その分慎重に探せるということだ。


「町の方には逃げられないな」


「でも、外側に回り込むことも出来ません」


「……このまま山の方に向かうしかない、か」


 イスラは少しだけ考えてから手を打った。


「カナン、馬は使えるか?」


「え? ええ、一応、そういう教育も受けました……」


「よし」


 イスラは伐剣を納めた。


「馬をってくる」




◇◇◇




 二人を追う騎士たちの目的は共通していた。自分たちの継火手になるべき女性を奪った、憎い闇渡りの首を獲ることだ。


 リダの兵士たちと同じく彼らも事の責任をイスラに押し付けていた。闇渡りとはそういう風に扱うべき人種なのだと誰もが思い込んでいる。夜という嫌悪すべき環境を踏み越えていくことも、怒りに支配された彼らには簡単なことだった。


 一方で、全員の心の中に、叙事詩の主人公になったかのような気分があった。敵は憎むべき闇渡り、その魔の手から美しい継火手の少女を救い出す……冒険が成功した時のことを考えると、それだけで幸せな気分になれるほどだ。


 森の中を進む一人の騎士も、そんな空想を抱いていた。いかに森が闇渡りにとって有利であると言えど、さすがに十人の訓練された軍人が相手では勝てないだろう。彼の中では、イスラは簡単に抹殺することの出来る兎のような存在だった。


 だから、まさか突然木の枝にぶら下がって蹴りつけて来るとは思いもしなかった。


 胸を蹴られた騎士は無様に落馬し、主を失った馬が暴れ出す。イスラはその首筋にしがみ付いて、思い切り尻を蹴りつけた。


 いななきと共に馬が走り出す。乗馬などしたことの無いイスラは、振り落されないだけでやっとだった。


 異変を察知した騎士たちが集まってくる。包囲されるよりも早く、イスラはカナンを拾い上げていた。


「後は頼む!」「任されました!」


 後ろの鞍に跨ったカナンが手綱を取る。荷物や杖は全てイスラが抱えるか持つかしている。


 ピシリという小気味の良い音とともに馬が走り出した。鞍上あんじょうのイスラは可能な限り目を凝らしてカナンに進むべき方向を指図する。カナンはカナンで、洗練された手綱捌きでそれに応えた。


 月光がアラルト山脈の巨大な岸壁を照らし出す。馬の頭は真っ直ぐそちらの方を向いている。二人揃ってごくりと唾を呑み込んだ。


 あんな高い山を果たして越えていけるのだろうか。恐ろしくはあるが、ここで立ち止まればイスラは八つ裂きにされ、カナンはエルシャへ連れ戻されてしまう。それでは何のためにここまで来たのか分からない。


「あそこまで行こう、そうすれば」


「誰も追ってこない……それでも追ってくるのなら……」


 カナンは後に続く言葉を飲み込んだ。


 命の保証はできない、と吐き捨てることは、カナンにはできなかった。

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